苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書観と聖書解釈

 ずっと前から気になっている事柄について、とりあえずメモしておきます。



1 聖書観は聖書解釈を左右する


 われわれは無前提に聖書を読むことはできない。自覚的にせよ無自覚的にせよ、聖書をどのようなものとして見ているかが聖書解釈を決定する。
 時空を超越した生ける神が実在し、その神が聖書を啓示したということを認めず、聖書はあくまでもある時代のある文化の中に置かれた記者がある執筆事情において著述したものを、教会が結集した総体であると信じている解釈者は、その書が執筆された時代の言語的・文化的・歴史的背景と執筆事情と著者の特性に注目し、それらとの関係性においてのみ聖書の各書を解釈しようとする。こうした聖書観の前提にあるのは、無神論自然主義か、あるいは、理神論的自然主義である。こうした前提に立つ解釈者は、必然的に聖書の統一性を否定ないし軽視して、聖書の各書を各書の中で読むことに意を注ぐ傾向があることになる。
 他方、聖書は神が聖書各書の記者を動かして著述させたものであり、教会による66巻の結集にも神の摂理があることにこそ聖書の聖書たる本質があると信じる解釈者であれば、時代や文化をさして顧慮せずに有機的な統一体として聖書を読もうとする傾向が強くなる。聖書を組織神学のプルーフ・テキスト集のような読み方をする解釈者の前提には、こうした聖書観がある。
 本稿では、前者を聖書の人言性に偏した解釈であり、後者を聖書の神言性に偏した解釈と呼ぶことにしたい。ことがらを明瞭にするために、あえて極端な二つの立場を挙げてみた。聖書の人言性を強く信じる解釈者は各書ごとに読むことに意を注ぐことこそが聖書の正しい解釈であり、それらの解釈の結果を合計すれば聖書全体の真理が捉えられると考える傾向が強くなり、「木は見るが森は見ない」という過ちに陥る。彼らは実際には全体は部分の算術的合計以上のものであることに気づかない傾向がある。他方、聖書の神言性を強く信奉する解釈者は、66巻各書の特性よりも聖書が全体として何を語ろうとしているかを知ることが聖書の正しい解釈であると考える傾向があり、これは上の立場と反対の極端に走ると「森を見て木を見ない」ということになる。
 保守的福音的な信仰において標準的とみなされる聖書の十全霊感説においては、聖書には神言性と人言性とが兼ね備わっているものであるとしている。したがって、われわれは聖書各書のしるされた時代・文化・執筆事情・記者の特性といったことを考慮しつつ各記者の執筆意図を探り求めるが、同時に、究極的には各書記者を用いた著者である神の意図を求めて聖書全体を参照しつつ各書を読むことが肝要であるということになる。

「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」
使徒20:27)

2 創世記1章26節における「われわれ」の解釈をめぐって

 具体例をあげてみたい。まず、創世記1章26,27節「われわれ」の解釈について。

「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちにおいて(be)、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちにおいて(be)創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:26,27)

 「神は唯一である」というのはトーラーにおける中心的メッセージである。ところが、トーラーの最初の書、創世記の巻頭に、神が「われわれは造ろう」「われわれのかたちにおいて、われわれに似せて」と言明していることは不思議なことである。実際、執筆者はどういう意図をもってこれを書いたのだろうか。われわれは、これをどのように解釈すべきだろうか。
 聖書の人言性に力点を置く解釈者は、これは当時オリエントでの表現方法における「尊厳の複数」として理解すべきであるとか、あるいは神が天使たちに相談したと解すべきだといった主張をする。唯一の神が「われわれ」と言明したと記したのかということについては、書き間違いでなければ、そのくらいの説明しかしようがないのかもしれない。
 では、この箇所について聖書の他の箇所はどうコメントしているだろうか。旧約聖書のなかでは箴言8章は創世記1章26,27節の「われわれ」にある光を当てている。

「【主】は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。
深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。
山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。
神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。」

 箴言8章を参照するならば、「わたし」という人格的な「知恵」が創世記1章26,27節において神が相談した相手であり「われわれ」の構成員であるということになる。

 さらに、新約聖書記者たちは、この創世記の1章26,27節における「われわれ」についての真相を啓示している。まずヨハネ福音書では・・・

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:1−3)

 また、主イエスは次のように祈られた。

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)

 コロサイ書もまた次のように述べている。

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:15−17)

 つまり、ヨハネ福音書とコロサイ書によるならば、創世記1章で、神が人類を創造なさるにあたって「われわれ」と言明された理由は、御父と御子とが(三位一体論的にいえば御父と御子は聖霊における交わりにおいて)そこにおられたからなのである。
 新約聖書が未完成だった時代、初代教会にとっての神のことばは旧約聖書のみであった。彼らが、旧約聖書のどこに人として世に来られる以前の神の御子、いわゆる先在のキリストが記されているのかを探し出し読み取るということは、たいへん重要なことであったと推察される。主イエスは復活の後、エマオ途上で「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:27)とある。もし旧約聖書の初めから説き明かされたとすると、主の最初の説き明かしは、創世記1章26,27節における「われわれ」にかんすることであったのかもしれない。「あの『われわれ』というのは、父とわたしのことなのだよ。」と。
また、ヨハネ福音書、コロサイ書の人言性という観点からいえば、彼らは創世記の件の箇所をそのように「解釈」したと表現することになろうが、神言性という観点から言うならば、両書の記者は創世記の件の箇所についてそのような啓示を受けたのである。

アレクサンドリアフィロンの件にも触れたい)

3 創世記1章26節「神のかたち」の解釈
 もう一点、コロサイ書記者が創世記1章26,27節について述べている教えについて述べたい。コロサイ書1章15節が、創世記における「神のかたち」とは実は御子のことなのだと教えていることである。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」とあるとおりである。
 その根拠は、用語的には、七十人訳聖書の創世記の当該箇所で用いられる「かたち」はeikonと訳されており、コロサイ書でも同じ語eikonが用いられていることである。しかも、コロサイ書が創造論の文脈において「神のかたち」に言及していることを鑑みれば、コロサイ書記者が創世記1章26,27節を意識していたことは確かである。
 創世記の当該箇所の「神のかたち」は受肉以前のキリスト(先在のキリスト)のことであるという理解は、コロサイ書に基づいて、古代教父エイレナイオス、オリゲネス、アタナシオスもしている。詳細は拙論「『神のかたち』であるキリスト」を参照されたい。
 創世記の人言性という観点からいえば、創世記記者が「神のかたち」と記したとき、彼が「『神のかたち』とは神の御子、来るべきキリストである」という理解をもっていたとは言いがたい。またコロサイ書の人言性という観点から言えば、コロサイ書記者は創世記の当該箇所の「神のかたち」は神の御子のことなのだと「解釈」したのである。しかし、聖書の神言性という観点から言えば、神は創世記記者を導いて「神のかたち」と記させ、時満ちてコロサイ書記者にあの創世記の「神のかたち」という言葉は「見えない神の御子」つまり先在のキリストを意味していたことを明らかにされたのである。


参照:「『神のかたち』であるキリスト」
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20121025/p1