苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「すでに」と「いまだ」の間を生きる

マルコ9:2−29

1 山の上と山の下

 山の上で弟子たち三人は、目の前でイエス様の姿がにわかに太陽のように輝き、しかも、そこに旧約時代の預言者モーセとエリヤが出現して、主の栄光を反映して輝いている姿を見て、聖なる感動に震え上がりました。ペテロなどは、こんなすばらしい聖なる体験がずっと続けばよいと思ったので、モーセやエリヤが帰ってしまわないために、休憩所を用意しましょうかと提案したほどでした。それはまさしく天国の前味というべき体験でしたから、彼らがずっとそこで主とともに過ごしたいと願うのはもっともなことでした。
 けれども、ほどなく輝く栄光の雲が三人を覆ってしまい、雲のなかから神の声が聞こえたかと思うと、そこにはイエス様だけになっていたのでした。この体験は、弟子たちの心に深い印象を残したので、ペテロとヨハネは後年それぞれに手紙の中で、栄光の主にお目にかかったことを書き残していることは、先日確認したことでした。主が私たちを迎えに来られる日、今度は主は栄光の姿でおいでになり、また、私たち自身も聖なる姿に変えていただくという希望を私たちは与えられているのです。

 そんな、すばらしい天国の前味をあじわって、イエス様とともに三人の弟子は山から下りてまいりました。すると、そこに待っていたのは、山の上とは似ても似つかない不信仰な世界だったのです。
 群衆が病気の少年を中心に集まっていました。その前で、主イエスが山のふもとに残していった弟子たちと律法学者たちが論じ合っていました。この少年の病気というのは、癲癇的な症状を呈する悪霊つきでした。他のケースでは主イエスの弟子たちが主からいただいた権威をもって命じると、悪霊はさっと出て行ったのですが、どういうわけか、この少年の場合にかぎって、悪霊が出て行かなかったのです。少年の父親は落胆し、主イエスの弟子たちは「なぜだろう?」と当惑し、律法学者はこれ幸いと主イエスの弟子たちを攻撃していたのでした。また、群衆は、律法学者と弟子たちの議論を取り囲んで聞いていたのです。山ノ下には、不信仰、落胆、あざけり、失望、好奇心といったものが渦巻いていたのです。

9:14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
9:15 そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
9:16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれた。
9:17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。
9:18 その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」

 つい先ほどまでの山上での輝かしい聖なる天国的な場面と、なんと対照的なことでしょうか。
 ですが、振り返ってみれば、私たちキリスト者も、毎週このような経験をしているのではないでしょうか。主の日、教会に集って、兄弟姉妹たちとともに賛美をささげ、みことばに耳を傾け、内側を探られて、聖なる神のご臨在に触れ、悔い改めたり、あるいは感謝したりして、その日を過ごすのですが、また家に帰り職場に出かけてゆくならば、そこは不信仰や怒りやねたみや争いが渦巻いている世界なのです。その中でもみくちゃにされそうになりながら、なんとか地の塩としてあるいは世の光としてキリストの証しに生きようと奮闘する。奮闘するけれどもしばしば敗れて、また主の日を迎えるといったような。
 今、私たちのうちには、すでに神の国は来ているのです。けれども、いまだに、完全には神の国は到来していません。主イエスの再臨のときまで、神の国の本格的到来は待たねばならないのです。私たちは、しかし、すでに罪赦され、神の子どもとされたことを感謝して、このいまだ神のご支配が到来していない世界に遣わされて、地の塩として世界の光として福音をあかしする生活をするのです。


2.信仰と不信仰

(1)弟子たち
さて、イエス様も、群衆、弟子たちと律法学者たちの議論しているありさまに、いささかお怒りになったように、おっしゃいました。

9:19 「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 こういうふうに言われると、私どももシュンとしてしまいそうです。イエス様が不信仰を嘆かれた相手というのは、ひとつは弟子たちについてです。「この種のものは、祈り(と断食)によらなければ追い出せない」とおっしゃっていますから、弟子たちの祈りが足りなかったということになります。
 イエス様から悪霊を制する権威をすでにいただいて、何度もそういう実践をしてきた弟子たちでしたが、数をこなすうちに、恐らく悪霊を追い出すくらい自分たちで出来るんだと思い上がるようになっていたのではないかと思います。祈りが足りないというのは、弟子としての神通力が足りないという風な意味ではなくて、イエス様に頼り切っておらず、自分でできると思いあがっていることを意味します。祈るという行為に力があるのではなく、自分の無力を認めて、神に頼ることによって神の御力が働くのです。何事であれ熟練することはよいことですけれども、主の弟子としての働きに熟練してくることによる、悪い意味での「なれ」が働いてしまわぬことが大切です。 
 この箇所を読んでいて、「お前は『慣れ』が生じていないか」と探られました。神学校のとき、小畑進先生が、「生涯、説教のご奉仕にあたっては、脚が震えている説教者であるように」とおっしゃったことを思い出しました。祈らずとも結構出来てしまう、というふうに慣れてはいないか?と。(私のばあい講演や講義には慣れることはあっても、主の日の説教に関しては、いまもって慣れることはありませんが。)


(2)父親の信仰・不信仰
 さて、信仰を問われたもう一人の人は少年の父親でした。人々は主のもとに少年を連れてきました。

9:20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。

 見たところいわゆる癲癇的な症状です。この種の症状は、医学者によれば脳の神経細胞の中で過剰な活動が起こることによって生じるものだそうです。通常の癲癇のばあい、その過剰な活動は遺伝的素因や怪我で脳を損傷したことが原因で起こります。しかし、この子どもの場合はそうではなくて悪霊の働きによって、脳の神経細胞内で過剰な活動が起こって、こうした症状を呈していました。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」とあとで言われていますが、癲癇的な症状が出たときには、口も耳も聞かなくなっていたのでしょう。
 イエス様が父親にこの子の様子を聞けば、この症状は子どもが幼い頃から繰り返し生じていたものでした。父親は、なんとかしてこの子を助けたいと思っていました。「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」他の人々にも散々頼んできても埒があかず、主イエスの弟子たちさえも手に負えなかったので、父親は「ただ、もしおできになるものなら」と言ってしまいました。それを聞いて、主イエスは厳しくおっしゃいました。 9:23「できるものなら、と言うのか。」失礼な!
 小学一年生の子どもが父親に、「お父さん この算数の問題教えて。でも、もし分かるならでいいんだけれど。」とは言わないでしょう。お父さんを信頼しきって、教えてちょうだいというでしょう。イエス様は、全能の神にとって出来ないことなどないのだ。「できるものなら」というのは、神を信頼していない証拠だろう。神に不信感をもっていて、何かを聞いてもらおうということは出来ない相談だとおっしゃるのです。父親はあわてて、すがりつくように叫びました。 9:24「信じます。不信仰な私をお助けください。」
 「信じます」と父親は、信仰を表明しました。けれども「信じます」と叫んだ瞬間、またも、彼の心に「でも、どうだろうか?」という疑いが湧いて来たのです。それで、「信じますといいながら、信じ切れない私をどうぞ、主よ助けてください。信じる力を与えてください。」と言っているわけです。 ・・・これは、主を信じて生きている人であれば、誰もが経験している葛藤ではないでしょうか。
 「信じるか信じないかわからない」という中途半端な態度から、「信じます」と決断することはたいせつです。しかし、一度、「信じます」と決断すればそれで二度と揺らぐことはないかというと、心に「信じてよいのか?」という思いが来る。でも、そのとき「この不信仰な私をお助けください」と叫ぶことが許されているのです。不信仰な私を支えて、信じ続けること信じぬくことができるようにしてくださいと願えばよいのです。信仰もまた神の賜物なのです。主は、信仰弱い私たちを支えて、信仰をまっとうさせてくださいます。


結び
 私たちは「すでに」と「いまだ」という時のなかに生かされています。 アダムの堕落以来待ち望まれていた救い主イエス様はすでに2000年前この世界に来られて、私たちの罪を背負って十字架に架かって死んで三日目によみがえってサタンに対して勝利を得てくださいました。御国は「すでに」始まったのです。 それにもかかわらず、この歴史に決着をつけるために主イエスが再び来られて御国を完成なさるまでは、この世はサタンの影響を受けていて、多くの人はキリストに背を向けたままで、「神などいるものか」といった生活をしています。
ですから、私たちは主の日には真の神を賛美して、光の中に置かれた経験をするのですが、ここからそれぞれの家庭や職場に遣わされてゆけば、神を知らない世界のなかでさまざまな葛藤を経験しなければなりません。けれども、その時、主がすでに来られたこと、主はすでにサタンと罪と死に勝利を獲得なさったことを思い出しましょう。そして、御国がやがて来ることを思いましょう。
 また、私たち自身、イエス様を信じて、すでに罪をゆるされ、神様の子どもとしていただいて、聖霊の宮としていただいて生かされています。しかし、それにもかかわらず、私たちはなおこのからだのなかに罪が住んでいることを認めざるを得ません。使徒パウロも自分のからだのなかに罪が住んでいることに気づき、「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(7:23,24)と嘆いています。
 しかし、己の罪を嘆くということは、実は、その人の内にキリストの御霊が住んで働いていらっしゃることのしるしにほかなりません。キリストの御霊が働いていらっしゃらなければ、神の前で罪にまみれた自分を認めることはできないのです。このように私たちは、自分の内面においても、「すでに」来た御国を経験しつつも、「いまだ」御国が完成していないことに気づきます。そのとき、私たちは「私はまだ救われていないのではないか」という疑念にとらわれないようにしましょう。御国はすでに来たのです。そして、今という時は、やがて来る御子とともに生きる栄光の御国でのいのちへの途上なのです。
 そのようなものですから、私たちは「信じます。不信仰な私をお助けください。」と、主の前に絶えず信じますという決断をしながら、主に信仰を支えていただいて今週も歩んでまいりましょう。主が支えてくださいます。