苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の国は到来した

マタイ12:22−37


1 パリサイ人の屁理屈を論破

12:22 そのとき、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
12:23 群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」
12:24 これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」

 イエス様はその宣教において、神様の救いの福音を伝えるとともに、次々に訪れる病人を癒し、悪霊に取りつかれて苦しんでいる人を解放していらっしゃいました。私の世代より少し上の方たちの多くは合理主義的なものの見方に洗脳された人が多くて、たいてい悪霊などというとそんなものはあり得ないという風に言います。一方、私の世代より下の人たちの多くはオカルトとかに凝っている人が結構います。C.S.ルイスは、悪魔は悪魔に不健全な関心をもって深入りする魔法使いと、悪魔などいないと思い込んでいる合理主義者の両方を歓迎するといっています。私たちは聖書が悪魔について述べるところまでは信じ、それ以上は興味を持ちすぎないことが肝要です。
 イエス様の前に連れてこられた人は、悪霊によって視覚・聴覚ともにふさがれて、光も音もない世界にずっと暮らしていました。イエス様は彼を悪霊から解放なさいました。すばらしい御業です。即座に群衆は反応しました「この人は、ダビデの子なのだろうか。」ダビデの子というのは、来たるべきメシヤの別名でした。
ところが、パリサイ人たちは民衆が自分たちを離れて続々とイエス様のもとに集まるので、妬みを抱いてケチをつけました。彼らは、「イエスは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ」と屁理屈を言ったのです。ベルゼブルというのは、サタン、悪魔の別名です。

 イエス様は、パリサイ人たちの言い分は屁理屈にすぎなかったので、これを簡単に論破してしまいます。

12:25 イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。12:26 もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。

 悪魔の国のなかで内輪もめ・仲間割れなど起こっていない以上、悪魔ベルゼブルの力で悪霊を追い出すことなどありえないではないかというわけです。
 また、「君たちパリサイ人たちの仲間でも悪霊追い出しをしようとして四苦八苦していたようだが、もし、悪霊追放が悪魔の力によるならば、パリサイ人の君たちも悪魔と付き合いがあるということになるではないか」とおっしゃいます。
12:27 また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。


2 神の国の到来


 「目が見え、耳が聞こえるようになったぞ!」「悪霊が出て行った!」確かにすばらしい御業です。ですが、、もっと大事なことは、このイエス様による悪霊追放という出来事が、神様が計画された救いの歴史の中において何を意味しているのかを認識することです。なぜなら、これらの出来事はそれを示す「しるし(サイン)」であるからです。
 同点で9回裏2アウト3塁でバッターがバッターボックスに立つと、監督がベンチで頭を書いています。選手が、「ああ、監督が頭かいているなあ、昨日風呂に入らなかったから、かゆいのかなあ・・・」と思っていたら駄目でしょう。「あ、スクイズのサインだ」と読み取らなければサインを見たことになりません。
 イエス様は、これらの病のいやしや悪霊追放の出来事は「神の国」の到来を意味するサインなのだ、と教えられます。

12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
12:29 強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。

 「神の国」とは、神の王国、神の支配とも訳されることばです。人類がアダムにあって神に背いて以来、この世は空中の権をもつ支配者である悪魔に相当委ねられることになりました。悪魔と悪霊どもは、やりたい放題にふるまって人々を偶像崇拝や魔術や悪霊つきに伴う苦しみなど霊的な暗黒の中にとどめてきました。しかし、エレミヤ書エゼキエル書の預言によると、神の国が到来するとき、聖霊が注がれるとされていました。聖霊が悪霊を制する時代です。
しかし、今や、神の御子が人となってこの世に来られ、神の国がやってきたという出来事の「しるし」として、悪魔の手下の悪霊どもが追放されるという出来事が目の前で起こっているのである、とおっしゃるのです。・・・これこそ、イエス様が「この人から、悪霊よ出て行け」命じると、実際に悪霊が出て行くという目の前で起こっている「しるし」の意味していることでした。


3 警告


 そして、主イエスはこれほど鮮やかなしるしを見せられながら、なおイエス様のわざを否定するパリサイ人たちに対して、厳しい警告をお与えになります。

12:30 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。
12:31 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。
12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

 「御霊に逆らう冒涜は赦されません」とはどういうことでしょうか。キリストに逆らっても赦されるとしても、聖霊に逆らうと、この世も次の世も赦されないというのですから、ことは重大です。
文脈から見ると、それはイエス様が聖霊の力をもって、悪霊を追い出すという明らかな神の御業をなさっていて、パリサイ人たちの心のうちにも「これは神のわざだよ。悔い改めてイエスを信じよ。」と聖霊が語りかけていらっしゃるのです。そして、パリサイ人も心の中では「イエスは神のみわざをしているのだなあ」とわかっているのです。わかっているにも拘わらず、「どうしてもイエスを信じたくない」という頑なな心があるので、「イエスは悪魔の力で悪霊を追い出しているのだ」と口から出まかせを言ったのでした。
 聖霊が、その人の心のうちに「悔い改めて、イエスを信じなさい」を促していらっしゃるのに、それを意識しながら、あえてそれを拒んで決して口にしてはいけないことを口にした場合、もはやその人を救う手だてはありません。その人は、この世においてばかりでなく、次の世においても赦されることなく永遠に滅びてしまいます。
 特に、ここで注目すべきは、あえてことばとしてイエスを拒否することの責任の重さです。

12:33 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。
12:34 まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
12:35 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
12:36 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。

 木とその実によるたとえは、ここでは心と言葉を意味します。心の中に蓄えられていることばが、口をついて出るものです。腹にはないことは口には出てこないのだとおっしゃるのです。
軽々しく私たちは神様の御心を痛めるようなことを口にすることはないでしょうか。言葉だけだから、ではすみません。


結び・適用
 本日のみことばはから三つ、大事なことを心得て、生活の中に適用したいと思います。
 第一は、聖霊に従順でありなさいということです。パリサイ人たちは、目の前でなされている神の国の到来をあかしするみわざを見せられ、心に「悔い改めなさい」と語りかける聖霊のことばに対して、心かたくなにして、永遠の滅びに陥ってしまいました。聖霊に従順に歩み、永遠の命の実をみのらせたいものです。
もう少し具体的にいえば、聖霊に従順であるとは、聖霊が啓示してくださった聖書のみことばに従順であるということです。聖書のみことばに日々親しみ、主の日ごとに御言葉に聴いて、これに応答して生きていきましょう。それが悔い改めをうながすことばでれば、素直に悔い改め、救いを約束することばであれば、それを信じて喜び、ある行動を命じることばであれば、その行動を具体的に行って、応答するのです。
2014年のこつこつとした日々のみことばへの応答の歩みを大事にいたしましょう。

第二は、ことばを大切にすることです。ヤコブ言葉というものは大きな船における小さな舵にあたるものです。小さな舵で大きなタンカーが進路を変更するように、ことばはあなたの人生の方向を決めてしまいます。たとえば、「結婚してください」といえば、その相手と生涯を連れ添って生きるという人生を選択することになります。あるいは、どこかの職場に勤めるとか学校に入るというと、「誓約書」というのを書いて、ことばで約束をするのです。
私たちは、日常生活における、夫に対することば、妻に対することば、子どもに対することば、親に対することば、友人に対することば、会社の上司に対することば、部下に対することば・・・などで自分の人生を選択しているのです。
そして、終わりのさばきの日には、私たちは自分が口にしたことばについて、主の前にひとつひとつ申し開きをしなければなりません。人が神のかたちに造られたということの大事な一面はことばを用いるということにあります。ことばを大切にしましょう。

第三は、<キリストが来られたことによって、神の国はすでに到来したのだ>という事実をしっかりと腹に収めて生きることです。昨年末、クリスマスでお話ししたように、「光や闇の中に輝いている」のです。闇の中に光であるキリストが来られました。それで闇が直ちに去ったというわけではありません。けれども、光はすでにそこに輝いていて、闇は光に打ち勝つことはありません。時代は今闇に向かうという様相を呈しているということがあったとしても、闇は決して光に打ち勝つことはありえないのです。ですから、キリストを信じる私たちは、この闇の時代のなかで、2014年、キリストの福音のあかしに生きてまいりましょう。