苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

あすは召天者記念礼拝

 小海の教会では、明日、召天者記念礼拝をささげることになっています。例年ですと、もう少し早めにするのですが、今年は11月の第三主日となりました。私は小海に来て9人の方を天に送りました。
 子どものころ、お盆になると、父が「お盆には地獄の釜のふたが開いて、先祖の霊が骨休めに帰って来るんや」と教えてくれたのを思い出します。子ども心に、「ああ、先祖は地獄に行っとうんか。ぼくも行かなあかんのかな。こわいなあ。」と思いました。
 お盆ということばを調べると、盂蘭盆(ウラボン)の略だと知りました。ウラボンというのは、インドのウランバナという言葉がなまったものだそうです。ウランバナとは「倒懸(とうげん)」つまり逆さ吊りという意味です。逆さ吊り地獄ということです。・・・これを知ったとき、不謹慎かもしれませんが、つぼ焼き芋を思い出してしまいました。蓋を開けると、かぎ状の針金に芋がぶらさがっていて、下の方に炭火が見えるのです。
 いちばん古いお経を見ればわかることですが、お釈迦さんは死後の問題について何も話していません。盂蘭盆のことは、『仏説盂蘭盆経』という3世紀頃に中国で作られた偽経に書かれています。お釈迦さんの高弟、目連が神通力で餓鬼道地獄に落ちている自分の母親が渇きで悲惨な状態に陥っているのを見て水をやろうとしますが、ジューッと乾いてしまってやれません。それで悲しんでいると、お釈迦さんが修行僧に施したら、お母さんに届くことになるよと教えたというのです。それと、日本古来の迎え火送り火の習俗が合体したのが、日本で言うお盆の行事のようです。
 いずれにせよ、死後の世界は冥土つまり光のない暗い世界と呼ばれ、死後はウランバナにされるかもしれないというので、人は死を考えると恐ろしく暗い気持ちになってしまいます。
 これは、聖書に予告されている主イエスがもたらしてくださる終末の御国のありさまとはなんと違うことでしょう。そこは、いのちと愛と光に満ちています。
 

  22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
          黙示録22章1−5節