苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

黄金(こがね)の麦畑で

1.律法の精神はあわれみ

12:1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。

 ある安息日の朝、イエス様と弟子たちは、礼拝をささげるために会堂への道を歩んでいました。見渡せば、黄金色の麦畑でたわわに実った麦の穂の薫風が弟子たちの鼻をくすぐります。今朝は朝食をとることができなかったのでしょう、弟子たちのおなかの虫がグーッと鳴き始めました。彼らは、道端の麦の穂を摘み取ると手でしごき、掌に実が取り出して、それを口に放り込みます。何度もかむうちにほのかな甘さが口の中に広がります。そうして空腹をすこしばかりごまかそうというわけでした。
 イエス様はそんな弟子たちのようすを見ながら、穏やかな表情をしていらっしゃいました。古代イスラエルモーセを通して神様がお与えになった律法には、貧しい人を救済するために、次のようなくだりがあります。
 「あなたが畑で穀物の刈り入れをしていて、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない」(申命24:19)。

 「あなたがたが土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない」(レビ19:9,10)。

 さらに、誰でも、その道に面した他人の畑に入って、果実や穀物を取ってもよいことになっていました。

 「隣り人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣り人の麦畑に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし隣り人の麦畑で、かまを使ってはならない」(申命二三・二四〜二五)

 つまり、その時にとりあえず自分の空腹をしのぐためだけなら、他人の畑に入って取って食べても、泥棒とはされなかったわけです。<神の民イスラエルのなかではおなかを空かせて苦しむ人はいないようにしなさい。互いに兄弟姉妹ではないか>というのが、あわれみふかい神様のみこころでした。


2.パリサイ主義者たち

 ところが、こうした神様のみこころを悟らない人々がいました。パリサイ派と呼ばれる人々です。彼らはこの日イエス様と弟子たちの言動をいちいち嗅ぎまわっていました。

12:2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」

 彼らは律法の専門家たちで、事細かく律法の字句を研究し尽くしている人々でした。どんなとき、どういういけにえを神にささげるべきか、その所作はどのようにするのか、どのように手を洗うかといったことに関する祭儀律法について、微に入り細をうがって定めていました。
 彼らは、イエス様と弟子たちが律法に反することがあったら、それを摘発して、イエス様を貶めようとねらっていたのです。彼らは、弟子たちが麦の穂を摘んで食べたのを見て、「しめた、イエスのしっぽを捕まえたぞ」とばかりに、イエス様に食ってかかります。彼らは弟子たちが、他人の畑の麦に手を出したことが盗みだと言っているわけではありません。彼らが問題にしているのは、イエス様の弟子たちが「安息日にしてはならないこと」をしているという点でした。

 神様は、安息日をお定めになりました。その最初は、万物の創造のとき、そして、シナイ山十戒を与えたときでした。

20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出エジプト20:8−11)

 安息日は仕事をしてはならない。その第一の目的は、神を礼拝をもって神への愛を表現すること。第二の目的は、自分も使用人も家畜も在留異国人も神の前でともに憩い、愛と憐みと実行することです。私たちは仕事中毒になり仕事を偶像化して、神様を忘れ、隣人愛を忘れないために、神様は安息日という定めをつくってくださいました。
 けれども、パリサイ派の学者たちは、安息日の目的を見失って、ひたすら「してはならない仕事」とはなにかを追求しそれを禁止項目を立てました。まず禁止項目を39項目に分類し、それぞれの項目を39に細分することで39×39=1521個の禁止条項を考え出しました。現代でも、厳格なユダヤ教徒は、安息日にトイレットペーパーを裂くことをしないそうです。それは紙を切ることは仕事だからです。そういうパリサイ派の人々の定めから言えば、イエス様の弟子たちが麦の穂を摘み取ったことは収穫という安息日の禁止事項にあたり、手でもんで実を取り出したことは脱穀という安息日の禁止事項にあたったわけです。それで、イエス様を責めたのです。
「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」


2.イエスの反論


 私なら、「私たちは礼拝に行こうとしているのに、邪魔するなよ。そんな細かいことをゴチャゴチャ言うて、あんたら頭おかしいんちゃうか!」と言ってしまいそうですが、イエス様は、やさしいですね、ていねいに旧約聖書から二つ取り上げて、パリサイ人に神様の安息日にかんするみこころはなんなのかを明らかになさるのです。


(1)緊急時、愛の律法(あわれみ)は祭儀律法(いけにえ)に優先する
第一は、旧約時代の神に愛された王ダビデにまつわる出来事です。

12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。 12:4 神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。」

 旧約聖書第一サムエル記21章1節から6節 の出来事です。昔、イスラエルダビデという人物がいました。彼はもともと羊飼いの少年でしたが、ある戦で敵の巨人を倒したことで王に召し抱えられて、人々はダビデをヒーローとしてたたえました。ところが、王は嫉妬深い人だったので、ダビデを殺そうとして槍を投げつけました。そこで、ダビデは武器も食料も用意できないままに逃亡しますが、ダビデは人望がありましたので、部下たちはダビデについてきました。これは突発的な行動だったので、ダビデは武器を持たず、食料もありません。そこで一行は神の宮に身を寄せました。
 で、ダビデは祭司に「なにか食べるものはありませんか」と求めました。ところが、あいにく普通のパンがありませんでした。あったのは幕屋で神前にささげたものを取り下げてきたパンだけでした。神前から取り下げられたパンは、当時の祭儀律法の定めによれば、祭司とその子どもたちだけが食べてよいとされていました 。
 むろんのことですが、もしアヒメレクは普通のパンを自分がもっていたら、そのパンをダビデとその部下たちに与えるべきでした。けれども、この時にはなかったし、ダビデと部下たちが困窮していました。こういう緊急時には、取り下げられた聖なるパンを与えることが憐み深い神様のみこころだと祭司アヒメレクは判断したのです。そして、実際その判断は正しかったのです。
 このダビデの出来事に照らすならば、一週間、一生懸命に福音の働きのために働いてきたイエス様の弟子たちが、これから安息日の礼拝にでかけて神様への賛美と愛をささげに行こうとしている道すがら、ひもじくなって道端の麦の穂を手で摘んで口にしたからとて、なんの罪にあたるものかとイエス様は反論なさるわけです。


(2)主イエスは祭儀を定める神の権威を持っている
 イエス様のもう一つの反論は、イエス様がどういうお方であるかということをほのめかしています。

12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。

 安息日、祭司たちは神殿で神様にお仕えする仕事をしていました。民が礼拝するために、民に代わっていけにえを屠ってささげ、さまざまな営みをしたわけです。しかし、それは安息日律法を犯したことにはなりません。パリサイ人たちは、けげんな顔をしたでしょう。そして、「それは、あなたと弟子たちが祭司であったら、そうでしょう。でも、あなたとあなたの弟子たちは祭司ではないではないか。」と言いたげです。イエス様は、そういうわせないで実に驚くべきことを宣言するのです。

12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。

 「宮よりも大きな者、偉大な者」とは誰のことでしょう?宮の目的は、神を礼拝することです。手段と目的とどちらが大事なのかといえば、いうまでもなく目的です。だから、「宮より偉大な者」とは、礼拝を受ける神です。つまり、イエス様はご自分は神としての権威をもつと宣言なさっているということになります。
 もうひとつ、イエス様は宣言なさいます。8節

12:8「 人の子は安息日の主です。」

 人の子というのは、イエス様がご自分のことを呼ばれる呼び方です。「人の子は安息日の主(あるじ)です」。「安息日の主」とは誰ですか。それは安息日を定めたお方ではありませんか。創世記2章

2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

 イエス様は、安息日を定めた創造主の権威をご自分のものであると主張されたのでした。ただ、その場ではこの発言の重大さをパリサイ人も弟子たちもよくわからなかったのでしょう。もしわかっていたら、パリサイ人たちは石を取り上げてイエス様を打とうとしたでしょう。
 実際、イエス様は、三年ほどのちにイスラエル最高議会に引き出されて裁判にかけられます。そして死刑と定められますが、その罪状は<イエスは自分を神であるとした>ということです。それは、確かに事実でした。イエス様は宣教のごく最初のほうからご自分の神としての権威を主張なさったのです。
 宮より偉大な方とは誰ですか。それは礼拝を受ける神です。安息日の主とは、安息日を定めた創造主なる神ご自身です。イエス様はその神の権威をご自分はもっていらっしゃると宣言なさいました。


3.「わたしは憐みは好むがいけにえは好まない」とは


 そして、7節で、イエス様は旧約聖書ホセア書から引用しておっしゃるところから、今一度イエス様の安息日についての神髄を学びましょう。それは安息日だけでなく、私たちの生き方そのもののありかたについての教えです。

 12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。

 ホセアの時代、神殿礼拝でいけにえをささげる儀式は荘厳になされていましたが、世の中ではみなしご・やもめといった社会的弱者が虐げられていました。すべての人に神の御旨を教える立場の祭司階級は権力者と金持と癒着して、務めを怠っていたのです。
そういう祭司たちに対して、神は預言者を通して「わたしはあわれみは好むがいけにえは好まない」と警告したのです。神様へのいけにえは、本来、神様の前で悔い改めと誠実な生き方への決心を伴ってこそ意味あるものです。憐みも誠実さもないがしろにして、儀式だけ立派にしても、神様はそんな儀式に対して吐き気をもようされます。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と。
 イエス様は、パリサイ人たちがあのホセアの時代と同じ過ちに陥っている、と言われるのです。律法の精神、安息日の精神は、全身全霊をもって神を愛し、隣人を自分自身のように愛することにある。なのに、律法の字句に拘泥して、これから神を礼拝するために会堂に向かう弟子たちがひもじくて麦の穂を一本二本とって食べたからといってを罪に定めるとは、なんという見当違いだと嘆かれるのです。君たちは、もっともらしく律法の字句を振りかざして、彼らの神への愛の表現である礼拝を妨げているだけではないか、と。

結び
 最後に安息日・礼拝の原則を私たちの生き方にひろげて考えておきましょう。なぜなら、神様は安息日だけの神様ではなく、ほかの六日間も私たちをみそなわしていてくださるお方だからです。私たちの生活そのものが神様への礼拝であるからです。
 形式と実質、形と中身ということがあります。形式は大事ですが、形式以上にたいせつなのは実質です。たとえばお礼状を書いたとして、心から感謝の気持ちが伴っていなければ、それは欺瞞です。ごめんなさいというならば、本当に申し訳ないという気持ちが伴っていることが絶対必要です。中身をおろそかにして形式にのみこだわっていると、私たちはイエス様が嫌う偽善という罪に陥ってしまいます。
 残念ながら、私たち日本人の中には、「心がなくても、形だけやっておけ。」という考え方があります。また、心だけまことの神を信じていれば、かたちは偶像礼拝してもいいという人もいます。けれども、神様の前では、それは通用しません。主イエスは私たちに、中身とかたち、心とからだが一致している生き方をお求めになるのです。
 私たちの主イエスは、憐み深く、そして真実なおかたなのです。


<注>12章6,8節について、Clarkes Commentary on the Bibleを参照。
http://www.studylight.org/com/acc/view.cgi?bk=39&ch=12