苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主イエスが十字架にかかられた年代と日時   追記あり

 今週は受難週です。ちなんで、主イエスが十字架にかけられた年代、日時について、少しメモしておきます。


1 主イエスが十字架につけられた時刻

 聖書には、主イエスが十字架にかかられた時刻について記録があります。
「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」(マルコ15:25)これはギリシャ語本文では「第三時」と書かれています。他方、ヨハネ福音書は、ピラトの判決がくだったのが、「第六時」とあります。ヨハネ19:14。
 プリニウスの博物誌によると、古代社会ではどこでも、庶民と役人・祭司の日の区切り、時の数え方がちがったそうです。ユダヤの庶民は一日を日没から日没としました。そして、日の出から日の入りを日時計で区切ってはかったそうです。マタイ、マルコ、ルカはこの庶民の時の測り方によったものでで、それによれば「第三時」。
 他方、ヨハネ福音書における時法は他の福音書とちがって公のもののようです。これは現代と同じく一日は真夜中から真夜中を意味しました。公時計では「第六時」。


2 日付

 では日付はどうか。主イエスが弟子たちと過越祭の食事を最後の晩餐としてとった同日です。なぜならユダヤ暦太陰暦)では日没から日没が一日だからです。過越祭はユダヤ暦ニサンの月の14日の日没後、つまり15日から1週間もたれました。
「第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。この月の十五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。
 七日間、火による捧げものを主に捧げる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。」(レビ記23:5−8)
 そして、主イエスは「種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越しの小羊をほふる日に」(マルコ14:12)、弟子たちと二階の広間で最後の食事をとり、その夜、逮捕されて、深夜にユダヤ最高議会の裁判にかけられ、夜が明けてピラトのもとに裁判にかけられて、午前9時に十字架につけられたのです。
 というわけで、主イエスが十字架にかけられたのはユダヤ暦ニサンの月15日であったことになります。

 次に、主イエスが十字架にかけられた年代です。これが聖書では明示されていません。ただ、次のような手がかりがあります。
「皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。」(ルカ3:1−3)
 そして、主イエスヨハネからバプテスマを受けて、「 教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で・・・」(ルカ3:23)とあります。
 ヨハネがどの程度の期間活動をして後、主イエスが彼からバプテスマを受けたのかが明記されていませんが、テベリオの治世第15年から1〜2年のうちだっただろうと思われます。
 テベリオ(ローマ式にいえばティベリウス)の治世というのは、西暦紀元14年 - 37年ですから、「テベリオの治世第15年は西暦28年」で、主イエスが教えを始めたときは、西暦28年から30年くらいではないかと思われます。
 ヨハネ福音書によれば、主イエスの活動期間に祭りが3度めぐっているので、主イエスが十字架にかかられたのは西暦31年から33年です。

 ここで、ルカ福音書には主イエスが十字架にかかられた日、正午から午後三時にかけて太陽が光を失い暗闇があたりを覆ったという記録があります。
「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。」ルカ23:44,45
 主イエスが十字架にかかった日の正午から暗闇が全地を覆ったことは、同時代の小アジア年代記記者フレゴンの記事においても証言されているので、文学的フィクションでなく歴史的事実であることが確認されます。
「第202回のオリンピック大会の第4年目、日食が起こった。それは古今未曾有の大日食であった。昼の第6時(すなわち正午)、星が見えるほどの夜となった。ビテニアに起こった地震でニケヤの町の多くの建物が倒壊した。」
参照→http://www.textexcavation.com/phlegontestimonium.html

Quarto autem anno CCII olympiadis magna et excellens inter omnes quae ante eam acciderant defectio solis facta; dies hora sexta ita in tenebrosam noctem versus ut stellae in caelo visae sint terraeque motus in Bithynia Nicae[n]ae urbis multas aedes subverterit.
<英訳>
In the fourth year, however, of Olympiad 202(AD32/33), an eclipse of the sun happened, greater and more excellent than any that had happened before it; at the sixth hour, day turned into dark night, so that the stars were seen in the sky, and an earthquake in Bithynia toppled many buildings of the city of Nicaea. These things [are according to] the aforementioned man.

 しかし、これは通常の自然現象としての日食ではありません。というのは、主イエスが十字架についたのは過ぎ越し祭のときであり、過ぎ越し祭は春分の後の満月の時に開催されたからです。満月のときには、日食は起こり得ません。それに、今世紀最大の日食といわれたおとといの日食でも数分にすぎませんが、主が十字架にかかられたときの日食は、実に正午から午後三時までの三時間にわたりました。
 というわけで、主イエスが十字架にかかられた年代は「第202回のオリンピック大会の第4年目」ということになります。
 主イエスが十字架にかかったのは、第202回のオリンピック大会の第4年目、ユダヤ暦ニサンの月の第15日の朝9時から午後3時の出来事でした。
 
<追記2017年4月>
教えてgoo」に次のような記事を見つけました。

 キリストの死亡日については実は確定的なことがわかっていませんが、新約聖書の記述を見る限り、過越しの祭りの準備の日だということがわかっています。これは、春分の日の翌日で、しかも満月の日に設定されており、曜日を考えると、二つの可能性があります。一つが、No1の方の挙げた、AD30年、4月7日。もう一つがAD33年4月3日です。この二つで決着はついていませんが、現在、どちらかというとAD33年の説が優勢になりつつあるようです。というのは、ルカによる福音書には、キリストが処刑された日の、昼から3時ごろまで全地が暗くなったという記述があります。これが、地中海地方全体にみられた実在の天文現象であることが、古代文献の記述からわかってきたからです。これが起こったのがAD33年なのです。
 また、蛇足ですが、ダニエル書の預言を正確に計算すると、キリストはAD32年以後も生きていることが暗示されるので、この点からもAD33年説が整合性があります。(もっとも、ダニエル書の件は、預言の神秘性を信じない人にはただのオカルトです。)
 ただ、AD33年説をとると、キリストの死亡年齢や、宣教期間が、伝えられた期間より長くなってしまうので、そこの部分の整合性はわかっていません。いずれにせよ、決着はついていないというのが現状です。