苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

恐るべき神

エレミヤ書を読んでいます。

19:3 言え。『ユダの王たちとエルサレムの住民よ。【主】のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの所にわざわいをもたらす。だれでも、そのことを聞く者は、耳鳴りがする。
19:4 彼らがわたしを捨ててこの所を見分けがつかないほどにし、この所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々にいけにえをささげ、この所を罪のない者の血で満たし、 19:5 バアルのために自分の子どもたちを全焼のいけにえとして火で焼くため、バアルの高き所を築いたからである。このような事は、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったことだ。
19:6 それゆえ、見よ、その日が来る。──【主】の御告げ──その日には、この所はもはや、トフェテとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。
19:7 また、わたしはこの所で、ユダとエルサレムのはかりごとをこぼち、彼らを敵の前で、剣で倒し、またいのちをねらう者の手によって倒し、そのしかばねを、空の鳥や地の獣にえじきとして与える。

 まことの神を捨ててバアル崇拝にふけり、神が賜ったわが子をバアルのいけにえとしてささげていた南ユダ王国に対する主の、最終的なおそるべきさばき。東方からバビロンのネブカデネザルの軍が襲来して、ついにエルサレムが陥落する。
 この預言は紀元前586年に実現した。エレミヤの預言と、その成就を読むときに、主は歴史を現実に支配なさる恐るべきお方であって、人間が自分の欲求や慰めのためにつくりだしたフィクションの「神」ではないのだということを思い知らされる。私たちは、神を恐れなければならない。