苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

全能の神

出エジプト14:1−31

序 「聖書と考古学」というテーマで3月最初からみことばを味わい続けています。本日は、映画「十戒」でたいへん有名な、イスラエルの民が「葦の海」を渡ったという記事にかんして。考古学的発見との関連で言いますと、このテーマに関してはシナイ山(別名ホレブ山)の位置とイスラエルの民が渉った葦の海の位置をセットにして説明しなければなりません。両者は密接に関連しています。


1 シナイ山と葦の海の位置について

(1)伝統的見解
 4世紀以来の伝統的見解によれば、シナイ山は今で言うシナイ半島の先端近くにあることになっています。新改訳聖書の末尾の地図にも伝統的見解に基づくルートが記されています。しかし、この伝統的見解は、聖書に根拠があるわけではなく、4世紀にコンスタンティヌス大帝の敬虔なキリスト者である母ヘレナが主張したものであって、それを古代カトリック教会が認定したものです。しかし、シナイ山の現場には特別な考古学的な遺物はなにもなくて、ただただ荒涼とした岩の山々があり、修道院と聖地旅行者のためにおみやげ物屋さんがあるだけです。
葦の海の位置は、シナイ山の伝統的見解に基づいて、スエズ湾の北端あたりの海、または、湿地帯であろうとされてきました。聖書の記述をそのままに受け入れる人々は映画のように紅海のスエズ湾が二つに割れて壁のようになったのだと受け取ります。しかし、神様の全能の力と奇跡を信じられない合理主義的な学者たちは、民は沼地を民は歩いて行き、エジプトの戦車はぬかるみにはまったのであろうと解釈して、自分を納得させていたりしています。
 
(2)聖書は、シナイ山はアラビアのミデヤンにあると言っている
 では、聖書はシナイ山(ホレブ山)はどこにあると言っているのでしょうか。
「パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。 」(出エジプト2:15)
 とあるように、40歳のときエジプト人を殺害してしまってエジプトから逃亡したモーセはミデヤンの地に住むことになりました。ミデヤンの地は地図を見ていただきたいのですが、シナイ半島ではなくアカバ湾の東岸アラビア半島にあります。そして、その事件から40年後、80歳になったモーセはこのミデヤンの地にある「神の山ホレブ」で主の臨在にふれるのです。
モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。 すると【主】の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。」(3:1,2)
 このように神の山ホレブ(シナイ山)はアラビア半島にあると出エジプト記は記しているのです。新約聖書を見ても、パウロも「アラビアにあるシナイ山」(ガラテヤ4:25)と言っています。1世紀のユダヤ人たちはシナイ山がアラビア、つまり、スエズ湾でなくアカバ湾の東にあることを知っていたのです。


(3)伝統的シナイ山とミデヤンのシナイ山の違い
 キリスト教会で伝統的に言われてきたシナイ半島のホレブ山の周辺には、先に申しましたが遺跡としてこれがホレブ山であることを示すものは何一つ存在しません。「シナイ半島」になく、ミデヤンの地にあるのに、この山がシナイ山と呼ばれるのは、奇妙だと思われるでしょう。実際には、あの山をシナイ山と呼ぶようになったことから、あの三角形の半島をシナイ半島と呼ぶようになったにすぎないのでしょう。
実はアラビア半島のミデヤンの地にも大昔から「モーセの山」と呼ばれてきた山があります。これがパウロがいった「アラビアにあるシナイ山」であろうと思われます。今でいうサウジアラビアのミデヤンにあるモーセの山には、多くの考古学的遺物があります。 まず、エジプト風の子牛の偶像的壁画がいくつも岩に描かれています。これはモーセがホレブ山に登っている間に、ふもとで行なわれた金の子牛崇拝の跡だと考えられます。また、十二部族を意味していると思われる十二の柱跡があり、七つの燭台壁画も石に描かれて残っています。
聖書はモーセの山はアラビアのミデヤンの地にあると言っています。そして、これらの遺物を見ても伝統的なモーセの山ホレブでなく、ミデヤンの地のモーセの山のほうが聖書のいうホレブ山(シナイ山)である可能性が高いと思われるのです。


  牛の壁画。エジプトにも類似の壁画がある。

七つの燭台の絵

 
2 葦の海

(1)「葦の海」はどこか?
アカバ湾アラビア半島側ミデヤンのホレブ山が本物だとすると、聖書で「葦の海」と呼ばれる海の位置についても、スエズ湾とはちがうもうひとつの可能性が出てきます。
今回、聖書をよく読みなおしてみると、スエズ湾を葦の海だとすると不自然な点があることに私は気づきました。それは旅のスケジュールです。イスラエルの民がエジプトのゴシェンの地スコテを出てから葦の海を渡るのに、20日から26日間もかかっているのです。しかし、ゴシェンの地からスエズ湾は、目と鼻の先なのです。行くのに半日もかからないでしょう。どうみても20-26日もかかったというのは不自然です。 それに、スエズ湾にはそこが海を渡った場所と決定できるような考古学上の遺物はなにひとつないのです。
「葦の海」がスエズ湾でないとしたら、どこがイスラエルの民がミデヤンの地に行くために歩いて渉った「葦の海」でしょうか。アカバ湾でしょう。イスラエルの民がアラビア商人の道と呼ばれる路を通って東に向かってアカバ湾に出たとすると、距離は300キロメートルほどあるので20日以上かかったという聖書の記述と合います。

普通アラビア商人の道は、アカバ湾の北を抜けてアラビアに向かうので、モーセと民はその道をずんずんと逃げて行きました。それはかつてモーセがミデヤンに逃れるときに使い、また、40年後モーセがミデヤンからエジプトに戻るとき通った道でしょう。(当時シナイ半島はエジプトの支配下にありましたから、アラビア半島まで行かなければエジプトを脱出したことにはなりませんでした。)
 ところが、今回、主はわざわざモーセに声をかけて民を引き返すように命じて、海辺への道を行かせます。この道の終点がアカバ湾の臨む場所です。彼らおそらく200万人から300万人を海辺に宿営させるのです。

14:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
14:2 「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。
14:3 パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。
14:4 わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現し、エジプトはわたしが【主】であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。

 では、彼らイスラエルの民が宿営をしたアカバ湾のほとりとはどこでしょうか。ある考古学者は200万とも300万とも言われる人々が宿営するところができる浜をアカバ湾の西側で探してみました。アカバ湾の西岸は山が海まで押し迫って切り立っていますが、たった一箇所広々とした浜があります。それは、今日ヌウェイバの浜と呼ばれていて、東西に4キロメートル、南北に6キロメートルの広さです。
 また道路を調べてみても、エジプトからアラビアに向かう道の途中から南に分かれる道があって、途中から山間部のワジが形成した隘路に入り、その行き着いたところが、この浜なのです。

 

(2)パロの戦車隊
 イスラエルの民が逃げたことがパロに告げられました。出て行けといったのは彼自身であるのに、実際に逃げられてしまうと、王は地団太を踏みました。そして、戦車隊をもって追撃するのです。えり抜きの戦車とエジプトの全戦車と書かれています。

14:5 民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」
14:6 そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、
14:7 えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。
14:8 【主】がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。 14:9 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。

 北西南は山に囲まれ、東は海ですから、イスラエルの民は完全に袋のねずみという状態でした。まさに「荒野は彼らを閉じ込めてしまった」というとおりです。


3 葦の海を渡る

(1)民の不信仰な叫びとモーセ
絶体絶命のピンチです。パロはイスラエルの民を多すぎる分は虐殺して、残りは生け捕りにして奴隷としてこき使おうと思っていたのです。イスラエルの民は恐怖に震え上がってモーセを非難するのです。

  14:10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、【主】に向かって叫んだ。 14:11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。 14:12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」

 これに対して、モーセは落ち着いて諭しました。

14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。 14:14 【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

 14節はとくに印象的ですね。主が敵と戦われるのです。口を開けば、不信仰なことばしか出て来そうにないときには、沈黙が金なのです。主を讃美することばが出てくるならば、それは自分自身と周囲の兄弟姉妹を励ますことになりますが、不信仰なことば不平しか出てこないならば、むしろ唇を抑えて黙っていることです。


(2)主の命令
 主に向かって叫ぶべき時があり、主の命令にしたがって前進すべきときがあります。今は、主にしたがって前進すべき時でした。

14:15 【主】はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。 14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。 14:17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。
14:18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るのだ。」

 主はモーセにこう命じて、今度はしんがりに廻られてエジプト軍が民に押し迫るのを防御してくださいます。

14:19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、 14:20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。

 以前私はこの19節を具体的にイメージすることができませんでしたが、ヌウェイバの地形を見て、私ははじめてこの場面の意味がわかりました。この浜にエジプト軍の戦車隊が入ってくるにはあの狭い山道から入ってくるほかありません。ここを主がふさがれたので、彼らは一晩中イスラエルの民に近づけなかったのです。

(正面奥がヌウェイバの浜、海、そして、海の向こうがアラビア半島。)

 ついで、モーセは主のおっしゃるとおりにその杖を持った手を海に向かって差しのべます。

  14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、【主】は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。 14:22 そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

 イスラエルの民は、乾いた海の底を東へ東へとひたすらに逃げて行きます。その距離はおよそ28キロメートル弱です。相当の距離です。6、7時間ほどもかかる距離でしょう。アカバ湾はヨルダン渓谷から続く地溝帯で、湾はたいへん深いのですが、イスラエルが渉った場所は「海底の橋」とも呼ぶべき状況になっています。西岸の浜からこの場所は緩やかに深くなってゆき、深いところで水深500メートルから800メートルとなり、また緩やかに上って東岸に着くのです。


 うしろからはエジプトの戦車が迫ってきます。しかし、主がエジプトの戦車隊をかき乱されます。

14:23 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中に入って行った。 14:24 朝の見張りのころ、【主】は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。 14:25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。【主】が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」

 しかし、エジプトの兵士たちがそのことに気づくのは遅すぎました。全能の主なる神に敵対して勝ち目があるわけはないのです。イスラエルの民はひとり残らず海を渡り終えると、主はモーセに命じました。

  14:26 このとき【主】はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」
14:27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、【主】はエジプト人を海の真ん中に投げ込まれた。
14:28 水はもとに戻り、あとを追って海に入ったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。

 あの西側のヌウェイバの浜からアカバ湾をわたったとすると、その海底にはその証拠が遺物としてのこっているのではないかと考古学者たちは、1999年から10年間に渡って西側の浜の海にもぐって調査をしました。その結果、海底にあるものが見つかりました。スエズ湾の方で人々が探しましたが見つからなかったものです、それはエジプト軍の戦車の車輪です。珊瑚がくっついてしまっていますが、確かに車輪とスポークと中央のハブを確認することが出来ました。また、金属探知機で調べると反応がありました。
 考古学者は今度は東側の海をも調査しました。あの西側の浜から正確に真東の岸辺の海の底にはやはり戦車の車輪が発見されました。その写真をごらんください。ハブ、十字型のスポーク、そして輪が見えるでしょう。古代エジプトで用いられたもの、そのものです。
 下は、アカバ湾の渡海地点と想定される場所の両岸で撮影されたという写真。上の写真では外輪とスポークが見えるし、下はハブがあります。車輪でしょう。サイズもぴったりだそうです。この証拠は決定的です。イスラエルの民はこのアカバ湾を横切って、向こう岸のミデヤンの地、神の山ホレブ(シナイ)のある地に渡ったのです。そして、その後を追ったパロの戦車隊は海の藻屑となったのでした。


 エジプトの車輪製作の壁画

14:29 イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。 14:30 こうして、【主】はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。

 ちなみに、このアカバ湾の渡渉地点は東西に長さが20キロメートルほどで、深さは両岸から徐々に深くなっていて一番深いところでは500メートルから800メートルほどです。モーセの筆は、「14:22 そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。」また29節でも同じように「右と左で壁となった」と繰り返し強調していますが、まさに高さ500メートルないし800メートルの高さの水の壁がそそり立ったわけです。私たち人間は自分の見た範囲、聞いた範囲のなかに神様のことまで閉じ込めてしまおうとしがちな愚かで不信仰な者です。「水が左右に壁になることなどあるはずがない。あったとしても、せいぜい高さ3メートルといったところだろう」などと心の中で思ったりします。けれども、神様は私たちの不信仰や常識をあざ笑うかのように、現実に、海を二つに分けてイスラエルの民を乾いた地の上を渡らせたようですね。


むすび
 万物をその権威あるおことばによって創造なさった主なる神は、通常は、ご自分の立てた自然法則によって自然を摂理なさっています。しかし、必要に応じて、ご自分の望むままに自然法則を停止して別の方法で支配することがおできになります。奇跡のことを特別摂理といいます。本日のみことばの最後に「14:31 イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。」とあります。荒野を旅立った彼らに、信仰を与えるためでした。
 私たちも、神様を自分の常識の範囲内に閉じ込めるというようなことをしていないでしょうか。「あなたの神は小さすぎる」という本がありましたが、自分の頭のなか、自分の常識のなかに神様を閉じ込めることは愚かなことです。万物を無から創造し、これをすべ治めておられる私たちの全知全能の神様は、人間の小さな頭に閉じ込められるようなお方ではありません。
 主イエスはご自分の故郷に帰ったとき、ほかの町で行ったようには多くのしるしをすることができませんでした。主イエスは彼らの不信仰に驚いたとあります。神様の力と恵みはあふれるほどであるのに、私たちの信仰の器が小さすぎてその恵みを受け取れないとしたら残念なことです。
 悔い改めて、天地万物を創られた、全能なる神を信じましょう。


<注記>
写真の出典 http://www.wyattmuseum.com/red-sea-crossing.htm
 考古学的資料の出典:今回の説教に引用した考古学的知見は、一部私見により修正してありますが、ロン・ワイアット(セブンスデーの信徒のようです)のグループの発表したものに基づいています。ただし、3枚目の地図はBible Hubのもので、そこには伝統的シナイ山とミデヤンのシナイ山が併記されています。ルートは筆者が書き加えました。ロン・ワイアットの発見について、専門の考古学者は無視する傾向が強いようです。私自身は、彼のもろもろの発見についてのレポートを見て、玉石混交であるなあという印象を持っています。その中で、出エジプトルートにかんしては、「玉」であると判断しています。