苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

安息日には善を

マタイ12章9−14節

1 安息日はレクリエーション日


 父と子と聖霊の三位一体なる神様は、創造の第六日目に、御子に似た者として人間を創造なさいました。そして、万物が完成したとき、神様は安息日を宣言なさいました。「2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」七日に一度の休みの日です。
 創造主のかたちに似た者として造られた人間は、創造主のように七日ごとに、創造主の前で休むようにと設計されています。レクリエーションということばがあり、多くの場合気晴らしのゲームのような意味でもちいられていますが、本来「再創造」という意味です。一週間活動して故障したりくたびれたりしたが、創造主の前で、憩うて、再創造していただく。礼拝こそまさにレクリエーションです。
こんなわけで、二千年前人となって地上に来てくださった神の御子イエス様はまた弟子たちとともに、安息日に会堂礼拝に出席するのを常となさっていました。本当の意味でのレクリエーションのためです。

12:9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。


2 安息日を窒息日にしたパリサイ人


 会堂では詩篇を歌い、祈りをささげ、おそらくイエス様が聖書の朗読と解説をなさったのだと思われます。一緒に礼拝をささげた人の中に、片手のなえた人がいました。マルコとルカによると、なえていたのは右手であって、イエス様は彼を会堂の真ん中に出てくるように言って、彼をいやしたとあります。ですから、彼は会堂の隅のほうに目立たないようにして座っていたのだろうなあと思われます。
 右手がなえているというのは、両足がきかないとか、目が見えないといったこととちがって、一見してほかの人からはわかりにくいことでしょう。ほかの人からはわかりにくいけれども、何かと不便で、幼いころから、友達と一緒に遊ぶことも難しかったりして、何かと消極的な生き方になってしまいがちな障害であるように思います。彼が会堂の隅にいたというのは、それを象徴しているように思います。

 イエス様が会堂のなかでその人に視線をやっておられたので、パリサイ人たちは、そのことに気づいて、イエスに質問をしました。「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」。
 この質問は、「イエスを訴えるためであった」とあるように、例のごとく悪意を含んだ質問でした。例の彼らが作った「安息日の禁止行為リスト1521個」の中には、「癒しを行うこと」が含まれていたわけです。
 彼らはその禁止事項を守ることが、救いのために必須であると考えました。禁止条項を守って神の前に功徳を積み上げていって、神の前に自分の義を立てようというのが彼らの基本的な考えかたであったからです。保険で、毎月毎月お金を摘んで行って満期が来たら受け取ることができるというふうに。
 その結果、本来、創造主の前で、兄弟姉妹ともに憩って、神様に悔い改めと感謝と賛美をささげ、また、神様から罪を赦された確信をいただいてレクリエーションつまり再創造していただくという喜びに満ちたばしい安息日は、「あれをしてはいけない」「これもしてはいけない」ということにばかり気を使わねばならない、いわば窒息日となっていたのでした。
 確かに、「あれをするな、これをするな」とチェックばかりされると、気持ちが萎縮してしまうものです。そうして、そうした禁止事項ばかり気にしていると、それを守っていることだけで満足して、もっと本質的なことを忘れてしまうということが起こるものです。『ところで、そんなこまごまとしたことは、何のために禁止しているんですか』と質問したら、きっと彼らは「何を言っているんですか。禁止することに意義があるのですよ。」と答えたでしょう。禁止の禁止による禁止のための禁止です。


3 安息日には善をなせ


ひたすら「何をしたら安息日違反にあたるか」ばかりを考えて、他人の行動をチェックすることに夢中になっていたパリサイ人と、その指導の下にある人たちに対して、イエス様はガラリと発想の転換を求めます。

12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
12:12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」

 イエス様がおっしゃっているのは、むしろ当たり前のことであって、斬新なことではないでしょう。羊が穴に落ちてメーメー助けてくれといっていたら、誰だって穴に飛び込んで羊を引き上げてやるだろう。安息日だからちょっと待てとは言わない。そんなことは、みなわかるだろう。だとしたら、長年、片手がなえていて、しょんぼりしているこの青年の右手を直してやるのがなぜいけないのか?
 そしてイエス様はズバリと断言なさいます。「安息日には、よいことをするのは正しいのだ」と。つまり、イエス様は消極的に「してはいけないこと」をこまごまと規定して数え上げるのではなくて、むしろ、「安息日は、積極的にすべきよいことをする日と考えなさい。そうすれば、してはいけないことはおおよそわかるはずだ。」とおっしゃるのです。
 「よいこと」とはなんでしょうか。「よいこと」とは、第一に「心をつくし、思いを尽くし、力を尽くして、知性をつくして、あなたの神である主を愛する」ことと、第二に「あなたの隣人をあなた自身のように愛すること」とです。
エス様は、お弟子さんたちと一緒に安息日に会堂礼拝にやってきて神様を賛美し礼拝をささげることによって、「あなたの神である主を愛しなさい」という第一の命令に応答し、右手がなえていてしょんぼりしている兄弟を癒すことによって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の命令に応答なさったのです。

12:13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。


 神様は私たちに6日間働いてすべての仕事・勉強・部活などをして、1日は安息日としなさいと言われました。仕事もまたその働きをとおして神様を愛し隣人を自分自身のように愛するという目的のための手段です。しかし、私たちはえてしてその手段を目的と取り違えてしまうことがあります。つまり仕事を神のようにしてしまう、偶像化してしまうのです。
本来よいものである仕事が偶像化されると何が起こるでしょうか。私たちは神様を忘れ、自分自身の体と心を苦しめ、人をも苦しめることになります。安息日は、私たちをそうした罠から解放して、神様を愛し、隣人を自分自身のように愛するという人間としての原点に立ち返らせる手段なのです。
ですから、安息日をおろそかにして、仕事中毒になって神様を忘れ隣人愛を忘れることがないようにしましょう。ですが、また、パリサイ人たちのように、安息日に何もしないということをもって神様の前に自分の功徳を積み上げるのだなどという誤解をして、せっかくの安息日を窒息日にしないように注意しましょう。
むしろ、私たちは、安息日には、兄弟姉妹とともに神様への愛の表現として礼拝をささげ、兄弟姉妹の安否を問い合い、病人を見舞って祈るという風にすごしたいものです。


4 かたくななパリサイ人…プライドの危険性


 イエス様が彼らの目の前で片手のなえた人を癒したのを見て、パリサイ人たちはどうしたでしょうか。「 12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」というのです。彼らは聖なる安息日に、人殺しの相談をしたのです。彼らの安息日の禁止事項リストには、「人殺しについての相談」というのは含まれていなかったのかもしれませんね。・・・これは皮肉です。聖なる安息日に、人殺しの相談をしながら、それがおかしいと思うことができない彼らの良心は完全におかしくなっていたのです。<安息日は、神への愛と、隣人への愛を表すために特別に取り分けられた日なのだ>という、当たり前のことが彼らには気に入らなかったのでしょうか。
心がかたくなになってしまうのは恐ろしいことであるとつくづく思います。彼らは公衆の面前でプライドを傷つけられたのでしょう。プライドが真理を受け付けなくさせてしまうことがあります。
 彼らはきっと学識と自分たちが安息日律法を厳格に守ってきたという誇りがプライドだったのでしょうね。人は、プライドによって自分を支えていたします。自分はこういう経験があるとか、こういう家柄であるとか、こういう職業であるとか、こういう能力があるとか。
プライドがあるからいい加減な仕事はしないというふうに、プライドは時には役に立つものですが、一面危険なものでもあります。このパリサイ人たちのように、プライドのせいで真理を受け入れられなくなることがあります。さらに、プライドを傷つけられると殺意までもいだくことになるのです。
 真理の前に謙虚、謙遜であることを心掛けたいものです。私たちキリスト者の誇るものはイエス様の十字架、あの十字架にあらわされた神の愛のみです。

結び
私たちは安息日の目的をもう一度確認しておきましょう。安息日とは、何かをしない日というよりも、神を愛し、隣人を自分自身のように愛する日なのです。礼拝において神に愛をささげ、主にある隣人を自分自身のように愛するという、特に善をおこなう日としてすごしたいものです。