苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

恩寵のみ、聖書のみ

ローマ1:16,17、3:19−24


ヴァルトブルク城


 本日は、宗教改革記念礼拝です。


1.中世ローマ教会の悲惨

 宗教改革について語るには、どうしてもマルチン・ルターその人について語らなければなりません。それは神はマルチン・ルターという強烈な個性の霊的経験を通して、聖書に啓示されながら千年間も曇らされていた信仰義認の教理を再発見させたからです。
 さて、キリスト教会の二千年の歴史をおおざっぱに区切りますと、まず1世紀から6世紀までが古カトリック教会時代と呼ばれます。この時代、教会は帝国の迫害下にありましたが、聖書が正しく教えられ正統的教理を確立しました。
次の7世紀から15世紀の間は中世カトリック教会と呼ばれます。キリスト教会は帝国の国教とされて、政府と対峙するほどの権力と富と名誉をもつようになります。十字軍が行なわれたのもこの時代のことです。しかし、富と権力と名誉を持つようになった教会は堕落していきました、権力者は教会の力を利用して、ローマ教皇に誰がなるかということに権力者は権謀術数をめぐらせるようになっていきます。
 中世には、教会では聖書が読まれなくなって、読まれてもラテン語で一部朗読されるだけでした。礼拝の中心は、みことばでなくミサという迷信化した儀式でした。
 中世教会の教えの根本的特徴は、救いは神と人が協力して働いて救いというものは成り立つのだという考えです。神人協動説と呼ばれます。神人協働説はたとえばメリットの教えと免罪符として表現されました。
中世の教会の考え方は、聖俗二元論でした。つまり聖職者・修道院は聖なる人々ですが、一般信者は俗なる人々である。俗なる世界に住む一般信者がどんなに善行をつんでも救われないし、山上の垂訓が求めるような生活はできない。だから、マリヤやペテロをはじめとする聖人・聖職者・修道士たちが戒律を守って積み上げた功徳のおこぼれ与って救われるほかないという聖書に何の根拠もない迷信を教えました。
 免罪符の教えもまた、神人協働説の現れです。煉獄に落ちた人々が積み足りなかった功徳を、人が免罪符をお金で買うことによって補うことができるというのでした。そのお金は聖ペテロ寺院建設資金となるというものでした。


2 恩寵のみ

(1)きまじめな修道士
 さて1483年、ドイツのマンスフェルトで、マルチン・ルターは父ハンス・ルターの次男として生まれました。父ハンス・ルターの教育方針はドイツ人らしい峻厳なもので、ルターを悩ませた峻厳な神のイメージはこの父親の影響を受けているのではないかと言われます。父ハンスは鉱山夫から身を起こして小さな坑山の所有者となっていた人物で、自分の息子には学問と名誉を手に入れさせたいと考えました。それで、マルチンをエルフルト大学文学部(現在の教養課程にあたる)に進ませます。
エルフルト大学で学んだルターは、卒業間近に、同級生が試験中に急性肋膜炎で急死するという経験をしました。このとき、ルターは死の恐怖というものを体験し、自分自身もまた厳格な審判者である神の前に立たねばならないことを意識するようになりました。 やがて、マルチンは文学部を終えて彼は父の命令にしたがって法学部に入りました。当時、身分制度社会のなかで法律家になることは庶民の出世のための登竜門であったからです。
ところが、神様にはルターについて別の計画がありました。法学部にはいった直後、ルターは故郷のマンスフェルトからエルフルトに戻る途中、激しい落雷に見舞われました。彼は死の恐怖におののき、「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります。」と修道士として自分の身を捧げる誓いを立ててしまいました。こうしてマルチンは父の期待に背いて、アウグスティヌス会の修道院に入ってしまうのです。落雷に打たれたルターが神、キリストにではなく、聖アンナに向かって祈ったというのは、ルターも中世の迷信に縛られていたことを示しています。

 修道士となったルターはきわめて謹厳な修道士でした。ルター自身が後年、述懐するところによれば、「ほんとうのところ、私は敬虔な修道士であった。私は非常に厳格に修道会の戒律を守ったので、次のように言うことができる。『もしこれまでひとりの修道士でも修道士生活によって天国に入ったのなら、私もそこに入れるだろう。』と。私を知っているすべての修道士仲間は、そのことを証言してくれるだろう。なぜなら、もっと長く続いていたなら、私は徹夜、祈り、朗読、その他の務めで自らを苦しめさいなみ、そのため死んでしまっていたことだろうから。」しかし、彼が修道に徹して知ったことは、いかに苦行を重ねても霊魂の汚れがきよめられることはできないという事実でした。
そこでルターは痛悔で神の前に赦しを得ようとしました。痛悔とは洗礼後に犯した罪が赦されるために設けられたローマ教会の秘蹟です。完全な痛悔とは、「父である神と救い主イエス・キリストを愛する心から、その愛に背き、その恩を無視したという理由から、犯した罪を悔やみ、忌み嫌う」ことであり、完全痛悔する者のみが神に罪を赦していただけるのです。他方、不完全な痛悔とは「罪を罰する神の正義を考え、地獄、煉獄、この世における神の罰を恐れて、犯した罪を悔やみ、忌み嫌うこと」です(『カトリック要理』)。不完全な痛悔では神と和解することはできない、とされるのです。
 さてルターは完全痛悔をしようとしたのですが、彼は不完全な痛悔に陥ってにっちもさっちもいかなくなってしまいます。というのは、ルターは神の正義と神の下す罰にふるえおののいていたからです。自分にとっては神を愛することは、地獄の罰から救われたいということが動機にすぎなかったのだと知ったのです。その愛は自己追求という罪によって汚れており、この自己追求こそ罪の根源であることをルターは認識するわけです。そして、どう苦行して完全痛悔を求めても自己追求という罪から逃れることができない醜い自己に絶望したのでした。まさにローマ書3章19−20節のいうとおりです。
「3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」


(2)塔の経験−−「神の義」の理解
 ルターはいかなる意味でも、自力救済の道は閉ざされていることを認めました。悩むルターは、人に勧められてヴィッテンベルク大学の一角の塔の一室で聖書の研究を始めます。ところが、ローマ書を研究しはじめたルターは、すぐにその一章十七節につまづいてしまいます。
「神の義は、その福音のなかに啓示されている。」
ルターはこの「神の義」とは、神が正義であり、その義によって罪人を罰する義であると考えていました。神は、律法を行うことができずにうちひしがれている罪人を、福音のうちに啓示される義によってさらに苦しめていると彼は誤解したのです。ルターは後年、次のように言っています「私は義にして罪人を罰する神を愛さず、むしろ神を憎んでいた。なぜならば、私は非の打ち所のない修道士として生きて来たにもかかわらず、神の前で自分が良心の不安におののく罪人であると感じ、私の償罪の行いによって神と和解していると信じることができなかったからである。」
 しかし、やがて聖霊はルターに福音の真理を明らかにされました。すなわち、ローマ書にいう「神の義」とは、正義の神が罪人をさばく義でなくて、神が罪人にお与えになる贈り物としての義であると悟ったのです。ローマ書3章21−24節にあるとおりです。
  3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
「神の義は、この方が義である義ではなく、われわれがこの方により義とされる義と解されねばならない。」(「ローマ書」)神は、罪人がいかに修業しようと自分を義とできないので、キリストの義を贈与してくださったのです。これが、人は行いによらず信仰によって義とされるという使徒パウロの福音の発見、「恩寵のみ」という宗教改革の原理です。


3 「聖書のみ」・・・宗教改革

 当時、ローマ教会は聖ペテロ寺院改築のために免罪符を売り出していました。免罪符説教者は、免償状を買う者の金がチャリンと献金箱の中に落ちるとき、その者のあらゆる罪は赦され、さらに煉獄で苦しんでいるその人の親も罪赦されて天国へと移されると説いていたのです。いわゆる追善供養ですね。
 1517年10月31日。ルターはこれに抗議して、「九十五か条の提題」を発表しました。彼としては宗教改革など起こすつもりはなく、ただ神の御前における罪が免罪符を買うという安易な行ないによって赦されるという教えは、魂を永遠の滅びに陥れる危険なものであるとして、抗議をしたのです。彼がいいたかったことは、<人は免罪符を買って、「神に罪赦された、平安だ」と思った瞬間、滅びてしまう。逆に、人は自らは神の御前に滅ぶべき罪人であると恐怖しておののくときにこそ、ただキリストのうちに贈与としての義を見いだす道が開かれる。」という、ルター自身が体験し聖書に見出した福音の真理でした。
 ルターは、ただ聖書の博士として教会の教えを正したいと思ったにすぎません。ところが、神のご計画は違っていて、事態はこの後、ルターにとって思いがけない方向へと展開してゆきます。ローマ教会当局は、ルターにその見解を取り消さなければ異端として破門すると通告して来たのです。
一五一九年のライプチヒ論争では、ルターは教皇に盾突いて火刑に処せられた、ボヘミヤのヤン・フスと同意見の異端であると断じられました。しかし、さらにルターは文筆活動をもって教皇制度の批判を展開していきます。そのため、彼はついに教皇から破門状を出されますが、これをヴィッテンベルクの全学生の前で公然と焼却してしまうのです。
 さらにルターは一五二一年4月16日から26日のヴォルムス国会に召喚され、その著書を取り消すことを最終的に求められました。拒否すれば火刑が待っているという状況です。時にルターは言いました。
「皇帝陛下ならびに領主が単純な答えを求めておられますので、私は両刀論法を使わずに、次のように答えたいと思います。即ち、聖書の証しによって、あるいは明白な理由と根拠によって−−なぜなら、私は、教皇公会議もそれだけでは信用していません。というのも彼らがしばしば過ちを犯し、矛盾したことをいってきたのは明白なのですから−−克服され、納得させられないかぎり、私はすでに述べたように、聖書に信服し、私の良心は神のみ言葉にとらわれているのですから、私は取り消すことはできないし、また取り消そうとも思いません。(後略)」
これぞ宗教改革の形式原理「Sola Scriptura聖書のみ」の宣言でした。
ヴォルムスの国会が終わって処分が下る前に、ルターは5月17日に数名の騎士たちに捕らえられて行方不明となってしまう。暗殺されてしまったのだという噂も流れ、ドイツの希望は消えたと嘆くむきもあったが、実際には、ルターを支持するフリードリヒがヴァルトブルク城に彼をかくまったのでした。ルターは、そこで聖書のドイツ語訳をしてゆくのです。まさに、「聖書のみ」を具体化・現実化していったのです。


結論 宗教改革の二大原理
(1)「聖書のみ」:形式原理
 ルターの足取りから宗教改革の二大原理があきらかになりました。宗教改革の形式原理と言われるのは、「聖書のみ」が教会における第一の権威であるということです。ローマ教会は今日に至るまで聖書とともに「聖伝」というものを教会の権威としています。『カトリック要理』によれば、「聖伝とは古代教会の信仰宣言、公会議、教導職の証言、古代教会の記録、教父たちの著作、古代からの礼典などによって示されている」もので、これらは「使徒たちがキリストと聖霊から受け、教会に伝えた」とされています。ルターは<「聖伝」も過ちを犯し矛盾したことを言っており、ただ聖書のみが教会の上に立つ権威である。そして、公会議はそれ自体は信仰を拘束する権威を持つものではなく、ただ聖書と一致するかぎりで承認されるものである>(『公会議と教会について』)。教会にとっての権威は、「聖書のみ」です。


(2)「恩寵のみ」:実質原理
 では、形式原理たる聖書が宣言する真理の中核つまり実質原理はなんでしょうか。それは、「恩寵のみ、信仰のみ」です。恩寵のみは客観的な言い方で、信仰のみは人間の側からの主体的な言い方ですが、両者とも実質的に同じことを意味しています。
 「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であて、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ三:二十−二二)
 神は罪人に律法と福音によって働きかけられます。律法は人間が何をなすべきかを教え、かつそれをなし得ない罪の病の現実をあらわにし、福音はこれを癒す薬を与える。福音のうちには神が罪人に与える贈り物としての義が啓示されていて、人はこれをただ信仰によってのみ受け取るのです。しかも、その信仰は、聖霊によって引き起こされる再生の最初の要素である。したがって、罪人の救いのすべては神の恵みにかかっている。まさに、「恩寵のみ Sola Gratia」です。