苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

復活の希望

1コリント15:20−23、50−58


 「主はよみがえられました!」(まことに主はよみがえられました。)
 今年のイースターは、主イエスの復活の事実に基づく、私たち自身の復活の希望についてみことばを味わいましょう。


1 初穂なるキリスト

 イエス様は十字架上で、ご自分の体を私たちの罪の贖いとして父なる神におささげになりました。そして、日没前にイエス様のなきがらはエルサレムのアリマタヤのヨセフの横穴式の墓に葬られました。墓の入り口には巨岩が立てかけられて、厳重に封印がされ、亡骸が盗まれないように番兵がそこで寝ずの番をしました。ところが、その日から数えて三日目つまり週の初めの日の朝、ガリラヤからイエス様についてきた女たちが墓に出かけてみると、あの巨岩は横にどけられ、墓の中に主イエスのなきがらはありません。そこにいた天使は、女たちに言いました。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。 ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24:6)亡骸が無かったということは、主イエスのよみがえりは単に霊魂のよみがえりではなく、からだを伴ったよみがえりであったということを意味しています。主のおからだが、栄光のからだに変えられてよみがえられたのです。
 そのあと、主イエスは弟子の中に現れましたが、弟子たちは幽霊ではないかと誤解しました。そこで主イエスは腕や足を見せ、それでも弟子たちが信じないので焼き魚まで食べて見せて、ご自分が単なる霊ではなく、からだをもってよみがえられたということを証明して見せられました。主イエスのよみがえりは、弟子たちの心の中の出来事ではなく、また、霊魂のみがよみがえったということではなく、からだをともなった事態でした。
 

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

 主イエスは、罪の呪いとしての死を打ち破って復活されたのでした。22節前半に「アダムにあってすべての人が死んでいるように」とあるように、人類の代表であるアダムにおいてすべての人のなかに罪と死がはいってきました。すなわち「罪から来る報酬は永遠の死」です。しかし、主イエスは、第二のアダム、第二の人類の代表として、その報酬をすべて嘗め尽くされて、復活なさったのでした。
 主イエスは第二のアダムでした。「初穂」ということばは、それと関係します。20節、23節に繰り返されています。主イエスの復活は初穂です。初穂ですから、そのあと続々と畑中で収穫できるようになるということです。永遠の神の御子イエス・キリストは、時満ちて人となってこの世にきてくださり、22節後半に「キリストによってすべての人が生かされる」とあるように、人類の代表(第二のアダム)として、罪の贖いを成し遂げて復活されました。代表である主イエスが初穂として復活なさったので、終わりの日、主イエスを信じる者たちはみな次々に復活することになります。肝心なことは、イエス様に結びついてこそ、永遠の祝福に復活するのだというこのポイントです。
キリストの再臨の前にこの世での人生を終わった兄弟姉妹たちは、霊として天の主イエスのもとで復活の日を待ってすごしています。その状態についてパウロは、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」(ピリピ1:23)といいました。それ自体すばらしい祝福された状態ですが、究極的な祝福は、再臨の日、復活の日に、主イエスの復活のからだに似た新しい栄光のからだを与えられて、よみがえって正義の住む新しい天と新しい地で永遠の至福のうちに主を賛美しながら過ごすことです。


2 私たちは変えられる・・・復活の様態

 本日は、このあとの長い議論はとばして、次に私たちの復活の様態、ありかたについてみことばに学びましょう。50節から53節。

15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

 パウロは自分の目が黒い間に主イエスが再臨なさると信じて、このことを書いています。「パウロの予想は外れたではないか」と非難するのは的外れです。むしろ、キリスト者は主の再臨を自分がこの世にあって生きている間にお迎えするのだという、生き生きとした信仰、いつでも主をお迎えできるという緊張感をもって生きるのだというお手本です。
主イエス最後の審判と新しい天地を創造するために再臨なさるとき、私たちは、世の終わりのラッパが世界中に鳴りわたるのを聞くことになります。次の瞬間、私たちは主イエスの御前にさーっと引き上げられ集められるのですが、そのとき、私たちは「変えられるのですἀλλαγησόμεθα」。
 からだに障害を負った方たちは、この新しい栄光のからだに変えられるということに大きな慰めを希望を持たれるそうですが、変えられなければならないのはそうした方たちばかりではありません。私たちは、御国を相続するためには、みな変えられなければならないのです。罪に染まったこのからだからきよいからだに、朽ちるからだから朽ちないからだに私たちは変えられなければなりません。復活された主イエスのからだに似た栄光のからだに変えられるのです。
どのようなからだに変えられるかについて、パウロは苦労して説明しています。42節から「 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、 15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、 15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」そのからだは「御霊に属するからだ」と呼ばれますが、単なる霊ではなくからだなのです。
 復活において、私たちが変えられることについて、どのように考えたらよいのでしょう。あの真っ黒な小さな種から目にも鮮やかな青あるいは赤紫の朝顔を咲かせることのできる創造主である神様は、私たちを罪に染まったからだを、主イエスに似たきよく麗しいものにつくりかえてくださるのです。それであってこそ、神の子たちの住まう天の国は麗しい園となります。その日を期待し、希望をもって待ちましょう。


3 死は勝利にのまれた

 私たちが復活させられるとき、同時に死が滅ぼされます。

 15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

 死は「恐怖の大王」と呼ばれます。主イエスが死に対して勝利を収めてよみがえられたにもかかわらず、その後も、なお死は人を脅かしています。たとえクリスチャンであっても、なお死に対する恐怖というものからまったく解放されているわけではありません。私たちは死というものに対して、何か強烈な違和感をもっています。
  蜂がくるとみなキャーッといって逃げます。蜂が怖いからです。なぜ蜂が怖いか。それは蜂にはとげがあるからです。蜂からとげを取り去ったら、こわくなくなるでしょう。死にはとげがあります。とげがあるから死は怖い。では、死のとげとはなにか?「死のとげとは罪であり、罪の力は律法です」とあります。死には罪という鋭いとげがくっついていて、その罪がチクチクと恐怖を与えるのです。人は創造主がそれぞれの心に刻まれた律法(良心)のゆえに、心の奥底に罪責感をもっています。自分は罪があって、心の中までお見通しのお方の前に出たら、どうしたって裁かれなければならないということを、薄々知っているのでしょう。世を去って、向こうに行ったなら、何か恐ろしいさばきがあって自分の心に抱いた憎しみや殺意や汚らわしいこと、口で語った悪いこと、そして人の目には隠しおおせたけれども神はご存知の恥ずべきことのすべてが明るみに出され、律法にしたがって裁かれるのです。実際、聖書は「人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まって」います。
しかし、イエス様を信じるならば、もはや死を恐れる必要がなくなります。主イエスを信じる者にとって、自分の罪のとげは抜き去られて主イエスがそれを引き受けて苦しんでくださったからです。主イエスは、さばきにおいて、「彼の罪はわたしがすべて背負ってのろいを受けました。彼は赦されています。」と弁護してくださるでしょう。
しかし、死はアダムの堕落以来、この世界に入ってきたものですから、キリスト者にとってそれは恐れる必要の無いものになってしまったとはいえ、なお不気味なものとしてあります。ですが、主イエスの再臨のときには、イエスを信じる者は、初穂である主イエスに続いて死に勝利して復活するのです。そのとき、死は死んでしまうのです。そして、私たちは栄光のからだをもってよみがえり、正義の住む新しい天と地に住むことになります。

 
結び いつも主のわざに励みなさい
 死によってすべてが無くなってしまうとするならば、この世の営みは過ぎ去るもの、むなしいものです。どんなにまじめに励んだとしても、好き勝手なことをしてでたらめなこと悪いことをしてこの世を過ごしたとしても、死ねばすべてゼロだというならば、実にむなしいことです。
 また、死の向こうにすべてをお見通しの聖なる審判者の前に出なければならない、恐ろしいさばきが待っているとすれば、罪のゆるしを神の前に得ないままにこの世ですごすことは、あまりにもうかつなことです。
 主イエスは再びおいでになり、復活とさばきの日が来るのです。そして、新しい天と新しい地という全被造物の救いが到来します。主イエスを信じて、そのわざに熱心に励む者に、義の栄光の冠が授けられ、新しい天地での神の栄光を拝する人生がはじまります。今のこの世におけるキリスト者の人生は、その永遠の人生のための有意義な準備です。

15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。