苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自分の十字架を負って

マタイ16章21節から28節


1 受難と復活の予告

(1)主イエスの使命
 「あなたは生ける神の御子キリストです。」というペテロの信仰告白を聞き届け、キリスト教会の設立を宣言なさると、イエス様はただちにご自分の受難を予告なさいます。主イエスはこうした受難と復活の予告を三回ほどなさっていますが、これがはじめてのことでした。

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

 「イエス様こそ神の御子キリストである」という真理が明示された直後に、このように受難と復活の予告をなさったのは、神の御子キリストの主要な任務は、この受難と復活なのだということを示しています。山上の説教、病人や悪霊に取り付かれた人々を解放したり、さまざまな奇跡を行ったのですが、それらは主イエスにとっての主要な任務ではありませんでした。イエス様が父なる神様から受けた、この世における主要な任務は、十字架の受難と三日目によみがえることでした。
 「福音書とは何ですか?」と質問されると、とりあえず「イエス様のご生涯を記した伝記です」と答えることは間違いではありませんが、伝記にしてはずいぶん変わった伝記なのです。というのは、イエス様の公のご生涯、つまり、30歳になられてからの3年ほどの期間のうちの最後の一週間に非常にアンバランスなまでにページを割いているからです。マルコの福音書でいえば、全体が16章あるなかで最後の一週間に11章から16章まで、つまり、三分の一以上を割いているのです。幼いころ、野口英世とか二宮金次郎とかエジソンとかいろんな偉人伝を読みましたが、死にいたる最後の一週間にこれほどの分量を割いた偉人伝はほかに例がありません。主イエスの主要な任務はエルサレムで苦しめられて十字架にかけられ殺されて、しかる後によみがえるということだったという事実が、ここによく現れています。
 使徒信条を私たちは告白しますが、「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ・・・・」と、マリヤから生まれたとたん、一足飛びに受難と復活についての告白に移っています。まるで赤ん坊のイエス様が十字架にかけられたかのような告白ではありませんか。それは、イエス様の主要な任務はあの受難と復活にあったからです。


(2)さがれ、サタン
 しかし、イエス様から、ご自分がまもなく苦しめられ殺されてしまうのだという予告を聞かされて、シモン・ペテロは動揺してしまいました。とんでもないことだと思いました。シモンだけではありません。弟子たちみなが同じ思いでした。
 彼らは、イエス様こそ、旧約聖書の時代から預言者たちが、その到来を予告し、イスラエル民族が待望し続けてきたメシヤであるということを、今しがたはっきりと知らされたのです。弟子たちはこれまで「イエス様はメシヤではないのか。きっとそうにちがいない」と思っていましたが、はっきりとイエス様がそれを宣言なさったのは、今回が初めてです。メシヤの到来は旧約聖書の最初の書、創世記から何度も予言されてきた約束であり、イスラエル民族の悲願でした。特に、アレクサンドロス大王の遠征によって独立を失い、その後、ローマ帝国に呑み込まれて、その圧制に苦しめられるようになってからは、メシヤ待望は切実となり、勢い、そのメシヤ観はローマ帝国のくびきを打ち砕く英雄という政治的なイメージが強いものとなりました。
 主イエスの弟子たちの中にも、このような政治的メシヤというイメージがあったことは福音書のあちらこちらからうかがえます。ですから、せっかくご自分がメシヤであることを明らかにしてくださったばかりなのに、いきなり都エルサレムにいって敵に苦しめられて処刑されてしまうなどという弱気なことをおっしゃるとは、とんでもないことだったのです。そこで、今しがた、シモン・ペテロがイエス様をかたわらに引き寄せていさめ始めたのです。

16:22 「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

 ところが、このペテロの諫言に対して、主イエスはバッと振り向くや、きっとにらみつけて、これ以上に厳しいことばがない言葉をもってお叱りになります。

16:23「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 イエス様がペテロを「サタン」としかりつけたのは、「君はサタンみたいなことをいうなあ」という比喩的な意味でおっしゃったのではありません。そうではなく、昔、へびの舌を借りてサタンが最初の人アダムを誘惑したように、今、弟子ペテロの舌を借りてサタンが巧妙にイエス様を誘惑していることをイエス様は鋭く見抜いて、叱りつけたのです。
 ペテロの唇をもちいてサタンが言ったことは、「十字架の苦しみなど抜きにして、栄光をつかむ道があるではありませんか。」ということです。「政治的あるいは軍事的な手段によって、エルサレムの王座について困っている民を助ければよいのですよ。何も十字架の辱めの道になど進む必要はありません。」というのです。これは、荒野の40日の断食のあと、サタンがこの世の栄耀栄華を見せて、「私を拝むなら、これらすべてをあなたにあげよう。」というのと同じ誘惑です。
 サタンは、このようにもっとも近しい人の親切そうな言葉を用いて、神のみこころを行おうとする私どもの決心を挫いてしまおうとするものなのです。私たちも、日常の中で、「神の国とその義とを第一に選び取ろう」とする時に、近しい人から、そういう甘い誘惑に遭うことがあるでしょう。「そんなにムキになって礼拝に行くことないよ。」「そんなに一生懸命にイエス様にしたがっても仕方ないんじゃないの。」「あなたがあの人を憎むのは当然だよ。敵を愛せよ。赦せなどというのは、単なる理想論だよ。」などと。
そのとき、相手に向かって「さがれサタン」と叫ぶわけには行かないかもしれませんが、私たちは誘惑に陥らないように警戒していなければなりません。また、自分自身がイエス様から「さがれ、サタン」といわれてしまわないように、主を恐れて唇を慎むべきです。


2 自分の十字架を負って

(1)自分の十字架を負って
 イエス様の聖なる怒りに触れて、ペテロは真っ赤になってそれからしょげてしまったことでしょう。イエス様は振り返ると弟子たちみなのほうを見て今度は静かに諭されました。

16:24 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

 弟子としてイエス様に従うということは、「自分を捨てて、自分の十字架を背負う」ことです。ところで、「自分の十字架を負う」という表現は、非常にしばしば誤解されています。先日、TEAMの理事長でアメリカ人宣教師のバーンと先生と話していたとき、たまたま「自分の十字架を負う」ということばの意味について話題になりました。米国では、夫はしばしば、「あの妻が私の十字架だ」というそうです。奥さんは「あなたこそ、私の十字架よ」と言い返す。辛いけれども、負ってゆかねばならないパートナーという意味です。でも、バーン先生はこれは誤解ですねとおっしゃっていました。日本でもほとんどの人は「自分の十字架を負う」ということばを同じような意味に誤解しているのではないでしょうか。
 みなさん考えてみてください。イエス様の時代にあって、十字架を背負ってゴルゴタの処刑場に一歩一歩進んでゆく人を見たら、「あの人はハンディを負って頑張っているなあ」と思う人は一人もいなかったでしょうし、「あの人は重い使命を担ってたいへんだなあ」と思う人は一人もいなかったでしょう。当時の人々が、重い十字架を背負って歩いている人がいたら、まちがいなく「ああ、あの人はこれから処刑場に向かっている。彼はもう死んだも同然だ。」と思ったのです。
 イエス様が弟子たちに「自分の十字架を負いなさい」というのは、「自分を捨てなさい」「自分に死になさい」という意味です。「自分の欲望、自分の野心、自分の計画、自己実現の願い、そういうものは捨て去って、ひたすらにわたしの後に従ってくるのだ」とイエス様は命じていらっしゃるのです。弟子たちには、「もしイエス様がエルサレムで敵を倒して、ダビデの王座を回復されたら、私は左大臣になりたい、右大臣になりたい」というふうな野心がありましたが、「そういう野心は捨てて、ただひたすらわたしについてきなさい」と主は命じるのです。
 主イエスに従う道は、しばしばこの世的に見れば、馬鹿みたいでかっこ悪い道なのです。敵に十字架で辱めを受けてむざむざ殺されるより、嵐をも鎮める力で敵を倒してイスラエルを独立に導き、民衆が望むパンを与えたほうが手っ取り早く、賢そうであり、かっこよく、この世の賞賛を得られるではありませんか。私たちが、今という時代の中で主にしたがう道もまた、世間から見たら、愚かで格好悪い道なのです。
少し前、私はクリスチャンの若者(むしろ若作りの者)と話をして、しきりに「かっこいい」とか「かっこわるい」とかいうことばを言うのが気になりました。彼の価値の中心は、それが真理であるかどうかということにはなく、かっこいいか、かっこわるいかであるかのようです。キリストを信じる若者よ。肝心なことは、かっこいい、かっこわるいではなく、それが、真理かどうかです。


(2)いのちと死の逆説
 そして、主イエスキリスト者においては、いのちと死との逆説があるのだと教えてくださいます。

「16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう 。」

 自分の計画・野心を捨ててイエス様に従わない弟子は、目先よい物を得ても、結局すべてを失ってしまいます。しかし、自分の計画や野心を捨ててイエス様に従う人は、目先損をしても結局はすべてを神様から与えられるのです。
 創世記13章にアブラハムとロトのすみわけの話が出てきます。がエジプトから帰ってきたとき、二人の家畜の草場・水場争いをめぐって、両者のしもべたちの間にいさかいが起こりました。その争いごとを周囲のカナンの住民たちはニヤニヤして眺めています。「やつらは神の民と言っているが、背に腹は代えられないんだな。」と。この親戚同士の争いは神の御名を辱めることになります。そこで、アブラハムは甥っ子のロトといっしょに暮らすのは無理だと判断し、ロトをつれてこの約束の地全体が見える高いところに行きました。そして、「お前がさきに自分の住む場所を決めるがいい」と言いました。
 そうしたら、ロトは舌なめずりして、水と緑が豊かでまるでエデンの園のようなヨルダンの低地を選びました。そして、アブラハムはがらがらの石だらけの土地に苦労して住むようになりました。しかし、ロトが去った後、主はおっしゃいました。「この地はすべてあなたのものだ。」そのあと、結局、緑の低地を選んだロトはソドムに住むようになり、戦争と神の裁きによってすべてを失うことになります。逆に、アブラハムは当面損をしたように見えましたが、後の日にすべてを手に入れたのです。アブラハムは、自分の損得ではなく神の御名があがめられるようにとひたすら願って選択をし、ロトは自分の欲望・野心しか眼中になかったからです。アブラハムの選択は、世間から見れば愚かで、ロトは目先賢そうに見えましたが、結局、賢かったのはアブラハムなのです。


(3)報い・・・主の再臨のとき
 自分を捨て自分の十字架を背負って主イエスに従っていくとき、わたしたちは苦しみに会います。主イエスがいらした時代、イスラエルの国では、イエスを信じる者は会堂から追放されるようになっていきました。時代によって場所によって、イエス様に従うことがたいへんな試練をともなうことがあるものです。私たちの国でも、先の戦争のときには国家総動員令とか治安維持法が制定されたときには、節を曲げないキリスト者が苦しみを受けました。矢内原忠雄さんは東大教授の職務を捨てることになりました。岐阜県大垣にあった美濃ミッションの教会は町を挙げて国を挙げての弾圧にあいました。
 彼らは目先すべてを失ったかのように見えました。しかし、この世にあって主イエスの名のために辱めに遭うならば、主イエスが再びおいでになるときには、主イエスの名のゆえに光栄な報いを受けることになるのです。

16:27 「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。」

 目先の利得、目先の名声、目先の安全に捕らわれて、イエスについてゆかない人は永遠の滅びを報酬として受け、自分に死に、十字架を背負って、つまり、自分の計画や自分の願いを捨てて主イエスにしたがうならば、神の前で永遠の祝福と栄誉を受ける日が来ます。

16:28 「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」

 これはむずかしい一節ですが、イエス様の復活か聖霊が注がれるペンテコステのことを意味しているのではないかとされます。


結び
 今、日本という国で、キリストにしたがって生きる道は世間的に見て得をする道ではありません。会社勤めをして、自分がキリスト者であることをはっきりとさせることは、出世の妨げになるでしょう。この南佐久のような地域でキリスト者であることをはっきりとさせれば、時には針の筵に座らせられるような経験もしなければなりません。意外なことではありません。イエス様にしたがう道は、昔から十字架への道なのです。
 サタンは目先だけ得する道をすばらしい成功の道に見せます。目先金持ちになり、目先尊敬され、目先楽そうな成功への道です。ギャンブルなどはその典型です。しかし、ギャンブルに限らず、サタンが用意するのは広い門と広い道で、おおくの人はその広い門から入り広い道を行くのです。しかし、それは滅びへの道です 。
 いのちにいたる門は狭いのです。自分を捨て自分の十字架を負い、主イエスの足跡に倣う道です。その道は、この世から見るとクソマジメで馬鹿みたいに見えるでしょうし、損をあえてする道に見えるでしょう。しかし、主の足跡に倣うその道は永遠の祝福につながっている道なのです。さあ、自分を捨てて、主の足跡にならって行こうではありませんか。