苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

KGK春期学校 お話Ⅰ 三一の神と被造物の構造

 (創世記1章1−2章3節、マタイ福音書28章19節、出エジプト3:13,14)


 昨日、神戸の兄の家に来て、兄家族と過ごして、晩御飯に有名な「餃子の王将」に行きました。そこで兄から「餃子の王将」の経営方針について説明されました。そのとき、「なるほど!これが王将躍進の秘訣か」と思いました。その意味は、今日のお話の後半でわかるでしょう。

1 まことの神

(1) 他の神観
 聖書以外の神観について学んでから、聖書に啓示された神観を見たい。それによって、よりはっきりと真の神がどのようなお方であるかを知るために。
多神教・・・人格的であっても有限で信頼に値しない神々・・・・神話の神々
創世記第一章の中心メッセージはなにか?創世記記者が想定した読者は、エジプトを脱出してきたばかりのイスラエルの民である。彼らは400年間多神教の地エジプトで暮らしてきたので、真の神を見失い被造物をあがめる偶像崇拝に陥っていた。だから、創世記第一章の創造の記事をもって伝えたい第一のことは、エジプトであがめられていたさまざまの被造物、光、大気、陸地、海、植物、月・星・太陽、海の動物、陸の動物たちはみな、創造主の作品であって、神ではないということである。多神教偶像崇拝の拒否である。
 偶像崇拝とはなにか?それは被造物を神としてあがめることを意味する。神としてあがめるとは、人生と世界のである神に代えてなんらかの被造物を世界と人生の中心にあるものであるかのように大事にすることを意味する。多神教とは、被造物のなかのもろもろのものを神々として仕立て上げる。「不滅の神のみ栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに代えてしまいました。・・・それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。」(ロマ1:23,25)
典型的な例は、『古事記』の神々、ギリシャやローマやエジプトの神話の神々、北欧神話の神々、ヒンズー教も多神論である。たとえばゼウスは人間の娘を拉致して我が物とし、妻ヘラに叱られるという不道徳な神である。また神によっては死んでしまったりもする。多神論における神とは、人格的ではありえるが、同時に有限な神である。したがって親しみは感じ得ても、頼るに足りない。


② 汎神論・・・非人格的な原理「神」・・・・・・・哲学者の「神」
 これに対して、多神教で満足できない哲学的な人々が、被造物全体を神とするのが汎神論である。すべては神であるという。多神教の神々は、運命に翻弄されて死んでしまったりさえする、頼りない連中であり、神と呼ぶに値しない。そこで神々を翻弄している運命そのものが「神」であるということになる。当然、汎神論の「神」は非人格であり、「自然」とか「宇宙の原理」「自然の生命の根源」「宇宙精神」これらが「神」であるという。
汎神論では一切は「神」の現れであり、「神」と一体化することがすなわち救いであるという。「神」を大海に譬えれば、個物は波にすぎない。哲学的な宗教はたいてい汎神論である。大乗仏教スピノザ(1632-77) やヘーゲル(1770-1831) に代表されるドイツ観念論哲学は汎神論である。リベラリズム神学のシュライアルマッヘルは汎神論。ニューエイジ・ムーブメントも典型的な汎神論である。
 汎神論の主張は、「神」は世界(自然)と一体であり無限であるということ。一元論である。「神」は非人格的な原理である。人格は知性・感情・意志をもつ個的な存在だが、多様な現われをしている万物そのものである「神」がそうした人格であることはありえないからである。
 世界には善があり悪がある。見る物がおり見られる物がある。赤があり黒があり緑があり、黄色がある。光があり闇がある。男がおり、女がいる。人間がおり、その人間の中にはそれぞれ別々の人々である。この世は実に多様。こうした多様性を生み出す一つのものは、人間の論理から言えば、善悪、男女、悲喜、赤黒黄色青を超越し、それらを同時にすべて含んでいる。これらの一切を包み込んで、それらを現わす原理自体は、悲しみも喜びも怒りも、男女の別も、善悪の別も超越している原理であると言わねばならない。知る者と知られる者、彼我を超越していなければならない。働き掛ける者と働き掛けられる者との区別を超越していなければならない。したがって、汎神論における神は「神」とか「仏」とか言っても、それは人格ではなく非人格の宇宙原理あるいは精神ということである。
 汎神論における神と世界との関係は下の図の通り。一切は神に包含され、あるいは神の現われである。神々もまた「神」の現われと見られるので、汎神論は必ずしも多神論を否定しない。仏教がヒンズー教の神々を受け入れ、神社にも寛容なのは本質的にはそのせいであろう。梵天帝釈天・弁天、鬼子母神いずれも仏教守護をする神々である。あるいはポルフィリオス(232頃-304頃) いうネオ・プラトニストはもろもろの偶像礼拝を容認している。自由主義神学が異教に対して寛容なのは、それが唯一神論ではなくなって、すで に、汎神論であるからである。
 こういうわけで、汎神論における神は、非人格の単一の原理であり、世界と一体である。一方、多神論における神は、有限の人格または非人格。そして、世界を超越する神を認めない宗教や世界観は、多神論か汎神論のどちらかしかない。それは、当然のことで超越神がいない以上、自然のうちに神を認めるほかないわけで、その全体を神とすれば汎神論、一部を神々とすると多神教になるから。


(2) 無限の三位一体の人格神
① 自存性・・・「わたしはある」(出エジプト3:14)
 「ギリシャ神話」や「古事記」など多神教では世界がさきにあって、そこに神々が生じてきたという。汎神論では、世界の存在と「神」の存在は同時である。世界が無くなると多神教の神々も、汎神論の「神」もなくなる。
だが、まことの神は被造物が存在しないときから、存在している。神は被造物とは他者であり、被造物がなくてもただご自分だけで存在している。モーセが荒野で主なる神にその名を問うと、神は答えられた。

3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」

3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」(出エジプト3:13−14)

また、主イエスは最後の晩餐の席上で次のように祈られた。
「17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)
 ここを見ると、世界が存在する前から、イエス様は父なる神と親しい愛の交わりをもって存在しておられたことがはっきりとわかる。


② 人格性・・・知性・感情・意志・創造力(創世記1:1−5)
 汎神論の「神」は非人格。しかし、創世記1章に啓示されている創造主は人格である。創世記1章1節から5節に出てくる神の行為を表現することばを拾い上げてみよう。
「創造した」・・・・・・創造力をもつ。
「仰せられた」・・・・・話すという知的人格的な行為。
「よしと見られた」・・・満足の感情を表している。
「区別された」・・・・・知性的な判断力を意味している。
「名づけられた」・・・・これも知的な能力である。
 これらを見ると、神は知性と感情と意志(行動力)のあるお方であることは一目瞭然である。神は非人格の原理とかモノではなくて、知り、考え、判断し、満足し、行動する生けるご人格なのである。「神は人に似ているなあ」と思うだろうか。それでは擬人神論アンスロポモロフィズムである。そうではなく、人が神に似せられたので、人格なのだ。
 神は実に、全知全能の無限者。人間の限界のある頭の造り出す神は、被造物を神にしたてたので、人格だが有限(多神教)、無限だが非人格(汎神論)となる。しかし、聖書を啓示した神は、創造者であり、人格でありかつ無限なのである。

③ 三位一体:愛の交わり・・・「われわれのかたち」(創世記1:26)
ヨハネ福音書1:1−3、同17:5,24
マタイ福音書28:19「父と子と聖霊の御名」
 創造主が人格的な愛の神であることは、三位一体であられることに現れている。聖書の啓示は、旧約時代から漸進的progressiveにベールを外されて来たが、新約聖書にいたって最も明白にこの真理は明かにされる。しかし、旧約聖書でもすでに神には複数の位格があることが暗示されている。
神のうちには複数の人格があるので、神は唯一のお方であられながら、時々、ご自分を指して「われわれ」とおっしゃる。(「尊厳の複数」という見かたをする人々もあるが)
「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。・・・・』」(創世記1:26)
「私は、『だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。・・・」(イザヤ6:8)
新約聖書になると、たとえば、主イエスバプテスマについてお命じになったことばの中に三位一体があきらかにされている。 「父と子と聖霊の御名」(マタイ28:19)において、「御名onoma」は単数である。
 中世期にサン・ヴィクトールのリチャード(リカルドゥス)は御子が御父から永遠に生まれたことについて次のように言っている。

 「最高善、全く完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全なかたちで存在している。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けていることはありえない。なぜなら、愛以上に優れたものはないからである。しかるに、自己愛を持っている者は、厳密な意味では、愛(caritas)を持っているとは言えない。したがって、『愛情が愛(caritas) になるためには、他者へ向かっていなければならない』。それで位格(persona)が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。」(de Trinitate,LiberIII−11,caput2,P.ネメシェギ訳)
さらに聖霊の発出について次のように言う。
 「もしだれかが自分の主要な喜びに他の者もあずかることを喜ばなければ、その人の愛はまだ完全ではない。したがって[ふたりの]愛に第三者が参与することを許さないならば、その人の愛はまだ完全ではない。反対に、参与することを許すのは偉大な完全性のしるしである。もしもそれを許すことが優れたことであれば、それを喜んで受け入れることは一層優れたことである、最もすぐれたことは、その参与者を望んで求めることである。最初に述べたことは偉大なことである。第二に述べたことは一層偉大なことである。第三に述べたことは最も偉大なことである。したがって最高のかたに最も偉大なことを帰そう。最善のかたに最もよいことを帰そう。
 ゆえに、前の考察で明かにしたあの相互に愛し合う者[すなわち、父と子]の完全性が、充満する完全性であるために、相互の愛に参与する者が必要である。このことは、以上と同じ論拠から明かである。事実、完全な善良さが要求することを望まなければ、神の充満する善良さはどこへ行ってしまうであろうか。また、たとえそれを望んでも実現することができなければ、充満する神の全能はどこへ行ってしまうであろうか 。」
主イエスのいわゆる大祭司の祈りを見ると御子と御父の人格的な愛の交流のありさまがうかがえる。
「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17:24)

まとめ。真の神は、何物にも依存せずに存在されるお方であり、知性感情意志創造力をもたれる人格的なお方であり、父と子と聖霊の唯一のお方でいらっしゃる。



2 被造世界の構造

 では、この真の神が造られた世界はどのような構造をしているのだろうか。


(1)「自然」ではなく「被造物」(黙示録20:11)
 まず、聖書的な世界観において大切な認識は、神以外のあらゆるものは被造物であるという事実ある。「自然natura」ということばは、「おのずから生じたもの」という意味であり、汎神論的である。汎神論においては自然は永遠的なものとみなされる。「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と棲家と、またかくのごとし。」という長明の慨嘆においては、あぶくにも似てはかない人と家とが、川の流れに象徴される悠久の自然が対照されている。神すなわちまことの永遠を見失った人は、しばしば自然のなかに永遠を見てきた。自然崇拝である。
 しかし、聖書によれば、被造物は永遠のものではない。まず、被造物は創造される前には存在しなかった。そして、最後の審判のとき、新天新地の創造に先立って、古い天地は消え失せる。「大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」(黙示録20:11)

(2)統一性と多様性
三位一体の神は、この天地は多様な部分から成る統一的な世界として造られたことが、創世記第一章の天地創造のみごとな記述のうちに表現されている。世界は一つのシステムなのである。
 天体の運行・地球における水の循環・植物界・動物界は一つのシステムを成していて、どれを欠いても成り立たない。植物が育つには、どういうことが起こっているか。植物の光合成のためには太陽エネルギーが必要である。太陽エネルギーがなければ地上の温度を、動植物の生存を可能に保つことはできない。しかし、単に太陽エネルギーがあるだけで、地球の温度が適温に保たれるわけでもない。地球は自転しているからこそ、灼熱の砂漠と暗黒寒冷地獄の星にはならない。さらに、地球は傾いていて公転しているので、四季がめぐり適温面積が広い。さらに、地球には、太陽エネルギーによる大気の循環システムがあって、海水から生じた水蒸気からできた雲を内陸部に輸送している。こうして動植物はまた相互にささえあって生命を維持している。もし大気の循環システムがなければ、内陸部は砂漠となってしまう。地球が自転しつつ公転し、地球の適温が保たれ、海水が蒸発して雲をなし、大気循環が起こって稲は育つ。
 植物を食べて動物が生きていることはすぐにわかるが、植物は動物によって生きているのも事実。創造の七日間の「日(ヨーム)」を地質学的な非常な長期間と理解すべきであるという説もあるが、もし事実そうだとすると、植物が造られたのが三日目であり、動物が造られたのが五日目、六日目であるから、植物だけで何百万年も存在していたということになる。たしかに動物は植物がなければ食べ物がなくてすぐに死に絶えてしまうが、ほとんどの植物は昆虫に受粉を助けてもらってこそ、次の世代を残すことができる。また、かりに受粉を必要としない植物であっても、植物である以上光合成をしなければならず、その二酸化炭素は動物から供給されているからである。このように、動物が植物に依存しているだけでなく、植物も動物に依存している。
太陽の運行、地球の自転、大気の循環、植物と動物の相互扶助・・・まだまだ知られていないことはたくさんあるが、とにかく地球環境は調べれば調べるほど、多様な要素が驚くべき知恵によって統一されたシステムである。
 御霊と主と父なる三位一体の神の作品が、豊かな多様性をもちつつ、しかも一つであるということは、「キリストのからだ」と呼ばれる教会の姿にもあらわれている。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(1コリント12:27)神の作品のうちには、聖三位一体の多様性と統一性が影を落としている。
「多様性と統一性の両立している存在のみが、豊かな意味深い存在である。」それはあらゆる存在においてそうなのである。絵画でも、料理でも、詩でも、社会でも、多様性と統一性が両立していることが肝心である。存在は多様性のみで、部分同士が相互の関連を失えば、無意味になってしまう。他方、統一性だけでは、個が全体に埋没して無意味なものになってしまうからである。
餃子の王将チェーンがなぜ躍進しているか。それは、餃子の王将という統一的な看板をしっかり背負った経営方針をもちつつ、同時に、各店舗がおかれた地域のニーズに合わせて独自のサービスを提供することを各店長に許しているからである。統一性と多様性、全体と個の両方が生かされている。
(3)歴史性・・・「朝があり夕があった」を繰り返しつつ完成:時は螺旋的
 全能の神様は、「世界よあれ」と命じることで、瞬時に世界をおつくりになることができた。けれども、あえて七日間をかけて段階的に世界をお造りになったと記されているのは、神様はこの被造世界を時間的・歴史的なものとして造られたことを意味している。
 ところでギリシャ文化やインドには、歴史がない。時間は円環であると考えられた。自然宗教を背景とした世界ではみな同じである。春夏秋冬がくりかえすことから、時は円環と考えられた。円環には特定点が存在しないから、歴史意識は生まれない。
 だが聖書によれば、世界には創造による始まりがあり、審判による最後がある。始まりと終わりのある時間がある。したがって、「今」は常に特別な点である。今日という日は歴史の中で一回限りであり、二度と来ない。
 同時に、時は、「朝があり夕があった」と繰り返しつつ前に進む。日、週、月、年と暦が刻まれる。刻まれながら、初めから終わりに向かって前進してゆく。レビ記24‐25章には循環的な時がある。時は、循環しつつ前進する、つまり螺旋的な進みかたをする。一本の線としての時でありながら、それが繰り返されるという構造は、時における多と一の構造なのであろう。しかも、その時の循環は地球の自転と公転という地球の空間運動との関連によっている。
 時が線分的であるから、今日という日は一回限りだから、決して無駄にしないで生きるべきだと私たちはピリリと緊張させられる。しかし、夕べを迎えるときに「今日は失敗してしまった」ということもあるだろう。だが、新しい朝を迎えるときに、「もう一度やりなおせ」と神は励ましてくださる。時の運営の仕方には、神の私たちに対するいつくしみと厳しさを感じないだろうか。
 
まとめ・適用
① 三一の神が造られた世界は、多様にして統一的な世界であり、それは創造から終末に向かって螺旋的に時を刻みながら前進してゆく世界である。

② 人生の選択と三つの問い。
 自分にもできることとはなにか。
 自分にしかできないこととはなにか。
 今できても、10年後にできなくなっていることとは何か。

③ 時が線分であるゆえに、今日という日が歴史の中に二度と来ない日であることを覚えて、一日一生の思いをもって生きるものでありたい。
 しかし、時が螺旋的であるということは、神は弱い私たちのために、やり直すことを許してくださっているという意味である。新しい日を迎えて、今日こそ!新しい年を迎え、今年こそ!と。