苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主イエスの十字架刑が人類贖罪のわざとなることを、サタンは知らなかった

 以前見たイエス伝の映画の中で、ゲツセマネで祈るイエスに対してサタンが十字架にかかるのをやめて逃げよと誘惑する場面があった。イエスが十字架にかかって贖罪のわざを成すとサタンが困るからというわけである。
 だが、思うに、サタンは、キリストの十字架の死が人類の贖罪となることを知らなかったのではないか。もし知っていたなら、サタンは神の御子を十字架にかけるための手はずを整えることなどしたはずがない。最後の晩餐の夜、サタンがイスカリオテ・ユダに入り(ヨハネ13:27)、ユダは敵のもとに走って、主イエスを売り渡したことを見れば、サタンが神の御子を十字架刑で侮辱の限りを尽くして後、殺害してやりたいと切望していたことは明らかだろう。
 ところが、サタンが「ついにイエスを十字架につけて殺してやったぞ」と、勝利の快哉の叫びを上げたとき、御子イエスは勝利を得られたのである。御子の十字架刑を人類の贖罪のために用いるというのは、隠された奥義、神の知恵であった。

「2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。
2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
  2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(1コリント2:6−8)


 2章8節の「この世の支配者たち」というのは、ピラトや祭司長のことではなく、堕落した御使いたちのことを意味しているのではないかと思われる。
 サタンは、その傲慢とか虚栄とかいう本性のゆえに、十字架の辱めを通して栄光にいたるという道を思いつくことができないのではなかろうか。
 C.S.ルイスが『ライオンと魔女』で、アスランが魔女どもの侮辱の末に死んだがよみがえった理由について、罪なき者が罪ある者のために死するときに起こることとして、世の始まる前の定めとして語っているのは、この箇所の理解があると思われる。