苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

パン種に注意

マタイ15:32−16:12


1 時のしるし・・・・パリサイ人・サドカイ人を相手に

 イエス様は、先に男だけで五千人の群衆に五つのパンと二匹のさなかで満腹させ、今回は四千人の群衆を七つのパンと魚で満腹させました。その後、イエス様は群衆のもとを去って行かれました。すると、そこでパリサイ人、サドカイ人と呼ばれる人々が近づいてきてイエス様に議論を吹っかけて来ました。

16:1 パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。


 パリサイ人、サドカイ人というのは当時のユダヤ教における指導的な二つの学派でした。パリサイ派保守主義国粋主義で、超自然主義でしたから、天使はおり復活もあると考えていました。他方、サドカイ派は祭司階級を占めていて、神殿礼拝維持のためにイスラエルを属州として支配しているローマ帝国に取り入る必要もあったので親ローマ主義的で、ギリシャ・ローマの思想の影響を受けて合理主義的な考えをしていましたから、天使はおらず復活もないと教えていました。国粋主義と親ローマ主義ですから、犬猿の仲でしたが、イエス様を敵視する点では一致したわけです。彼らは、イエス様は自分たちのイスラエル社会における指導的立場を危うくするものだと警戒していたのです。
 彼らはイエスに「しるし」を求めました。「しるし」というのは、ある預言者と称する人が語った場合、その預言者の教えが神から来たものであれば、そのことを保証するために与えられると彼らが考えた奇跡を意味しています。本物の預言者であれば、神がそれを明らかにする奇跡を起こすはずだと、彼らは思い込んでいたのです。しかし、聖書を見れば真の預言者に必ずしも奇跡がともなうわけではありません。エリヤやエリシャのような預言者には奇跡が伴いましたが、イザヤ、エレミヤ、そしてバプテスマのヨハネには奇跡は伴いませんでした。
 イエス様はこれまでにたくさんの奇跡を行なってきました。病人をたちどころに癒し、悪霊を追い出し、そして最近の出来事としては、わずかなパンで五千人、あるいは四千人もの人々を満腹させたという奇跡がありました。それにもかかわらず、彼らは「天からのしるし」を要求したのです。奇妙です。 多くの人々はイエス様の奇跡を目撃して、まちがいなくイエス様は神が遣わされたお方であるとわかったというのに、いったいこのパリサイ人、サドカイ人たちはこの上なにを求めようと言うのでしょうか。
 「彼らはイエスをためそうとして」と書かれていることが理由でしょう。彼らはもともと、イエス様から真理を聞かせて欲しいという願いをもってではなく、ただ単にイエス様を試し、排斥することを目的として、このようにやって来ただけなのです。そういう捻じ曲がった心を持つ人の目は、奇跡をいくら見ても、そこに神様のしるしを見ることはできません。イエス様がガリラヤ湖の嵐をおことばひとつで鎮めたのを見れば、合理主義的なサドカイ人は「たまたま、そういうタイミングだったんだろう」と言い、超自然主義のパリサイ人は「イエスは悪魔の力でそういう奇跡を行なったのだ」というでしょう。「イエス様が五千人に食べ物を与えた」と言っても、サドカイ派は「子どもがパンを差し出したから、大人もみんな隠し持っていたお弁当を出して分け合ったんじゃないの」と合理化します。そういう彼らの動機・目的を主イエスは見抜いていらっしゃいますから、おっしゃいました。

16:2「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、 16:3 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。

主イエスは、「君たちだって『夕焼けがきれいだから明日は晴れるな、朝焼けだから今日は荒れ模様だ』ということは君たちもわかるだろう。夕焼けというしるし、朝焼けというしるしを見て、ちゃんと判断ができる。ところが、今、約束されたメシヤ、救い主が、ここに到来しているのに、それがあなたたちには見分けられないのはどういうことだろうね」と呆れ嘆かれるのです。
彼らは、真理を知るならばこれに従うつもりがなく、自らの律法の教師とか、祭司階級としての地位とか名誉を守ることに汲々としているから、それをおびやかすイエス様のことばは受け入れられないし、イエス様のなさる「しるし」も見えないのでした。「真理」が自分に都合が良いかどうかと損得勘定でものを考える者に、真理はあきらかにされないものなのです。

 それでも、「ヨナのしるし」だけは、あなたがたも認めざるを得ないとおっしゃいます。大魚の腹に三日三晩いて、生還したのがヨナのように、主イエスが十字架にかけられて殺されて後、三日目によみがえる奇跡を指しています。その奇跡については、君たちパリサイ人、サドカイ人であっても、イエスが神の御子であるしるしとして認めざるをえないだろうということです。イエス様の復活を知れば、最後の審判のときに、「イエス様が神様の御子でいらっしゃるとは、私どもにはわかりませんでした。」という弁解の余地がないということです。そうして、イエス様は、真理を真実な意味で求める心のないパリサイ人・サドカイ人たちの相手をすることは時間の無駄ですから、彼らを置いて去ってゆかれました。
宗教的な指導者たちがイエス様が神の御子であられることを知ることができなかったというのは、皮肉なことです。真理を求め、真理を知ったならば、悔い改めて従う心がないならば、主イエス様はあなたに真理を明らかにはしてくださいません。


2 パン種

(1)パン種とは
 パリサイ人、サドカイ人たちを置き去りにして、彼らのもとを去って行きながら、イエス様はお弟子たちに注意をなさいました。
16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
 実は、弟子たちはパンを持ってこなかったことが気になっていました。「これは私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、議論を始めた。イエス様が食べ物の心配をなさっているのだと思い込んだのです。どこまでも頓珍漢な弟子たちですが、イエス様は、

16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。 16:9 まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。 16:10 また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。

 イエス様は何をおっしゃりたいのでしょうか?<「五つのパン」「五千人」「十二のかごにパンくず」><「七つのパン」「四千人」「七つのかごのパンくず」>で、パンをp、人数をm、かごをkとして式を立てよというのではありません。イエス様は「食べ物があるとかないとか君たちは何を心配しているのだ。必要なときには、パンなどいつでも私が出してやったではないか。わたしがパンのことで心配しているわけがないじゃないか」とおっしゃっているだけです。
 「 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」のでした。
 パン種というのは、パンを作るときの酵母のことです。ほんの少しの酵母をこねたパン生地に入れると、パン全体が膨らんできます。そのように、パリサイ人の教え、あるいはサドカイ人の教えを教会の中に受け入れるならば、それは教会全体に悪影響を与えることになるから、警戒しなさいとイエス様はおっしゃるわけです。


(2)サドカイ人のパン種・・・合理主義
サドカイ人のパン種とはなんでしょうか。サドカイ派というのは、ギリシャ・ローマの合理主義を取り込んで律法を解釈しようという立場でした。合理主義というのは、人間の理性で理解できること以外は認めないと考える考え方です。彼らは創造主である神がいることは信じていました。天体の運行であれ、動植物の営みであれ、人間のからだの仕組みであれ、この秩序ある自然界を見るならば、これらが偶然出来たと信じるほど不合理なことはありません。彼らは合理主義者ですから、創造主がいますということは信じました。
しかし、彼らは日常的には天使を見ることはないので、天使はいないと考えました。また、死人がよみがえるのを見たことはないので、死人のよみがえりといったことなどありえないと考えました。それは理にかなわないと思ったのです。創造主は秩序あるこの天地万物を造ったけれど、そのあと、この世界はそれ自体で動いているので、奇跡などありえないと考えたのです。イエス様は、後日、サドカ人たちについて「そんな思い違いをしているのは、あなたがたは聖書も神の力も知らないからです」とおっしゃいました。つまり、サドカイ派の君たちがいう「神」は、哲学者の考えた死んだ神であって、聖書にみこころを啓示なさった生ける神ではないとおっしゃったのです。
キリスト教会の歴史を見ると、サドカイ人のパン種は、18世紀、19世紀からキリスト教会に甚だしい影響を与えてきました。哲学者ロックやカントの哲学の枠組みを受け入れた自由主義神学では、聖書は他の古文書・歴史文書と同じものとして扱います。神の啓示の書であると信じず、生ける神の力を知らず、イエス様の受肉も、もろもろの奇跡も、そして復活も信じないのです。では、彼らは何を教えるかといえば、イエスは、単なる愛の道徳の教師であるとか、革命家であるとか、それぞれの好みに応じて好き勝手なことを教えてきたのでした。


(3)パリサイ人のパン種
 他方、パリサイ人のパン種とは律法主義のことです。彼らは創造主が存在することはもちろん天使の存在も、終わりの日に死者が復活することも信じていました。問題は彼らの律法理解です。律法は、神様が私たちに善悪の基準を教えるためにくださったよいものなのです。律法の要約である十戒は、「あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない」「偶像を拝むな」「主の御名をみだりにとなえるな」「安息日を守れ」「父母を敬え」「殺すな」「浮気するな」「盗むな」「偽証するな」「他人のものを欲しがるな」というふうに、まともな人間の生き方を教えたよいものです。
 けれども、パリサイ人の律法理解にはまちがいがありました。第一は、律法点数主義です。人は律法を守ることによって神様の前で点数を稼いである得点に達したら合格と言う考え方です。イスラエルの民には律法はいつ与えられたでしょうか。エジプトで奴隷だったときでしょうか?いいえ、エジプトから解放されて、神の民として荒野を旅し始めたときでした。神様はエジプトで罪の中に生活している彼らに律法が与えられて、「これらを守ったら、エジプトから救ってやろう」とおっしゃったのではありません。彼らはエジプトで罪の中にありましたが、先祖アブラハムに与えた契約・約束のゆえに、彼らをエジプトから救い出したのです。そうして、「これからわたしとともに生きていくためのガイドとして律法を与えよう」とおっしゃって律法を授けてくださったのです。
新約時代の私たちも同じです。立派な生活をしたから報酬として罪赦されてクリスチャンになったのではありません。罪の只中にある生活をしていましたが、恵によってイエス様の贖いを根拠として罪を赦されて、赦された者として神様に感謝していきるガイドラインとして律法は与えられています。
けれども、パリサイ派は律法点数主義に陥った結果、第二に、パリサイ人はなんとか律法を守ったことにする屁理屈をいうようになりました。いきおい律法の字句にこだわりすぎて、その根本精神である「心を尽くし思いを尽くし知性を尽くし力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」を見失って、形式主義に陥りました。すべての律法は、神を愛し、隣人を愛するという目的を達成するための手段です。神様が注いでくださった愛に感動して、感謝の応答をしていくためのガイドが律法です。


結び 
 現代も人間の理性で納得できないことは何もないという人々が多い時代です。私たちは、サドカイ人のパン種に気をつけて、生ける神の御力にすがって生きてゆきましょう。
 また、律法主義というパリサイ人のパン種にも警戒しましょう。私たちが救われたのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス様の恵によります。主はいのちを十字架に捨てて私たちを愛してくださいましたから、私たちもまた、いのちをかけてイエス様を愛して生きてまいりましょう。