苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

KGK春期聖書学校 Ⅳ 被造物との和解 (その1)


「もしあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣のあるのを見つけ、その中に雛または卵があって、母鳥がその雛または卵を抱いているならば、母鳥を雛と一緒に取ってはならない。 22:7必ず母鳥を去らせ、ただ雛だけを取らなければならない。そうすればあなたはさいわいを得、長く生きながらえることができるであろう。」申命記22:6,7

復習
 大事なことを二点復習してから、本題に入る。
 第一は、「おいしいおにぎりの秘訣はなにか」である。おいしいおにぎりとは、お米の一粒一粒が生きていて、しかも全体がばらけないということ。つまり多様性と統一性の両立したおにぎりこそ、存在論的に優れたおにぎりである。
 第二は、時のラセン構造である。ギリシャやインドの時間観念は円なので歴史はない。しかし、聖書の時間論は始まりと終わりがある線分である。それと同時に、「夕があり朝があった」を繰り返しつつ、時は創造から完成に向けて前進して行くから、聖書的な時間は螺旋的である。
 時は創造から終わりに向けての線分だから、今日という日は一回限り。しっかり、今日を生きるべきである。しかし、時は繰り返すから弱い私たちは朝を迎えて、「いざ、もう一度!」と再チャレンジすることが許されている。


序説 スケープゴートにされたキリスト教

(1)リン・ホワイトの憶説と歴史の事実
リン・ホワイトが1967年に発表した「現在の生態学的危機の歴史的根源」以来、環境派によって次のような主張がなされ続けて、今では常識のようになっている。いわく、「キリスト教は、神が、人間を自然の支配者として世界に置いた人間中心の教えによって自然破壊を促進した。これに対して、東洋的な自然宗教は人間もまた自然の一部にすぎないと教え、人間は自然を尊敬し、これを破壊しない。」朝日新聞などでよく見る論調である。

 まじめなキリスト教徒はすぐに反省しがちなのだが、これは事実に基づく主張なのか?素朴に自分自身をふりかえって、キリスト教徒になってから、山にゴミを捨てたり、石油を無駄遣いするようになったかというと、むしろ逆である。「常識」になっているホワイト説は、ただの作り話ではなかろうか。それに、もし自然宗教が環境を保護して来たということが事実ならば、オリエントや中国の自然宗教の地域では環境は守られて来たはずであろう。だが、実際はそうでなかった。
 かつて豊かな森林だったという古代メソポタミアは、今は不毛の地である。古代メソポタミア人の宗教は、いわゆる自然宗教だった。彼らは焼きレンガを作るためと、農地拡大のために森林伐採をした。その結果、森林の蒸散作用が失われて雨雲ができなくなり 、彼らは灌漑をしたが、その結果、川の水に含まれる塩分のために塩害が起こり砂漠化してしまった。
 古代中国もまた、自然宗教の地であった。ここでは北方からの騎馬民族の侵入をふせぐ万里の長城を築く為に、莫大なレンガを製造するために森林が次々に燃料として用いられて消失していった。ゴビ砂漠はそのあとだと言われている。
 かつてヨーロッパは森に覆われていた。キリスト教宣教師が、ケルト人やゲルマン人が神として拝み動物やときには人を生贄として捧げた神木を切り倒したということを取り上げて、環境派はキリスト教が環境破壊の元凶だという。だが、宣教師たちがしたことは「森林破壊」でなく、彼らを子どもなどを樹木に生贄としてささげる迷信から解放するためのデモンストレーションにすぎなかった。
 実際に、ヨーロッパの森林を破壊したのは12世紀の農業革命と大開墾、そして16世紀以降の帝国主義諸国による植民地争奪戦のための軍艦建造競争である。スペインはかつての森林に覆われた緑豊かな国土を、無敵艦隊アマルダと引き換えに赤土の荒野とした。そして、産業革命後、環境破壊はさらに世界に急激に拡大した。
 現代アフリカの砂漠化の原因は過度の焼畑農業である。中国も過放牧で砂漠化が急激に進んでいる。米国、オーストラリア、インドなどの経済効率優先の大規模灌漑化学農法も大地を砂漠化している。世界で毎年6万平方キロが砂漠化している。
 現代のグローバリズムを掲げる市場原理主義自由主義経済は、今、造り主が託してくださった大地を急速に滅ぼしつつある。穀物メジャーは、発展途上の国の大地主に札束をもって近づき、森を切り払って農地を大規模化し、単作・機械化・化学農法を持ち込んだ。結果、農民たちの伝統的農業技術は失われたが、大量の穀物を安価に収穫することができるようになり、世界の市場に売りさばいて、穀物メジャーは莫大な利益を得た。大地主はもちろん農民たちも、かつて経験したことのない収入にいろめきたった。
 しかし、十年もたつと大量に投じられた化学肥料と農薬と連作で大地は疲弊して、ろくすっぽ収穫ができなくなった。また、森が切り払われて農地が大規模化したために、土壌が風で飛ばされてしまったことも大地の荒廃をもたらした。すると、国際穀物メジャーはさっさと生産地を他国に移してしまう。
 あとに残された農民たちは伝統的農業技術も、それに適正規模の農地も失ってしまっている。さらに、森が切り払われたために、蒸散作用が失われて、雨雲が形成されなくなってしまい、大飢饉がその国を襲った。骨と皮しかない子どもたちが土を口に運んで飢えをしのぐありさまが世界に報道される。すると、国際的支援が必要ということで国連が動き、国々が拠出して大量の小麦を買いつけて、大飢饉に襲われた国の人々に提供することになった。この機会にまたも莫大な利益を上げたのが、かの国際穀物メジャーだった。マッチポンプなのである。
 こうした悲惨で罪深いことが、アフリカ、インド、南米、アジアの第三諸国で繰り返されてきた。貪欲なグローバリズム経済は、造り主が人類に託された大地を収奪しつくして滅ぼしてしまう。グローバル企業というものは、特定の国や国民に対してなんら忠誠心というものを持ち合わせておらず、ただ企業利益だけを目的として活動している貪欲な怪物である。かつて英国のトマス・ホッブズは、近世に登場した中央集権的な近世近代の国家を旧約聖書ヨブ記に登場する怪物リヴァイアサンレビヤタン)にたとえたが、それをも呑みつくす現代のリヴァイアサンは、自由市場主義経済を教義とするグローバル企業である。TPPは、こうした動きの典型。
 結局、事実を見れば、マモニズム(=経済第一主義)と戦争こそが地球環境破壊の元凶であった。マモンこそは最強の偶像である。特に現代のグローバル経済主義は、環境破壊を急激に推し進めている。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ:24b)マモンが登場すると、自然宗教の神々は吹っ飛んでしまうし、キリスト教徒も目が眩んだ。環境破壊の歴史を観察するならば、洋の東西を問わず、破壊の元凶は貪欲(無制限な経済活動)と戦争であった。現代でも同じである。戦争もまた貪欲がその根っこにあることを考えると、環境破壊の元凶は貪欲にある。そして、現代の市場原理主義経済は、人間の貪欲を無法状態においておくべきだということによって、ますます状況を悪化させている。
 環境問題の本質は、水の問題、森の問題、空気の問題ではなく、人間の貪欲という問題なのである。


1.神は人を土から創造し土地を耕させた

 「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」創世記二:七

(1)人。偉大にして卑小なる存在
 我々はこのみことばから、人の尊厳と人の卑小とをあわせて読み取り、それを自覚すべきである。すなわち、人は神の息を吹き込まれた存在であるゆえに偉大なものであり、かつ、人は土地のちりを材料として造られたものであるゆえに卑小なものである。周知のごとく、人はアダマー(土)から造られたゆえに、アダムと呼ばれる。アダムは、土から形造られたものであるゆえに他の土からの被造物たちの一員であることをわきまえ、かつ、神の息を吹き込まれ「神のかたち」に創造されたゆえに神の代理者として地を支配する任にあずかっていることをわきまえるべきであった(創世記一:二六参照)。
 これら二側面ある人間の片面のみを知ることは有害である。しかし、人間の神に似せられたゆえの尊厳と土から造られたという卑小の両面を知ることは有益である。
 「人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣にひとしいかということばかり知らせるのは危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険である。しかし、人間にその両方を示してやるのは、きわめて有益である。人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべきである。」(パスカル『パンセ』L121,B418)

(2)人の任務「地を耕し、守る」
 神が人間に与えた任務はなにか。創世記一章は「地を支配せよ」「地を従えよ」とある。このことばは、悪しき専制君主としての大地の支配・収奪を意味していなかった。というのは、悪しき専制君主は堕落後の人間世界に出現したものだからである。ここには本来的な神のしもべとしての君主の支配が語られているのである。それは、創世記第二章十五節からあきらかである。「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」
 人が地を「支配し、従える」ことの内容とは、園を「耕し、守る」ことであった。ヘブライ語において「耕す(アバド)」と「しもべ(エベド)」が同根の語であることは興味深い。「耕す」を「仕える」とうがって訳してみれば、「地に仕える」ことが人の大地支配の内容である。日本語の語感からいえば「畑の世話をする」というあのことばに当たろう。
 他方、「守る」ということばは、農業という産業には、単に作物を得ることだけでなく、環境保全という重要な役割があることを示唆するものとして読み取れるであろう。井上ひさし氏は農業と工業の本質を比較して、工業は周囲からいろいろなものを取り込んで製品とともに排気ガスや廃水をはじめとするゴミを出す環境破壊型産業であるのに対して、農業は周囲からいろいろなマイナスをプラスに転じうる産業であると指摘する(3)。
 たとえば家畜の糞尿や生ゴミは堆肥化されれば、やがて作物となる。また、水田は豪雨をいったんためて置いてゆっくり川に流すというダムの役割を果たす。日本では水田が五百億トンのダムの役割を果たしているという。また、水田には地下水の涵養という働きもある。近年、豪雨があると都市部の河川――たとえば神田川――がいとも簡単に氾濫するようになり、あるいは地下水が枯渇しているのは、都市近郊の田園の宅地化が原因している。今後、コメの輸入自由化により中山間地の水田が破壊されていくにしたがって、河川下流域の洪水が慢性化することは必然である。また、農業は景観の保護という役割もある。
 このように、「耕し、守る」農業には食糧生産のみならず環境保全の機能があるのである。ただし、これは後述するが、工業化された近代化学農法が環境破壊をもたらしていることも事実である。しかし、本来的に農業は工業とちがって、食糧生産のみならず環境保護を同時に行なうことのできる産業なのである。そういう意味で、創世記が神が人間に最初に与えた仕事が「耕し、守る」農業であったと啓示しているのは、意義深いことではなかろうか。ここには人間の自然に対する基本的な働きかけのありかたの原理が示されているのである。


2.人の罪ゆえに、土地は呪われ、人は土地に呪われる

(1)人と土地は敵対関係に・・・創世記第三章
 人類は始祖アダムにあって、神の戒めに背き、その結果、神との関係、隣人との関係、そして大地との関係において不調和を来すことになった。創世記第三章から見れば、人はかつて信頼と畏怖の対象であった神を恐怖と憎悪の対象と見るようになり(十、十二節)、男はかつて愛と保護の対象であった妻に責任を転嫁したり(十二節)、暴君的に支配するようになり(十六節)、その妻はかつて信頼と自発的従順の相手であった夫を意のままにあやつることを望むようになった(十六節、三章七節)。
 土地はどうなったか。「土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地はあなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」とあるように、かつて人の働きに従順に答えて豊かに実りを産した大地は、人の懸命の労働を徒労に終わらせようとするような性質を持つものとなってしまった。なお新約聖書の記述から見れば、ここでいう呪われた「土地」は、単に地面だけではなく、被造物全体を指していると見てよい(ローマ八:十八−二二)。

続きは(その2)へ。