苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ものすごい信仰!

マタイ15:21-28



1 主イエスの冷淡な態度

(1)カナン人の女の苦境

  15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

 ツロ、シドンの地方というのは、ガリラヤ地方の北方の海沿いの異邦人の地です。でも、ツロ、シドンにまでもイエス様の評判はすでに広がっていました。「ガリラヤのナザレのイエスと言うお方は、神の御子であり、どんな病もたちどころに癒し、恐ろしい悪霊もたちどころに退散するのだ」といううわさです。しかも、そのお方は人々から差別されている遊女や取税人にも神の愛を語っていらっしゃる、といううわさです。
 この噂を聞きつけた「カナン人の女」は、イエス様と弟子たち一行を見つけてやってきたのです。彼女は罪人、取税人、遊女さえも差別しないならば、きっと異邦人をも差別なさらないにちがいないと信じてやってきたのです。そして、叫びました。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」新改訳は「叫び声をあげて言った」と訳していますが、口語訳では「叫び続けた」と訳しています。原文は未完了で書かれていますから、「叫び続けた」というほうがニュアンスとしては正確であろうと思います。
 「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
と、延々と叫び続けるのです。


(2)弟子も冷淡、主はさらに冷淡
 イエス様は優しい方です。ご自身、疲れ果てているようなときでも、「群衆をごらんになって、羊飼いのいない羊のようだと哀れみをかけて、かれらをかわいそうに思われた」とあります。ところが、どういうわけか、この日にかぎってイエス様はたいへん冷淡な態度を取られました。

15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。

 主イエスカナン人の女をまったく無視されたのです。
 それでも、女は叫び続けます。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
 そこで弟子たちは参ってしまってイエス様に何かいってくれそうなようすです。女は期待したでしょう。お弟子さんたちが、とりなしてくだされば、イエス様も振り向いてくださるかもしれない。ところが、弟子たちはなんと言ったでしょう?
「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。・・・のです。
 「あの女を帰してやってください」ではよく意味がわかりません。口語訳聖書は「この女を追い払ってください」と訳しています。そうなのです。弟子たちはこの女の叫びに辟易して、「イエス様になんとかしてやってください。女の願いを聞いてやってください。」ととりなしてくれたわけではありません。正反対に、「追い払ってください」と言うのです。
 さらに、主イエスは念を押すように、おっしゃいます。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」
 弟子は冷淡でしたが、主イエスはさらに冷淡でした。自分は神がお選びになったイスラエルの民の神から迷い出た羊のような人々を救うために、父なる神からつかわされて来たのであるとおっしゃるのです。


(3)主の冷淡さの目的
 日ごろのイエス様のやさしい振る舞いを知っている私たちは、この箇所を読んでとまどってしまいます。「いったいイエス様はどうなさったんだろう。よほど、虫の居所が悪いのかしら。ペテロやヨハネなら、おなかがすいているとき、こんなふうに言ってしまうかもしれないけれど・・・まさかイエス様まで、こんなことをおっしゃるとは。」と。
 実は、イエス様は、このカナン人の女を試みていらっしゃるのです。イエス様は誰にでもこんな応答をなさるわけではありません。イエス様は、このカナン人の女が、ただならぬ信仰者であるということを見抜いていらしたのです。
 神様は、私たちをお取り扱いになる時にも、ときどき恐ろしい形相をもって迫られたり、あるいは、冷淡に振舞われたりすることがあります。神様に見捨てられたのかもしれない、と私たちは戸惑うときがあります。けれども、主は決して私たちをお見捨てにはなりません。主は真実なお方ですから、ご自分の約束を破ることはおできになりません。私たちが主を冷たいと感じるとき、それは私たちを見捨てるためではなく、むしろ私たちの信仰を試し、鍛えるためなのです。「我らを試みにあわせず」と私たちは祈ってよいのですが、時に、そういう試みがあるのは事実です。


2 禅味ある女の信仰

(1)ひれ伏す女
 さて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」という主イエスの冷酷とも思えることばを聞かされて、女はどのように反応したでしょうか? 彼女は、それでもめげることなく、主イエスに食い下がります。彼女は「イエス様は神の御子であり、罪人を救うために来られたのだ。」という噂というか良い知らせ、福音を握って手放さなかったのです。

15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。

 とあるように、徹底的にへりくだって、主イエスにひれ伏してお願いするのです。どのように冷たい態度をとられても、彼女は決してイエス様に失望しないのです。イエス様は、必ず自分の願いを聞き届けてくださるのだと彼女は信じて疑わないのです。
 すると、イエス様は、さらに、次のような、決して言ってはならないと思われることばをあえて口になさいます。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と。
 ほとんど理解しがたいほどのひどいことばです。ある人たちはイエス様のことばがあまりにひどいことを受け入れることができないので、「子犬」といっているところに、愛玩犬のようなことをイメージしたがるようですが、実際には、聖書の世界で「犬」ということばのイメージは今日の日本で家族の一員であるように大事にされているロダのようなペットの犬とは違います。聖書の世界で犬といえば、あの悪い王妃イゼベルが高い窓から突き落とされて死んだとき、死肉をあさった汚れた動物というイメージです。「豚に真珠。犬に聖なるものをやるな」という、あの汚れた動物というイメージです。


(2)すごい女

 さて、「子犬にくれてやるパンなど無い」とイエス様に言い放たれて、女はなんと反応したでしょうか?
 「女の顔からサーッと血の気がひいた。彼女は言った。
『やいやい、こっちが下手に出てりゃあ、いい気になって言いたい放題。犬だと!あたしゃ犬で、うちの娘は子犬だって言うのかい!てめえ、ユダヤ人の先生だからって、いい加減にしがやれ。・・・』」とか何とか江戸を舞台にしたドラマならば、威勢のいい喧嘩が始まりそうな場面です。
 ところが、なんとこのカナン人の女は、主イエスが投げつけた到底受け止めることのできない剛速球を、パシッと受け取ってしまい、ヒョイとみごとに投げ返してしまいます。

15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

 「犬」とお呼びになるなら、喜んで犬と呼ばれましょう。尻尾も振りましょう。そうです。「私たちは犬でございます。でも、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただくものですよ!」と。これはすごい反応です。自由自在というのか、主の前でいっさいのこだわりを捨てた姿です。ある人がこの箇所について一首詠みました。
「犬と呼ばば ワンとこたえむ 尾も振らむ・・・ 」(下の句は忘れました。残念。)
 このツロ・フェニキヤの女は、主イエスがどんなに意地悪な顔をし、冷淡な態度をとり、ありえないほど失礼で冷酷なことばを投げつけても、その冷淡なお顔の向こうに隠されているイエス様の愛のみこころを信じて疑わなかったのです。彼女は、キリストの福音を信じて疑わなかったのです。

 この異邦人の女性の反応、その信仰には、なんと主イエスさまが舌を巻きました。

15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 主イエスを驚かせるほどの信仰を、アブラハムの民族的子孫ではなく、異邦人の女性が表現したという印象的な事件でした。福音書において、もう一人主イエスを驚かせた信仰者は百人隊長ですが、彼もまた異邦人であったのは印象的なことです。異邦人は行いによってではなく、信仰によって神の救いを得たのです。


3 適用

 ツロ・フェニキヤの女は、イエス様がこの地にもやってきたと言う知らせを受け取りました。そのイエス様は、罪人にもあわれみをかけてくださる神の御子であるというよい知らせ、福音を彼女は受け取ったのです。受け取って、この福音をしっかりと自分の心の芯に据えて揺るがぬものとしました。
 ですから、彼女はお弟子たちがとりなしてくれるかと期待したのに、弟子たちが「あの女はうるさいから追い返してください」と言っても揺るぐことがありませんでした。
 さらには、主イエスが「子犬にやるパンなどない」という冷たいことばを投げつけても、彼女はぱしりとそのことばを受け止めて、ひょいと投げ返したのでした。そうして、ついに主イエスの手から得るべき恵みを受け取ったのでした。
 私たちはキリスト者として生きているなかで、時に、「神様が愛であるならば、どうしてこんなことが・・・」と口走りたくなるような事態に直面させられることがあります。けれども、目先、どんな出来事ことがあろうとも、サタンに何をささやかれようとも、「神はイエス・キリストの十字架と復活によって、私を赦し、そして子としてくださった。」という福音を手放してはなりません。「あなたの信仰はりっぱです!」と主イエスを驚かせるような信仰者でありたいものです。
 今、主がどんな怒りの形相をこちらに向けられているとしても、本当に、主は愛なのです。