苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

KGK春期学校のお話Ⅳ 被造物との和解(その2)

(2)都市文明・・土地に疎外され土地を疎外する・・・・創世記四章
 アダムの子カインは、土地に弟アベルの血を流した。神は言われた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今は、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(創世記四:十−十二)
 土地に呪われたカインは、主の御顔の前から去って、エデンの東にノデの地に住みつく。ノデという名は流浪という意味である。流浪の地に住み着くというのは聖書一流のアイロニーである(4)。カインはそこに初めて町を建て、これにエノクという名を付けた。 さらにカインの一族から、最初の一夫多妻主義者にして傲慢な権力者レメクが生まれ、天幕に棲む者、家畜を飼う者、竪琴を奏する者、青銅と鉄の鍛冶屋が出てきたという。都市、権力、文明の華々しい原初の姿がここに記されている。エリュールがいうように、「都市の歴史がカインによって始まるということは、数多ある些末事のひとつとみなすべきではない(4)」のだ。これがアウグスティヌスが言う「この世の都」の始まりである。
 創世記第四章末尾には、カイン一族の華々しい「この世の都」の繁栄と比較対照されるように、セツに始まるつつましい「神の都」の記述がある(5)。まことに主がおっしゃったように「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜け目がない」ものなのである。神は敬虔なアベルの死後、アダムに彼の代わりにセツをお与えになる。セツから生まれたエノシュの生まれた時から、「人々は主(YHWH)の御名によって祈り始め」、ノアに至る一族は神を畏れる敬虔な一族となった。
 ちなみに「エノシュ」という名は、「アーナシュ」つまり「弱い、病気である」という語の派生語と見られ、普通名詞として「人」という意味に用いられる場合には人間の弱さや死ぬべき運命にある存在という意味を含む語として用いられる。たとえば神の御手のわざである星空を見上げたダビデ詩篇八編「人とはいったい何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」とあるように(6)。あるいはエノシュは、親がその子のために日夜涙かわく暇なく祈らないではいられぬほど病弱な子だったのかもしれない。神が祈りと認められる心の態度の第一は無力さであり、無力である人だけがほんとうに祈ることができるのであり、祈りは無力な人のためのものであると北欧の敬虔な神学者が言うように(7)、無力のなかでこそセツの一族は主の御名によって祈り始めたのであろう。神の 国は心の貧しい者たちのものなのであった。
 以上、創世記第四章の記述において注目すべきことは、神を畏れる敬虔な一族は人間の無力の自覚と祈りをその特徴とし、神に背を向けた土地に呪われたカインの一族は「力への意志」をその特徴とし、都市と文明はこのカインの一族のうちに最初に現れたということである。創世記記者は文明・都市というものにつきまとう性質をこの記述のうちに暗示している。文明が神の御顔から去り、土地にのろわれた一族のうちから生じたというのは、彼らが神の代用品(偶像)として都市文明を築いたということを示唆している。神から保護の約束をいただいてもなお神の保護を信じられなかったカインは、外敵を防ぐために城壁を築き、町を築いた。土地に呪われたカインは、かえって土を忌み嫌ってこれを石畳で覆い尽くした。神の慰めを持たずたましいのうちに天使の賛美を聞けぬカインの一族は自ら音楽をも工夫して、心の慰みとした。神の大盾を信じられぬカインの一族は青銅や鉄で武器を工夫して敵に備え、さらに侵略を企てた。
 むろん、文明のもろもろの利器はカイン族のうちにとどまらず、セツの一族の用いるものともなって、そういう技術があったればこそ、ノアもあの巨大な箱舟を建造することができたであろう。また、後には神の民も楽器をもって神を賛美するようになるし、青銅器や鉄器も使うようになる。ゆえに、文明即背教と創世記は語っていない。しかし、それにもかかわらず創世記第四章は、都市と文明の発端について、背教的動機を語ることによって、我々に都市と文明を偶像化する危険に警戒を怠らぬように求めている。それは、バベルの塔の記事にも共通している。都市と文明はえてして、人を傲慢にして、人を背教へと走らせる。この事実は、近代都市文明が、どれほど人の心を神から遠ざけてきたかを見てもあきらかであろう。近年、都市文明のかつての栄光が曇りつつあるものの、なお現代人にとって都市文明は巨大な偶像である。
 だが、すべての偶像崇拝が結局は人を裏切り絶望に陥れるように、偶像化された文明の利器は人を裏切り絶望に陥れる。原子力発電は、その一例である。 


3.それでは、いかに生きるべきか?

 聖書における「神と土と人」との関連をあきらかにすることのみならず、これを現実の我々の生活のうちに適用する可能性を探ることにある。
 主の再臨が延ばされて、もし二十一世紀が続くとすれば、人類が直面する三つの問題は人口爆発と食糧危機と環境破壊である。国連の統計では二○二五年に世界人口は八十三億に達するという(8)。今年五月、世界人口はついに六十億を数えた。今、世界で十億人か ら十五億人は栄養不良ないし栄養失調である。世界人口が八十三億に達したならば、食糧生産量と消費傾向が現状のままであれば、世界の半分は飢餓に苦しまなければならないことになる。

(1)全被造物の贖いのヴィジョン
 「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8:18−22)
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(2ペテロ3:13)
 聖書に啓示された再臨のキリストが終局的にもたらす救済とは、人類の救済のみならず全被造物の救済である。そこには人口爆発・食糧危機・環境破壊といった問題はない。人間はキリストにあって新しいからだを受け、被造物のかしらアダムの堕落以来、虚無に服していた被造物は、栄光の状態に入れられる。イザヤは幻のうちに凶暴な「熊も獅子もわらを食らう」御国を見た。
 今、我々が置かれているのは、キリストにある贖いが「すでに」なされたことを感謝し、「いまだ」訪れていないこの新天新地の完全成就に希望をおいて生きるという、二つの「時」の間である。ここにおいては、被造物の「産みの苦しみ」があり、我々もまた、産みの苦しみに参与すべきである。それが本来の「神と土と人」を回復することにほかならない。新天新地の訪れまで、それは完成しないであろうが、託されたタラントに応じてその任務を果たすなら、かの日には主に喜ばれより多くのものを任されるであろう。

(2)近代農法の問題性
①大規模・単作・化学農法による環境破壊
 二十一世紀、人類がかならず直面しなければならない問題は、人口爆発にともなう食糧危機と環境破壊である。そして、この二つの問題に同時に解決を与える可能性がある産業として農業があることを、我々は創世記から確信する。「地を耕し、守る」農業には、本来、食糧を生産すると同時に環境を保全する機能があるからである。
 しかし、現在、慣行農法と呼ばれている工業化された農業には希望がない。一九六○年代初頭から、世界各地で多収穫の種子と化学肥料と農薬をセットにした大規模・単作・機械化・化学農業が進められてきた。この農法は当初は驚異的な食糧増産を可能にし、「緑の革命」と賞賛され、その「奇蹟の種子」を造り出したノーマン・ボーローグノーベル平和賞を獲得した。ところが現在、「緑の革命」の結果はどうなっているか。

 大規模・単作・機械化・化学農法が導入された当初、もっとも顕著な成功例とされたインドのパンジャブ州では、「二十年後には疲弊した土壌、病害虫に蝕まれた作物、借金を負い、絶望した農民」と「紛争と暴力が残された」だけだった(9)。
 かつての世界各地の肥沃な地帯が、今日ではもはや作物のため力を生じなくなっている。大規模な農地は風食によって土壌を失って草も生えない砂漠と化してしまった。大規模な灌漑は地下水の枯渇をもたらしている。大規模農法では、除草剤を大量使用し、除草剤は土壌中の微生物を痛めつけ、地下水と河川を汚染する。また、大規模で単作をするために同一種類の病害虫が蔓延してしまうので、これを抑え込むために大量の殺虫剤を散布するので、土壌が汚染され農民と消費者とが薬害に苦しんでいる。
 また単作によって同じ作物をつくり続けたために、土壌中の微生物相の単純化がおこり、これが原因となって農地は連作障害に悩まされ、その解決のために「土壌消毒」と称して作付け前に毒ガスを土中に吹き込んで、土中の微生物を有用、有害区別なく殺し土壌を自ら破壊しているのが慣行農法である。
 化学肥料のアンモニア臭は害虫を呼ぶので、さらに農薬の大量散布を余儀なくさせている。さらに、化学肥料もまた土壌に微生物が住めなくなってしまう。土壌中に微生物が住まなければ、有機物は分解されず作物は栄養を吸収することができない。
 以上のように、かつて「緑の革命」と賞賛された近代的化学農法は、土を暴君的に支配し土から収奪する農法なのである。あたかもカインが土を憎んだように。そして、今や、地球規模で土は死滅しつつあり、食糧生産の基盤がうしなわれつつある。「耕し、守る」農法から遠い近代的化学農法に、二十一世紀の希望はない。

②遺伝子組み替え作物と環境破壊
 さらに、遺伝子組み換え作物の問題性についても、ここでごく簡潔に指摘しておきたい。推進者は、遺伝子組み換え作物こそ食糧危機の時代の大増産の切り札であると主張する。しかし、遺伝子組み換え作物とは、人間、それも消費者でなくおもに生産者の省力化・効率化のために、作物に遺伝子操作を加えたもののことである。
 たとえば、除草剤耐性大豆とはすべての雑草を枯らす強力な除草剤にも耐えるよう遺伝子を操作した大豆であるが、これは除草剤散布のコストを減らすために工夫された。懸念されていることが少なくとも二つある。第一は人間の健康被害である。そんな強力な除草剤を用いた大豆を食べて人間のからだは大丈夫なのか。また、遺伝子組み換え技術自体、安全なのかという懸念である。第二は環境破壊の懸念である。一部収穫されなかった遺伝子組み換え作物自体が雑草化し地球に蔓延してしまう恐れがある。また、最強除草剤に負けない遺伝子が、ミツバチやチョウによって花粉が運ばれることによって、類縁の雑草に広がり除草剤のまったく利かない雑草が蔓延し、生態系が破壊される。すでに、そうした実例がデンマークの研究所から報告されている(10)。遺伝子組み替え技術は「土を耕し守る」農業からは遠い技術である。
 昨年一九九八年八月英国ローエット研究所のパズダイ博士は、遺伝子組み換え食品の危険性をテレビで公表した。遺伝子組み換えジャガイモをラットに十日間与え続けた結果、脳、すい臓、脾臓、肝臓に影響が現れ、免疫機能も落ちたのである。ラットの十日は人間の一年に当たるという。公表の結果、産業界の圧力でパズダイ博士の研究資料は没収され、博士は研究所をやめさせられてしまった(11)。その後、英国では遺伝子組み換え作物閉め出しの動きが急になっていることは報道されているごとくである。
 聖書を信じる我々としては、遺伝子組み換え作物の健康に対する害の問題もさることながら、神が書かれた作物の設計図である遺伝子配列そのものに、人間が手を入れてるということが、いったい許されることなのかという重大な疑問を呈さざるを得ない。遺伝子組み替えというのは、品種改良とは質的に異なる作業である。その神を畏れぬ所業に対する報いは、いずれ人と土とに及ぶであろう。

③「耕し、守る」農業を
 神が我々に期待したまう農業とはどういうものであるか。それは、地を「耕し、かつ、守る」農業である。土を収奪するような農業ではなく、土に仕える農業である。それは、土から力を引き出して作物を得るだけではなく、同時に、環境を保全する農業である。このような農業が有機農業である。ここに、一九七一年以来わが国で有機農業の研究実践に取り組んできた日本有機農業研究会(代表幹事澤登晴雄)の今日までの研究の集大成ともいうべき『有機農業ハンドブック』(農文協、一九九九年)の序文の抜粋をもって有機農業の本質と現状と展望を紹介しておくのが適切であろう。
 「一九七一年に創設された日本有機農業研究会に集う私たちは、こうした農業と食生活のあり方を反省・批判し、いのちを育み、環境を守る<農>と<食>の創造をめざしてきた。そして、自給を基礎に置き、田畑に多種多様な作物を造り、畜産を組み合わせ、里山を活用して堆厩肥・飼料・種子などもできるだけ農場内・地域内で自給してきた循環的な農業の伝統に学び、ハワードなどの有機農業の原理にも触発され、近代農法を超える新たな農法の確立を模索している。
 農業技術面については、良質の堆厩肥を入れ続けて地力が回復し、栽培時期や品種を選べば、農薬や化学肥料を使わずに作物が育ち、生産量も慣行農業程度に確保できること、適切な飼料環境を整えれば、ホルモン剤や抗生剤なしで健康な家畜を育てられることを、長年にわたる全国各地の経験のなかで証明してきた。『有機農業は味はよいが、収量が少ないのではないか』『労力がかかりすぎる』『将来、食糧不安が増すなかで、有機農業ではすべてを賄えない』といった疑問に答えられる道が開かれたといってよい。
 しかも、有機農業は天候不順なときにも慣行農業に比べて病気の発生が抑えられる。大冷害だった九十三年にも平年作に近い収量を維持できた有機稲作農家が少なくなかったことは、記憶に新しい。異常気象が日常化した感がある昨今、いよいよ有機農業の真価が発揮されるときがきたのではないだろうか。」(12)
 少々、解説を加える。有機農業とは「土つくり」の農業である。有機農業でいう「土つくり」とは病原菌などの微生物がはびこることを抑え、作物の育成に役立つ多様な微生物が暮らせる環境としての土の状態をつくることである(13)。化学肥料・農薬、大規模農地、単作・連作は微生物の住みかとしての土を破壊する。そこで、有機農業では、微生物の住みかとしての土の団粒構造を造るため完熟堆肥を用い、かつ微生物の餌のために有機肥料を用いる。また、単作・連作をやめて輪作体系を組むことによって、土壌の微生物の多様性を維持向上することを図る。土つくりの農業ということは、根がしっかり育った健康な作物を作る農業である。根が強く健康な野菜は虫にも病害虫にも抵抗力がある。天候不順なときにも病気の発生が抑えられるゆえんである。
 さらに、有機農業は、化学肥料や農薬による土壌や河川の汚染を防ぎ、従来、汚染原因とされていた人畜の糞尿を有効利用することによって、二重の意味で環境を保護することにもなる。有機農業こそまさしく土を「耕し、守る」農業である。

(3)市場原理主義(市場崇拝)経済あるいは経済グローバリズムによる環境破壊
 現在、環境破壊を激しく進めているのはグローバル企業である。農業との関係で一例を上げてみる。
グローバル企業(多国籍企業)は、特定の国民や国家に対する忠誠心は持たず、企業利益のみを目的として活動している。
穀物メジャーは、通貨価値が低く大規模の農業が展開できるA国に進出し、大地主から土地を手に入れると森林を伐採し、大規模・単作・機械化・化学農法を展開する。そこで低価格で穀物を大量に生産して、世界中に売りさばく。ところが、A国の通貨価値が上がってきたり、あるいは大規模・単作・機械化・化学農法の結果、連作障害や大規模ゆえの風食で土地が荒廃して思ったように収穫ができなくなってくると、その企業はさっさとその農地を放棄して、もっと低価格で穀物生産ができるB国に生産地を移してしまう。その結果、A国の農民に残されるのは荒廃しつくした土地と貧困だけになってしまう。
やがて、A国を大飢饉が襲い、国連が支援をしようということになると、あの穀物メジャーがこのプロジェクトに参画して支援穀物を納品して、またも莫大な利益を手に入れる。マッチポンプなのである。世界中の農地がこうした大企業による環境破壊で荒廃し、農民たちは飢餓に苦しんでいるという状況がある。
 グローバリズム(地球主義)もまた、一つの思想的偶像崇拝にほかならない。その目的は、大企業が世界中から富を好き勝手にかき集めることなのである。グローバル(地球的)な視野を持つことは大切なことであるが、同時にローカルな視野もたいせつなのである。個のみを重視する孤立主義はまちがっているが、全体のみを重視する全体主義(地球主義)も間違えている。世界と同時に、各国各地域の両方をたいせつするところに、正しい行き方がある。
 企業利益がすべてであって、そのために何百万という人々が飢餓で死のうが、地球が破壊されてしまおうが知ったことではないというのがグローバリズム、市場崇拝経済である。現在、我が国も、市場崇拝経済路線をさらに徹底しようとしている。関税、大規模店舗出店規制法、労働者派遣法、あらゆる規制を取り払って、市場の自由に任せればすべてはうまくいくという市場崇拝のまやかしが市場原理主義なのである。あらゆる偶像崇拝は破たんし、人を絶望に陥れるように、当然のことながら我が国でも貧富の格差は急速に拡大して今やごく少数の金持ちと大多数の貧乏人の社会に変質してきている。
では、正常な経済運営とはなにか。聖書は、ヨベルの年にその原理を教えている。律法では、7年ごとに安息の年が来て、それを7回繰り返して、その翌年50年目がヨベルの年とされた。この時、50年間に動かされた地境はもとに戻され奴隷は解放されなければならなかった。つまり、 <適度の規制の下での、自由な経済活動>が経済における正常な原則であることを教えている。全体主義的計画経済という極端も、逆に市場原理主義もまちがいである。適度な規制と、自由な活動、ここに健全な経済運営がある。
 
4つの講演の結び
 私たちは三位一体なる神が造られたこの世界に生かされています。しかも、イエス・キリストを信じる者として、キリストの姿をその生き方をもってこの世にあらわすようにという尊い任務をいただいています。「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈って生きていくのですから、私たちは主のみこころが地になるように、励んでまいりましょう。
みなさんは、これから社会に出て行かれて、それぞれの持ち場・立場に置かれることです。それぞれの場において、「おいしいおにぎり」を結んでください。つまり、多様性と統一性ある生き方、職場、仕組み、作品をつくっていくことです。
だから今日という日に力を尽くしましょう。それは、「おいしいおにぎり」は一度にできることではないかもしれません。失敗するでしょうん。けれども、神様のラセン的な時の摂理のもとで、今日のチャレンジに力を尽くしても失敗したならば、もう一度チャレンジすればいいんだよ、と主は私たちを励ましていてくださいます。