苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

集団的自衛権のこと

 安倍首相は相変わらず集団的自衛権行使ができるように解釈改憲をすることに意欲的である。三権分立を踏みつぶしてでも、実現しようという構えであるほどに。集団的自衛権とは何なのか?メモしておきたい。
 国家の自衛権には、個別的自衛権集団的自衛権がある。前者は自国が他国から攻撃を受けた場合、自衛をする権利であり、これは従来の政府見解では憲法9条の範囲内にあるとして、自衛隊は我が国に対する他国への反撃はできるとしてきた。そして、日米安保条約のゆえに、日本に対する第三国からの攻撃があった場合、米軍は自衛隊といっしょに反撃をすることに一応なっている(ただし米国議会の賛成が必要)。

 他方、集団的自衛権とはなにか。それは、日本の同盟国Aが、Bから攻撃を受けた場合、日本がBから攻撃を受けていなくてもBを攻撃をする権利を意味している。論者によってしばしば「日本が他国から攻撃されたとき、米国の軍隊が日本を守るために集団的自衛権を行使して戦ってくれるのだから、日本だって米国が攻撃されたときには戦うのが筋ではないか。仲間が攻撃されたら、いっしょに戦わなければ男がすたる」というふうに擁護されることが多い。
 一見もっともらしく聞こえる議論であるが、本当だろうか?抽象論をを述べていてもよくわからない。具体的な歴史において、集団的自衛権はどのように用いられてきたのかを振り返ってみよう。

 1968年、チェコスロバキアで起こった民主化運動「プラハの春」をソ連軍の戦車が踏みつぶしたとき、ソ連集団的自衛権を行使したまでであると主張した。すなわち、チェコスロバキア政府とソ連政府はワルシャワ条約機構に属する同盟国であるから、チェコスロバキア政府に対する「民主化運動」という共通の敵を攻撃したまでであるというのである。ソ連の傀儡政権を守っただけである。・・・こんなものがどうして「自衛」と言えようか?実際には、覇権国ソ連からの独立運動ソ連がつぶしただけの話である。
 1964年以降の米国のベトナム戦争介入も集団的自衛権行使だとして正当化されている。米国が南ベトナムの傀儡政権を守るために、北ベトナムを攻撃した。どうしてこれが米国の「自衛」だといえようか。
 集団的自衛権」というのは、上に書いたような「仲間が攻撃されたら、いっしょに戦わなければ男がすたる」といったお話とはちがって、実際には、覇権国が自分の傀儡政権を脅かす民主化(つまり覇権国からの独立運動)をつぶしてしまうための口実として用いられてきたのである。

 こうした具体的な歴史を踏まえて考えると、日本において集団的自衛権行使を認めるということは何を意味するのだろうか。日本は覇権国ではないから傀儡政権など持っていない。むしろ、日本政府がかなりの程度米国の傀儡的状態である。
 実際に、米国が日本に期待しているのは、米国が世界で行っている戦争の手伝いをしてくれということである。その昔、元寇のとき、高麗軍が駆り出されて玄界灘の藻屑と消えたように。あるいは、ベトナム戦争のとき韓国軍が駆り出されて5000人戦死したように。
 国内に巨大な軍需産業を抱えている米国は戦争中毒状態であり、10年ごとに「在庫一掃セール」としての戦争をしなければならないと言われる。兵器は戦争しないと消費せず、10年も経つと旧式になってしまうからである。こういう戦争中毒の国が引き起こす戦争の手伝いをするために集団的自衛権を行使できるようにするならば、日本もまた戦争中毒になってしまうのは必定である。