苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

王の奉仕

マタイ17:24−27

17:24彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。 17:25ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。 17:26ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。 17:27しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。


1 宮の納入金をめぐって

(1)主イエスには納入金を納める義務はない

 この聖書箇所は四福音書の中でマタイ福音書の特種記事です。マタイは取税人だったので、宮の納入金ということが気になったからかもしれません。主イエスは弟子たちとともにガリラヤ湖のほとりの漁港であったカペナウムにやって来ました。もともと、ペテロ、アンデレ、ヤコブヨハネはこのカペナウムの町で漁師として生活をしていたのです。ペテロの家もここにあり、彼の姑も住んでいました。ペテロは宮の納入金の集金係たちとも顔見知りだったのだろうと想像されます。
 宮の納入金(2ドラクマ=2デナリ新約時代)というのは、出エジプト記30章13−14節に基づいて、イスラエルの民がそれぞれ自分自身の贖い金として納入するものであって、二十歳以上の人はみな納入することになっていました。金額にして労働者の二日分の賃金ということです。これはエルサレム神殿の維持運営のために当てられました。
集金人はペテロの納入金を集めに来たときに、「君たちの先生はどうなんだい?」と聞いたのでしょう。そこで、ペテロは「おさめるさ」と言って、家に入りました。この家はおそらくペテロ自身の家だと思われます。そこに滞在しているイエス様にこの件について話をしようとしました。そうしたら、「先にイエスのほうからこう言い出された」とあります。イエス様は集金人とペテロの問答をすべてご存知だったのです。

エス様はひとつ譬えを持ち出されて、イエス様がどういうお方であるかということと、イエス様はどういう行動原理になって生きていらっしゃるのかについて教えてくださいました。それはまた、「キリスト者の生き方」の模範ともなることです。
「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」
現代に生きている私たちにはちょっとわかりにくい譬えです。現代世界では王たちも納税するのが普通のようです。イギリスの王室は、世界有数の資産家であって、高額納税者だそうです。しかし、イエス様の時代には領土と領民とは王様の財産でした。王が自分の子どもから税を集めることはありえないことでした。王と国民の関係は、大家さんと店子の関係みたいなものでした。大家さんが自分の家に住む子たちから家賃を取らないでしょう。
 それと同じことが神の御子イエス様についても言えるわけです。神殿の大家さんは、イエスの父です。ですから、大家さんの息子であるイエスさまは、店子である私たち人間のように宮の納入金を払う義務はありません。
 考えてみれば、宮の納入金どころの話ではありません。コロサイ書に、「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 」(1:16)とあるとおり、世界の所有者はイエス様なのですから、イエス様としてはこの世が求めるすべてのことについて義務はありません。畑に実るさまざまな作物も、海でとれた魚も、店先にならぶすべてものもの、もともとイエス様のものなのです。イエス様は代金を支払う義務など本来ありません。

17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。


(2)つまづかせないための配慮

 ではイエス様は「わたしは宮の納入金を納める義務などないのだ」と言って突っぱねたでしょうか。そうはなさいませんでした。イエス様はご自分の納入金だけでなく、ついでにペテロの分も不思議な方法で目の前に出して、ペテロに納めさせました。
17:27 「しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」
  なんでイエス様は、支払う義務もない宮の納入金をあえて納めたのでしょうか。27節に書かれているように、「彼らにつまずきを与えないために」でした。筋から言えばイエス様は払う必要がなくても、払わないというならば、世間の人々は「宮の納入金も納めないなど、不敬虔なやつだ」とか「神の愛は説いても、すべきこともしなけりゃだめさ」とかいろいろ言うでしょう。そして、神の国の話を聴こうという気をなくすかもしれません。ですから、神の御子イエス様は、ご自分は宮の納入金を払わない特権がありましたが、その権利を行使することなく、納入金を支払ったのでした。
でも、おさなかの口から取り出したスタテル銀貨で払ったというのが、自由で楽しげでしょう。イエス様は、いやいやでなく実に楽しげに納入金を払われたのです。これは大事な点です。奴隷のようにいやいや、びくびくしてでなく、王のように自由に喜んで進んでです。
 つまり、イエス様の生き方は、二つの原理に貫かれていました。イエス様はあらゆる人々の上に立ち万物の上に立つ王としてあらゆることから自由なのです。いやいやしなければならないことなど何もありません。そういうのは奴隷的ですからね。 けれども、イエス様は人々をつまずかせないために、彼らに福音のつまずきを与えないために、愛の配慮をもって、進んでご自分の自由を制限するという選択をされたのです。愛ゆえに、自分の自由を制限する自由を行使なさったということができます。


2 キリスト者の自由

 このイエス様の生き方の原理は、私たちキリスト者の生き方の原理でもあるのだということをパウロは手紙の中で何度か述べています。パウロは次のように言っています。

1コリント9:19−23
「9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」

 まずパウロは自分は誰に対しても自由であって、奴隷ではないと宣言します。誰かの奴隷であれば、自分の意に沿わないことも義務としてしなければならないけれども、自分にはそんな義務はないのだというのです。ユダヤ人に対しても自由だし、異邦人に対しても自由だというのです。
ユダヤ人たちは様々な儀式律法に縛られて生活していました。卑近なことをとりあげれば食物に関する規定があって、豚肉とか馬肉とかウナギとかタコやイカを食べてはいけないことになっていました。しかし、パウロはイエス様を信じたことによって、そうした儀式律法からは解放されたので、自由に食べてよい立場になりました。けれども、ある町でパウロが福音を伝えようとしている相手のユダヤ人たちが、「パウロはとんかつ食べたんだって。」と噂して、「そんなやつの話を聞くわけには行かない」といって福音に最初から耳を傾けないとしたら、どうでしょう。イエス様に申し訳ないことです。それでパウロは、そういうつまずきを与えないために自分の自由を行使しないという選択をしました。
 また、異邦人に対してもパウロは自由でした。でも、やはり異邦人の習慣にそわないことをパウロがあえてするならば、異邦人である彼らはそれで心閉ざして福音に耳を傾けなくなるでしょう。そこで、異邦人に福音をあかしするために、極力異邦人の生活習慣になじむようにしました。ハドソンテーラーという宣教師は、清朝の時代の中国に入って伝道したとき、頭を当時の中国人風に辮髪にして伝道しました。彼が中国人のたましいの救いをせつに願ったからにほかなりません。
 

3 クリスマスの模範

 福音に導くために、自分の自由をあえて制限することを、自ら進んで選択するという模範は、主イエスご自身にあります。宮の納入金のことは小さなことです。神の御子であるイエス様が、天の父の右の栄光の御座をあとにして、被造物にすぎない人間となってこの世に来られたという最初のクリスマスの出来事は、まさに、愛ゆえに自分の権利を放棄したという模範です。ピリピ人への手紙2章です。

「2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

 神の御子であるイエス様には、神にそむいた被造物である私たちを救わねばならないという義務などはさらさらなかったのです。なかったのですが、罪の中でもだえ苦しんでいる私たちをイエス様はあわれまれた。私たちを愛されました。それで、父なる神のみもとでのこの上なくすばらしく清く快適で自由ですべてを所有なさった生活を擲って、人となってこの世界においでくださったのです。
 

結び
 さて、私たちの生き方への適用です。「それが義務ならやるけど、義務じゃないなら、しないよ。」というのが、人として最低限度の生き方ということです。義務を果たさなければ、それは罪ですから。けれども、キリストに結ばれた私たちが、最低限度の生き方しかしないとするならば、それは情けないことです。それで、キリストの証人となることはできません。
 いやいやではなく、むしろ、愛のゆえに、キリストの福音をあかしするために、自分の権利もときには放棄して、相手のために奉仕する。人が落としたごみを見て、「あれは私が落としたごみじゃないから、関係ない」などといわないで、自分のごみのように拾って生きていく。それが、クリスマスの真実の意味をわきまえている私たち神の子どもたちの生き方です。