苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ロゴスが人となった

ヨハネ1章1−18節
小海クリスマスイブ礼拝


 みなさん、今晩、小海の夜空は黒いビロードにダイヤモンドをぶちまけたようです。ご覧になったでしょうか? むかし、神が造られたこの世界の調和を知るための学問は、天文学幾何学と音楽とされたそうです。天文学者であり物理学者だったガリレオ・ガリレイは、スウェーデンのクリスチナ王妃への手紙の中で、次のように述べています。「・・・なぜなら聖書も自然も、ともに神の言葉から出ており、前者は聖霊の述べ給うたものであり、後者は神の命令によって注意深く実施されたものだからであります。(中略)神は、聖書の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」(世界の名著『ガリレオ』)そんなわけで、今宵は前半は、自然の諸効果に神の啓示を見、後半はみことばに神のみこころを探りましょう。


1 被造物における、もろもろの理法とロゴス


 聖書はヘブル語とギリシャ語ということばで記されていますが、宇宙はどういうことばで書かれているのでしょう?ガリレイによれば、宇宙は幾何学のことばで記されています。だから、計算をすれば何年後にハレーすい星がやって来るとか、何年何月何時ごろに地球上のどこで日食を観察することも計算できます。また、遠くの星だけでなく、地球上で物が運動する速度・加速度などにかんする物理現象も計算式にあらわすことができます。宇宙全体を支配している物体の運動にかんする理法を読み取るのが、天文学者また物理学者の仕事です。
 このように物体の運動に理法が存在するのも不思議ですが、もうひとつ不思議なことは、その宇宙の理法を私たち人間が読み取り、実際に数式に表現できるという事実です。それは、宇宙の理法と私たちの内なる理法が対応しているからこそ可能なことです。
 音楽も不思議です。ピュタゴラスといえば古代ギリシャで数学者として有名ですが、ドレミファソラシドという音階をつくった人でもあります。彼は弦の長さを半分にすると、音は1オクターブ高くなることを発見し、さらに、弦の長さを3分の2にすると「ソ」の音が出ることを発見しました。今度は「ソ」の音の弦の長さを3分の2にして「シ」という音をつくっていきました。さらに、彼は「天球の音楽」というものを研究したそうです。
 私たちは音の組み合わせによって、和音に調和を感じたり、不協和音に不調和を感じたり、メロディにさらにリズムが加えられて喜びや悲しみや怒りや荘厳さや繊細さや輝きや暗闇などを読み取り感じ取ることができますし、草原をわたる風も、夜空にまたたく星も、こずえにさえずる小鳥たちの声をも感じ取ることができます。また、そのメロディとリズムの組み合わせの法則に精通する音楽家は、作曲をして人の心を感動させることができます。このように音楽の世界にも理法があるのですし、また私たちの内なる理法とが対応しているのです。不思議なことです。
 現代では自然科学が発達したので、こうした理法が幾何学天文学・音楽の世界だけでなく、あらゆる分野において存在していることがあきらかになっています。たとえば生物学では電子顕微鏡の発達によって、細胞の仕組みが調べられ、細胞核の中にその生物の設計図が入れられており、一人の人間の精巧な設計図はおよそ3億個の4種類の塩基文字から成っていることがわかってきました。数年前にはその文字の配列もコンピュータによって解明されました。生物のうちにも理法があるのです。また、人はそれを読み解くことができることも不思議なことです。
 しかも、さまざまの次元の理法がありながら、この世界は膨大な部分部分が調和して共に働いています。私たちはこの後、クリスマスのケーキをいただくでしょう。このことが実現するためには何が必要でしょうか。ケーキの材料は小麦粉、砂糖、ミルク、いちごといったものでしょう。イチゴひとつ取り上げても、どのようにしてできたのでしょうか?お百姓さんが種をまいて育てて収穫した。その通りでしょうが、それ以前にものすごいことがあります。太陽と地球の距離が適切に保たれ、まちがいなく地球が太陽のまわりを公転して季節が来たらせ、また自転を繰り返して昼と夜を来たらせて温度を絶妙に保ち、太陽光によって地球が絶妙に温められています。また日光によって海水が温められて蒸発して雨雲が形成され、大気の循環によって雨雲が内陸に運ばれて雨が降り、それぞれが適度に調整されているからこそ、お百姓が世話をして光エネルギーと水と二酸化炭素光合成が起こってイチゴが生育したのです。イチゴひとつ作るにも宇宙全体が調和して総動員されて可能になっているのです。偶然ではありません。この世界を、部分部分を全体として調和させ運営している存在が実在するのです。
 というわけで、自然の諸効果を観察すると、ここに三つの事実があることがわかります。
 第一に私たちが住むこの世界は宇宙大のマクロの次元から、分子や原子のミクロの次元まで、そして、音楽や数学といった見えない世界の次元まで、それぞれにみごとな理法が存在しているという事実です。それは偶然できることはありえないことで、知性の産物です。
 第二に、この宇宙全体がさまざまな次元における理法が調和して成り立っている以上、それら多様な次元を全体として一つに奇跡の調和を与えつつ運営している存在がいらっしゃるという事実です。
 第三の事実は、しかも音楽・天文学分子生物学幾何学などさまざまの次元での理法を、私たち人間はあたかも手紙を読みとるように、読み取ることができるという事実です。なぜ、私たちが宇宙の理法を読み取ることができるのでしょうか。それは、外の世界にある理法と、私たちの理性の内にある理法とが対応しているからです。
 もう一つ、四つ目の事実を加えておきます。それは、昔は、オリエント、インド、ギリシャでも恒常宇宙論といってこの宇宙は変わらず永遠のものであると考える人が多くいましたけれども、現代天文学者たちの到達点によると、この宇宙はけっして永遠のものではなくて、ある時始まったという事実です。
 どうして、このような不思議な事実があるのでしょうか?


2 聖書の答え

(1)ヨハネ福音書冒頭から
聖書は、これら不思議な四つの事実がある理由について、簡潔明快な答えを与えています。

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 「ことば」と訳されるのは、私たちが話しているこの言語という意味ではありません。これはロゴスといって、万物を調和的に運営しているお方のことです。聖書はロゴスについて、どんなことを啓示しているでしょうか。
 一つ目は、ロゴスの永遠性です。「初めにロゴスがあった」という「初め」とは、永遠のはじめです。星も太陽もなにも存在しないときから、ロゴスは存在していました。
 二つ目は、ロゴスの人格性です。「ロゴスは神とともにおられた」とありますが、これは18節で「父のふところにおられるひとり子の神」とあるように、ロゴスは父なる神とともに愛の交わりをもつ人格でいらっしゃるのです。人格というのは、知性と感情と意志という心のあるお方であるということです。
 三つ目は、「ことば(ロゴス)は神であった」とあるとおり、ロゴスの神性です。
 四つ目に、このロゴスなる方、つまり、ひとり子なる神が万物を創造したということです。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」永遠の生けるご人格である神の御子は、父の御心にしたがって万物を創造なさったのです。
 ヨハネ福音書の冒頭は、上の三つの事実の理由について明快に答えています。宇宙は永遠ではなく始まりがあります。この世界はどのように始まったか?永遠のロゴスであるお方(神の御子)ロゴスが万物を造ったので、この宇宙は始まったのです。そして、ロゴスなるお方(神の御子)が、世界をミクロからマクロの次元にいたるまでさまざまな理法をもって治めていらっしゃるので、宇宙全体は今も調和して営まれています。それで私たちは今晩イチゴ・ショートケーキを食べられます。


(2)創世記1章から
 答えていないもう一つの事実は、なぜ人間は、天文学幾何学・音楽・分子生物学などミクロからマクロ、見える世界だけでなく見えない世界の理法を読み取ることができるのかということです。言い換えれば、なぜ、私たちの内にある理法は、世界の外なる理法(天文・音楽・幾何学などもろもろのこと)と対応しているのでしょうか。聖書はなんと答えるでしょう。創世記1章27節を見てください。
「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」
 「ご自身のかたち」とは、コロサイ書1章15節によれば、「御子」つまりロゴスのことです。神は、人間を御子(ロゴス)に似た者としてしたがって造られたので、人間の理性には御子のロゴスが分与されています。ロゴスなる御子が造った世界は、その理法にしたがって組み立てられているので、ロゴスを内側に分与されている私たちは、この世界を探究してこれを読み取ることができます。人間は神とちがって有限ですから、すべてを知り尽くせるわけではありませんが、限界の中でこの世界に込められた作り手であるロゴス(神の御子)からの手紙を読み取ることができるのです。


3 ロゴスが人となった目的

 さて、クリスマスの驚くべき出来事というのは、永遠から父なる神とともにおられ、万物をお造りになったロゴスであるお方が、2000年前、私たちの住むこの世に、正真正銘の人となって来られたという事実です。人となられたお方、その名はイエス・キリストです。

「1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 いったい何のために、父なる神のひとり子、万物を造ったお方が、わざわざ私たちの住む世界においでくださったのでしょうか。せっかくおいでになっても、誰もイエス様を歓迎しなかったのです。「1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」イエス様が赤ちゃんとしてこの世に生まれたとき、権力者ヘロデ大王はこの赤ちゃんを殺そうとしました。さらに、イエス様が長じて、神の国のよいしらせを告げてまわりはじめたら、人々は、イエス様があまりにも清くて、あまりにも正しくて、あまりにも愛に満ちていたので、かえってこの方を憎んで、挙句の果てにゴルゴタの丘で十字架にはりつけにしてしまったのです。
 そうなのです。天体の世界、音楽の世界、幾何学の世界は見事に調和しているにもかかわらず、私たち人間の世界は実に妬みや欲望や憎しみや罪がうずまいていて、到底調和しているとはいえないありさまです。そこに神の御子ロゴスなるお方、イエス・キリストが来られたとき、世界はこのお方を抹殺してしまったのです。
 しかし、人間の思いはかりを超えて、神様は不思議なことをなさいました。神様は、人となった神の御子イエスの死をもって、私たち人間のすべての罪咎のつぐないを成し遂げられたのです。イエス様は人類の代表として、十字架にかかり、あの十字架の上で、私たちが神の前に背負っているあらゆる罪をその身に背負って刑罰を受けてくださいました。主イエスは十字架上で「父よ、彼らをゆるしてください。」と祈ってくださいました。イエスは罪の贖いを成し遂げて三日目によみがえられました。
「神は罪のないお方を罪となさいました。それは私たちがこの方にあって、神の義となるためです。」とあるとおりです。これが、神の御子ロゴスがわざわざ人となって、この世界においでくださった目的でしたので、十字架での最期のとき「すべては完了した」とおっしゃいました。永遠のロゴス、万物の造り主が、私たちの罪を償うため十字架にかかるためにこの世界においでくださった。これが、クリスマスの出来事です。

結び  
 私たちがキリストを賛美するのは、このお方が神の御子、私たちが礼拝すべき天地万物の創造主であり支配者であり、日々、私たちを生かしていてくださるからです。この一年間も毎日絶えず私たちは、キリストに生かされてきました。
 私たちがクリスマスにイエス・キリストに感謝するのは、このお方が私たちの罪を背負って十字架にかかって私たちの罪を赦し、永遠のいのちへと招くために、この世にくだってくださったからです。