苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

日本国憲法の制定過程(その8)                 第9条の発案者

4 第9条の発案者


 日本国憲法は、開戦直後からの米国による対日戦後処理研究と、憲法研究会の鈴木安蔵が書いた草案とが総合され、GHQが作成した英文憲法草案を邦訳したものである。
 しかし、米国の対日戦後処理研究の成果には9条に見る戦争放棄・戦力放棄はなく、憲法研究会の「憲法草案要綱」には軍隊に関する定めがなかった。では、憲法9条はどこから来たのだろうか?では、9条は誰の発案によるものか。


(1)マッカーサー発案説
一見すると、それは先に述べた「マッカーサー三原則」(マッカーサー・ノート)が出典であるかに見える。ここで、

第一項には天皇は元首として存続、
第二項は戦争放棄・戦力放棄、
第三項では封建制度の廃止

という三点が指示されている。第二項には、「国権の発動たる戦争は廃止される。日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼する。日本が陸海空軍を保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦権が与えられることもない。」と書かれている。防衛のための戦争をも禁ずる(この部分の記述は、当時運営委員会のケーディスの主張によって削除)という部分を除いてほぼ現行の憲法第九条と同じである。ちなみにケロッグ・ブリアン条約 を嚆矢として、今日では憲法において平和主義を掲げる国は148に及ぶから 、第一項の戦争放棄はめずらしくはないが、第二項の戦力不保持が日本国憲法9条の特異性を示している。
 GHQ 草案第8条は次のとおり。

「国権の発動たる戦争は、廃止される。いかなる国であれ他の国との間の紛争解決の手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久に放棄する。陸軍、海軍、空軍のその他の戦力を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が国に与えられることもない」

 こちらも現行憲法とほぼ変わらない。昭和憲法の骨格は、マッカーサー・ノートが若干の改変を経てそのまま用いられた。
 話がここまでなら、9条はマッカーサー発案であり、9条は確かに「押し付け」ということになる。


(2)幣原喜重郎の発案

 だが、マッカーサーはこの戦争・戦力・交戦権放棄条項を自ら思いついたのか?そうではなく、九条戦争放棄条項は日本の首相幣原喜重郎の発案であるとマッカーサーは証言した。(以下は、伊藤成彦氏の「軍縮問題資料」1995年所収論文から略述。)
 1946年1月24日正午、幣原首相はペニシリンのお礼としてマッカーサー元帥を訪ね、約二時間半会談をした。この会談の内容について、マッカーサーは1951年5月5日米国上院軍事・外交合同委員会聴聞会で証言をしている。



 「日本の首相幣原氏が私の所にやって来て、言ったのです。『私は長い間熟慮して、この問題の唯一の解決は、戦争をなくすことだという確信に至りました』と。彼は言いました。『私は非常にためらいながら、軍人であるあなたのもとにこの問題の相談にきました。なぜならあなたは私の提案を受け入れないだろうと思っているからです。しかし、私は今起草している憲法の中に、そういう条項を入れる努力をしたいのです。』と。
 それで私は思わず立ち上がり、この老人の両手を握って、それは取られ得る最高に建設的な考え方の一つだと思う、と言いました。世界があなたをあざ笑うことは十分にありうることです。ご存知のように、今は栄光をさげすむ時代、皮肉な時代なので、彼らはその考えを受け入れようとはしないでしょう。その考えはあざけりの的となることでしょう。その考えを押し通すにはたいへんな道徳的スタミナを要することでしょう。そして最終的には彼らは現状を守ることはできないでしょう。こうして私は彼を励まし、日本人はこの条項を憲法に書き入れたのです。そしてその憲法の中に何か一つでも日本の民衆の一般的な感情に訴える条項があったとすれば、それはこの条項でした。」

 マッカーサーは『マッカーサー大戦回顧録Reminiscences』でもこの件に触れていて、内容は一致している。

「幣原男爵は一月二十四日(昭和二十一年)私の事務所を訪れ、私にペニシリンの礼を述べたが、そのあと私は、男爵がなんとなく当惑顔で、何かをためらっているらしいのに気がついた。私は男爵に何を気にしているのか、とたずね、それが苦情であれ、何かの提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに少しも遠慮する必要はないといってやった。
 首相は、私の軍人という職業のためにどうもそうしにくいと答えたが、私は軍人だって時折りいわれるほど勘がにぶくて頑固なのではなく、たいていは心底はやはり人間なのだと述べた。
 首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意志は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。
 首相はさらに、日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に当てるべきだ、とつけ加えた。
私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息もとまらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。
 現在生きている人で、私ほど戦争と、それがひき起す破壊を経験した者はおそらく他にあるまい。二十の局地戦、六つの大規模な戦争に加わり、何百という戦場で生残った老兵として、私は世界中のほとんどあらゆる国の兵士と、時にはいっしょに、時には向い合って戦った経験を持ち、原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度に高まっていた。
 私がそういった趣旨ことを語ると、こんどは幣原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらしく、私の事務所を出るときには感きわまるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』と言った。」
ダグラス・マッカーサーマッカーサー大戦回顧録 下』(中公文庫2003年)pp239,240 (『マッカーサー回想録』昭和39年版、朝日新聞社

 この会談については、日本側からの証言もある。幣原首相の友人枢密顧問官大平駒槌は次のように回想している。

「(幣原は)世界中が戦力を持たないという理想論を始め戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考えると話し出したところがマッカーサーが急に立ち上がつて両手で手を握り涙を目にいつぱいためてその通りだと言い出したので幣原は一寸びつくりしたという。・・・マッカーサーは出来る限り日本の為になる様にと考えていららしいが本国政府の一部、GHQの一部、極東委員会では非常に不利な議論が出ている。殊にソ聯、オランダ、オーストラリヤ等は殊の外天皇と言うものをおそれていた。・・・だから天皇制を廃止する事は勿論天皇を戦犯にすべきだと強固に主張し始めたのだ。この事についてマッカーサーは非常に困つたらしい。そこで出来る限り早く幣原の理想である戦争放棄を世界に声明し日本国民はもう戦争をしないと言う決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとする事を憲法に明記すれば列国もとやかく言わずに天皇制へふみ切れるだろうと考えたらしい。・・・これ以外に天皇制をつづけてゆける方法はないのではないかと言う事に二人の意見が一致したのでこの草案を通す事に幣原も腹をきめたのだそうだ。」(大平駒槌の娘、羽室ミチ子が父から聞いてメモしたもの。憲法調査会憲法制定の経過に関する小委員会第四十七回議事録」大蔵省印刷局1962年、古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』岩波ブックレット2006年より)

 幣原首相は外相時代、平和外交の旗手であった。ところがその後、日本は中国において「自衛」と称して侵略を続け日米開戦にまで暴走してしまった。その苦い経験に基づいて、明瞭な戦争放棄が必要と考えたのだろう。また連合国側の天皇処罰要求を前に、国体護持のためには、これ以外に道はないと考えたという面もある。他方、軍人マッカーサーは太平洋戦争の残酷さを経験し、かつ核兵器の登場という事態を見て、少なくともこの一時期、戦争の廃止以外には人類を滅亡から救う道はないと思い至ったのである。マッカーサーは、その後の朝鮮戦争の頃の動きを見ればわかるように、永続的に戦争放棄を維持し続けるほどの信念を持っていたわけではなかったのだが、この一時期、幣原発案の戦争放棄の理想に感激し、それが日本国憲法に刻み込まれるということになったらしい。一種奇跡に近いタイミングだった。

 だが、「自主憲法」制定を目指す人々にとっては、9条が幣原の発案であるということは我慢ならないことであるらしい。格別、幣原喜重郎の長男幣原道太郎(元獨協大学教授)は、激越な調子で父幣原喜重郎が9条発案者だという説を否定している。

「拝復(略)小生 先考喜重郎が天皇を最高戦犯ととして東京裁判付託の人質にとられ、涙を呑んで受け入れた祖本、総司令部草案を戦後の痴志、無知な国民が平和と繁栄の生みの親として奉戴し、日米安保の片務条約に依存しつゞける現状看過するに忍びず、多年に互り亡父雪冤の戦を戦って来ました。小生の憲法改正に関する所見は、(ー)現行憲法改正 (ニ)新憲法の制定 (三)明治憲法の復元改正の三論中、教育勅語復権も加え、(三)を支持していますので(ー)(ニ)すら至難の戦後の世論に鑑み、祖国回天の至業達成のため、微カを致し居ります。
神道指令の失効も小生の心願であります。尊台の御健勝と御健闘を祈り居ります。    敬具
十一月二日                                                    幣原道太郎
久保憲一様


 また、半藤一利マッカーサーの証言を疑っている。半藤は、マッカーサーの上院での証言は当時朝鮮戦争が激化し、アメリカ議会は日本国憲法に第九条を制定したマッカーサーの責任を追求する雰囲気にあったから、彼には幣原にその責任を転嫁する意図があったのだろうと推測するのである(半藤一利日本国憲法の二百日』p252)。しかし、これらの推測にもかかわらず、文書的証拠は明白に、幣原が9条の発案者であった事実を語っている。幣原の発想と提案を受け入れ、憲法に書き込むことを決定したのはマッカーサーである(古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』2006年岩波ブックレット)。
 古関彰一は、戦争放棄が幣原の発想であるという説に疑問を投げかけて、二点根拠をあげている(古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』2006年岩波ブックレット)。
 幣原首相の下に組織された憲法問題調査委員会委員長、松本烝治が、1945年12月8日の国会答弁で憲法改正4原則として、天皇統治権の総覧者とし、議会の議決条項の拡大、国務大臣の権限の拡大、さらに自由・権利の強化を行うことを挙げている。
 厚生大臣だった芦田均の日記によれば、2月19日の閣議でGHQ案について蒼ざめた松本委員長から報告があった後、「以上松本氏の報告終ると共に、三土内相、岩田法相は総理の意見と同じく『吾吾は承諾できぬ』と言ひ、松本国務相は頗る興奮の体に見受けた」とあること。
そして古関は戦争放棄・戦力放棄はマッカーサー発案だという説を唱えているのであるが、いかがなものだろうか。ごちごちの守旧派の松本国務大臣がGHQ案を押し付けられて、怒りに蒼ざめ声を震わせるようにして閣議に臨んだという当時の状況に対する想像力が欠けていると思われる。
 1月30日の閣議における軍に関する規定の討論において、軍の規定を改憲に含めるべきであると主張する松本に対して、幣原は次のように発言している。

 「軍の規定を憲法の中に置くことは、連合国はこの規定について必ずめんどうなことをいうにきまっている。将来、軍ができるということを前提として憲法の規定を置いておくということは、今日としては問題になるのではないかと心配する。この条文を置くがために、司令部との交渉が、一、二ヶ月も引っかかってはしまいはしないか」(鈴木昭典、同上書p162 憲法調査会資料より)

 幣原喜重郎『外交五十年』には彼の亡くなった3月2日付で書かれた序が付けられているが、彼はその10日に逝去していて、彼の遺書にあたる一文である。序文の中で幣原は

「ここに掲ぐる史実は仮想や潤色を加えず、私の記憶に存する限り、正確を期した積もりである。若し読者諸賢において私の談話に誤謬を発見せられたならば、幸いにご指教を賜わるよう、万望に堪えない。」(幣原喜重郎『外交五十年』(中公文庫昭和61年、読売新聞社刊は昭和26年4月 序)

と言っている。下に、その全文を掲げる。

 「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに頭に浮んだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくてはいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならないということは、他の人は知らないが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意志に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうじゃない、決して誰からも強いられたのではないのである。
 軍備に関しては、日本の立場からいえば、少しばかりの軍隊を持つことはほとんど意味がないのである。将校の任に当ってみればいくらかでもその任務を効果的なものにしたいと考えるのは、それは当然のことであろう。外国と戦争をすれば必ず負けるに決まっているような劣弱な軍隊ならば、誰だって真面目に軍人となって身命を賭するような気にはならない。それでだんだんと深入りして、立派な軍隊を拵えようとする。戦争の主な原因はそこにある。中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思うのである。
 も一つ、私の考えたことは、軍備などよりも強力なものは、国民の一致協力ということである。武器を持たない国民でも、それが一団となって精神的に結束すれば、軍隊よりも強いのである。例えば現在マッカーサー元帥の占領軍が占領政策を行っている。日本の国民がそれに協力しようと努めているから、政治、経済、その他すべてが円滑に取り行われているのである。しかしもし国民すべてが彼らに協力しないという気持ちになったら、果たしてどうなるか。占領軍としては、不協力者を捕えて、占領政策違反として、これを殺すことが出来る。しかし八千万人という人間を全部殺すことは、何としたって出来ない。数が物を言う。事実上不可能である。だから国民各自が、一つの信念、自分は正しいという気持ちで進むならば、徒手空拳でも恐れることはないのだ。暴漢が来て私の手をねじって、おれに従えといっても、嫌だといって従わなければ、最後の手段は殺すばかりである。だから日本の生きる道は、軍備よりも何よりも、正義の本道を辿って天下の公論に訴える、これ以外にはないと思う。
 あるイギリス人が書いた『コンディションズ・オブ・ピース』(講和条件)という本を私は読んだことがあるが、その中にこういうことが書いてあった。第一次世界大戦の際、イギリスの兵隊がドイツに侵入した。その時のやり方からして、その著者は、向こうが本当の非協力主義というものでやって来たら、何も出来るものではないという真理を悟った。それを司令官に言ったということである。私はこれを読んで深く感じたのであるが、日本においても、生きるか殺されるかという問題になると、今の戦争のやり方で行けば、たとえ兵隊を持っていても、殺されるときは殺される。しかも多くの武力を持つことは、財政を破滅させ、したがってわれわれは飯が食えなくなるのであるから、むしろ手に一兵をも持たない方が、かえって安心だということになるのである。日本の行く道はこの他にない。わずかばかりの兵隊を持つよりも、むしろ軍備を全廃すべきだという不動の信念に、私は達したのである。」(幣原喜重郎前掲書pp218−221)

 幣原の9条発案には、三つの意図があった。それは次回に。