苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

バベルの塔―――権力者の出現

創世記10章1−12節、11章1−9節
(オリエントの中の旧約史1)

はじめに

 この春、4月27日に聖書地理と聖書考古学の専門家である菊池実牧師を迎えて、伝道会と講演会をしたいと願っています。それに先立って3月末には、東京都三鷹市にある中近東文化センターにオリエント考古学上の遺物を見学に行く遠足を企画しています。そこで、その予習ということで、数回にわたって「オリエントにおける旧約聖書の歴史」というテーマで聖書のみことばを味わいたいと思っています。神様の啓示は具体的な歴史の中で行われたことを確認できると思います。


1. バベルの塔と考古学上の発見

 本日のテーマは「バベル、権力者の出現」ですが、まず、バベルの塔についての考古学者の言っていることを紹介しておきましょう。創世記12章2節によれば、バベルの塔はシヌアルの地に建てられたとあります。シヌアルの地というのは、メソポタミア(川の間の地)の南つまり川下の地域ことです。ここは今の歴史学の常識では人類最古の文明とされるシュメール文明が発祥した地です。聖書によるとシュメール人たちは、東つまりイラン高原の方から移動してきたとあります。
考古学者たちの努力によって、このメソポタミアには、いくつかの都市国家があり、それぞれにジグラトと呼ばれるピラミッドに似た構造物がありました。その遺構が22個発見されているそうです。聖書に書かれているとおり(11:3)レンガを材料とし、アスファルトで接着したものです。ジグラトはエジプトのような四角錐ではなくて、階段状のものです。これがバベルの塔だったのではないかといわれるジグラッドが、アンドレ・パロ『聖書の考古学』という本に紹介されています。
 新バビロニア帝国のナボポラッサル王が建てたエテメンアンキのジグラトは中庭から91メートルの高さ、7階建て(p177、p194)あって、頂に神殿があった宗教施設です 。このエテメンアンキのジグラッドは、実は新バビロニア帝国の王が初めて建てたものではなく、彼の時代にはすでに荒廃していたものを建て直したものです 。その土台がバベルの塔なのではないかとアンドレ・パロは推測しています。
 また、デイヴィッド・ロール(David Rohl)周辺の学派などは、ウルの南に位置するエリドゥは、旧約聖書に登場するバベル(バビロン)およびバベルの塔のオリジナルであると推測しています。つまり、かつての巨大な塔の記憶に基づいてメソポタミアの各都市にはジグラトが築かれたのだというわけです。

 では、バベルの塔は、古代メソポタミアのどういう人物が塔を造ろうとしたのでしょうか?また、彼は何のために塔を造ろうとしたのでしょうか?


2.ニムロデ  最初の権力者

(1)ニムロデ
 バベルの塔が築かれた場所はシヌアルでした。このシヌアルの地を支配した人物はニムロデでした。創世記10章8節―12節にニムロデが紹介されています。

10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。 10:9 彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。 10:10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。 10:11 その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、 10:12 およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。

 第一に、「ニムロデは地上で最初の権力者であった」とあります。
 第二に、ニムロデは「主の前に力ある猟師」と呼ばれています。「主のおかげで」という訳は不適切で、単に「主の前で(リプネー)」と訳す方がよいでしょう。
 第三に、彼は自分の王国をシヌアルのバベル、エレク、アカデから始めてチグリス川を遡行して次々に領土拡張していったということが記されています。
 ここには権力というものの本質が浮かびあがっています。権力の本質は剣です。「ニムロデは力ある猟師だった」とありますが、古代のエジプトの壁画などを見ても、王がライオンを仕留めている絵があります。王というのは、強力な武器をもって敵を殺し、人を従える力を持つ英雄として登場したのです。ニムロデが力あるハンターであったというのは、彼が武器をもって人々を黙らせ、従わせる力のある英雄だったことを意味しています。
 さらに、ニムロデは最初の領土(都市国家)だけでは満足せずに、次々に版図を拡大していったとあります。強力な武力をもつと、自分の覇権を拡大したくなるのが権力者の常です。世界の歴史は権力者たちの支配欲と支配欲の衝突としての戦争の歴史です。戦国の武将たちを見てもそうでしょう。また、明治維新以降の日本は、日清戦争日露戦争で軍事力に自信を得ると、大陸進出をして満州国をつくって覇権を拡張して行きました。聖書は、権力の本質は剣であり、権力者はえてして領土拡張をはかるものであると教えているわけです。


(2)神が権力者を立てた目的・・・剣の権能
 権力の本質は剣だと申しました。剣とは暴力装置を意味します。民主党政権時の官房長官が「自衛隊暴力装置だ」といったことを自民党議員が非難し大騒ぎになりましたが、これは非難する自民党議員が教養に欠けていたのです。国家が暴力を独占して一元管理することの必要についての議論は、近現代の政治思想において常識に属することで、マックス・ヴェーバーマルクスなどが語っています。もともとは、権力による暴力の独占、一元管理の務めについては、聖書に根拠があり、中世の神学思想にあることです。
 国家というものがない時代(北斗の拳のような時代)には、悪漢が来て脅迫されたり、殺されたりするかもしれないので、一人一人が自衛手段として武器をもっていなければなりませんでした。けれども、権力者が立ち、民を自分の支配下に置くと、民がみな武器をもっていたらいつ自分に対する反乱を起こされるか分からないので、武器をとりあげて、暴力を独占することにしたのです。日本では、戦国時代が終わった時、秀吉が刀狩をしたでしょう。そうして、権力者は警察・軍隊・法律・刑務所を独占しているわけです。それを暴力装置と呼ぶのです。
 「暴力装置」ということばはマックス・ヴェーバーが用い始めたのですが、もともとは聖書に教えられていることです。神学者たちは、それを「剣の権能」と呼んできました。おもな聖書的根拠は、これまで何度も学んできたようにローマ書13章です。

「13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。 13:4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」(ローマ13:3,4)

 神様は権力者に剣(警察権)を託しておられます。その目的はこの世に悪を抑制するためです。やくざがやりたい放題に悪いことをしないために、警察と法律と刑務所をもって、これを取り締まるのが権力者に神様が託した役割なのです。
 

(3)権力者の習性・・・覇権を求める
 強力な剣を託されているからこそ、権力者は常に神と民のしもべであることを自覚して謙遜であることに努めることが大事です。しかし、聖書は、権力者がえてしてサタンの誘惑を受けてのぼせあがり、その力を民を守るためでなく、自己満足のために用いてしまうものだと述べています。権力者は、自分の領土をもっと拡げ覇権を求めるのです。それで、最初の権力者ニムロデ以来今日にいたるまで、覇権と覇権が衝突して数々の戦争が起こってきました。人類の歴史は戦争の歴史といってよいほどです。
 

3.バベルの塔・・・・・・文明と傲慢


11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。


(1)文明と傲慢

 創世記の10章と11章の関係は、「10章のように諸民族に分かれたその原因はバベルの事件だったのだよ」と教えるのが11章です。つまり11章は10章の原因譚です。
 だとすると、10章でシヌアルに出現した最初の権力者が、11章のシヌアルに建てられた巨大な塔の建築に関係していると読むのがごく自然な読み方であると言えます。つまり、バベルの塔は権力者ニムロデ当人か、あるいはその後継者がバベルの塔を築いたのです。だとすると、彼がバベルの塔を築いたのは、自分の権力を誇示するためであったのです。
 それは、巨大な建造物という古代人がもっとも得意とした土木建設技術によりました。「善悪の知識の木」からとって食べた人間は、文明によって自ら神のようになることができるとのぼせあがるのです 。

11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」と。

 
 サタンは権力を欲する人に「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」(ルカ4:6,7)と誘惑します。「あなたは神のようになれる」という誘惑と同じです。その誘惑に乗った権力者は暴走して、最初は国民の熱狂的支持を得ますが、結局は自国民を苦しめ、他国民にも損害を及ぼすことになります。
 頂に神殿を備えたバベルの塔というのは権力者の自己崇拝の現れでした。その巨大さをもって自らの権力を誇示するための偶像でした。後には、新バビロニア帝国の王ネブカデネザルが、金の像を造って人々に拝ませるようなことをしたでしょう。ローマ皇帝が帝国の民に皇帝崇拝を要求したのも同じことですし、私たちの国でかつて天皇が現人神とされたのも同じことです。織田信長が近江に築いた巨大な安土城もそうでしょう。権力者というのは、いつもサタンの誘惑に乗ると同じようなことをするものです(黙示録13章1−3節参照)。


(2)神は人間の傲慢をとどめてくださる

 創世記に戻りましょう。神様は、「天にまでとどく塔を立てて名をあげよう」とのぼせあがっている人間の所に降りてきて、ことばを混乱させました。こうして、バベルの塔の企ては水泡に帰したのでした。神様は、権力者の傲慢に対して暴力的な方法でなく、非暴力的な方法で人間の傲慢な企てを砕いてしまわれたのが興味深いことです。
バベルというのは、バブ・エルすなわち「神の門」という意味に解されることばです。人間は、特に権力者はあの天にも届く塔によって自ら神に到ろうとしたのでしょう。傲慢のきわみです。けれども、バベルというのは「混乱させる(バーラル)」ということばに音の似たことばです。人は思い上がって「神に到る門」を造ろうとしたが、神はこの企てをことばを「混乱させ」て打ち砕かれ、人間がそれ以上に思い上がって滅びてしまわないようにしてくださったのです。バベルでなくバーラル…ダジャレ親父をバカにしてはいけません。

適用・結び
 さて、私たちは、最近のこの国の権力者の発言を国会中継や新聞で聞いて、心騒がせられることが多いことです。戦後、「基本的人権尊重・国民主権戦争放棄」という原則に立って歩んできたこの国を、「人権軽視・国家主権・戦争ができる」国にしようとしているからです。特に、つい先日は、集団的自衛権の行使にかんして「私が改憲の最高責任者です」というの首相の発言は、野党だけでなく与党内ですら物議をかもしました。
 近代国家においては、権力が一か所に集中すると暴走してとんでもない過ちを犯すことを歴史から学んで、権力を分割して、たがいに牽制しあう仕組みを作りました。これを工夫したのはイギリスのジョン・ロックや、フランスのモンテスキューです。その仕組みを三権分立と言います。小学校6年生で最初に学ぶことです。国民の代表からなる立法府(国会)が法律をつくり、行政(内閣)はその法律の下にあって国を治め、司法(最高裁)は行政のしていることが法にかなっているかどうかをチェックするのです。日本国憲法では「第65条 行政権は、内閣に属する。」とありますが、「第41条 国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」とあります。
 ところが、総理は、「わたしが憲法解釈の最高責任者です。」と国会で言い放ちました。そして、総理が議長を務める閣議決定で「集団的自衛権の行使は合憲である」というむちゃな解釈を通して、これを国会に提出すると言っています。現在国会は衆参両院ともに与党が議席数で圧倒していますから、強行採決で押し切る構えです。昨年の特定秘密保護法もこの手法でむりやり成立させたのです。それは、手続き上可能ではあっても、「三権分立」という近代国家の統治の基本原理を破壊する行為ですから、禁じ手です。
 総理大臣は、法律を作ることは許されていません。憲法をいじって自分のやりたい放題してはいけないのです。権力者が好き勝手しないために縛る道具が憲法なのです。しかし、法の抜け穴を利用して、実質的に、内閣で改憲をしてしまおうとしているわけです。私たちは、こうした権力者の常軌を逸したふるまいに恐れや不安を感じます。

しかし、主は生きておられます。天地万物の主はすべてをご覧になっていらっしゃいます。この国の権力者が、戦前が「美しい国」であったという幻想に基づいて、あきらかに己の分を越えた行動に暴走していることをご存じです。主は天からそのありさまをごらんになって降りて来られて、その企てを押しとどめてくださいます。
ですから、私どもは、神様に、権力者が己の分を謙虚にわきまえるように真剣に祈りましょう。わたしたちの神は摂理をもって歴史を支配する生ける神です。