苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ヨブの待降節

(数年前の待降節第三説教です)


ヨブ記9章32、33節。16章19−17章3節。19章25−27節

            

 「悪者が世にはびこり、正しい者がどうして苦難に遭わねばならないのか。神が正義ならばどうしてこんなことが起こるのか。」これは多くの人が胸に抱く人生の謎ではないでしょうか。ヨブ記はまさにそのテーマに貫かれています。ヨブは、その答えを神に執拗に問い求めます。それが、ヨブのメシヤ待望となって行きます。
 一章と二章でヨブの人となりについて、神様は「彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている。」と三度もことばを重ねていらっしゃいます。そんなヨブがサタンの試みによって一時に全財産を失い、十人の愛する子どもたちを失い、さらに、自分のからだも足の裏から頭のてっぺんまで悪性の皮膚病で打たれるという苦難を経験することになりました。
 さらにヨブは妻に「神をのろって死になさい」と言われて孤独に陥りました。けれども、彼には敬虔な友人たちがおりました。彼らはヨブの受けた苦しみを聞いて、はるばるやって来たのです。仕事もしばし打捨てて来てくれました。彼らはヨブの悲惨を七日七夜悲しみました。しかし、これほどの最良の友人たちでさえ、ヨブにとっては真の理解者ではありませんでした。


1.友人たちのヨブについての見方

 ヨブは自分の生れた日を呪います。余りの苦しみのなかで、「こんなに苦しまねばならないのであれば、いっそのこと自分は生れてこなければ良かった」というのです。三章一から三節。

3:1 その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。
3:2 ヨブは声を出して言った。
3:3 私の生まれた日は滅びうせよ。
  「男の子が胎に宿った」と言ったその夜も。
3:4 その日はやみになれ。
  神もその日を顧みるな。
  光もその上を照らすな。


 ヨブのことばに、友人エリファズは黙っておられなくなって、ヨブに反論します。

4:7 さあ思い出せ。
  だれか罪がないのに滅びた者があるか。
  どこに正しい人で絶たれた者があるか。
4:8 私の見るところでは、不幸を耕し、
  害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。
4:9 彼らは神のいぶきによって滅び、
  その怒りの息によって消えうせる。


エリファズの趣旨は、「何かヨブよ、心に思い当る悪事はないのか。これほどの災難にあっているのは、お前がなにか悪事を行なったからではないのか」ということです。。
 詰まる所、エリファズのヨブへの反論は、「ヨブが悪事をなしたから、神がヨブを懲らしめておらるのだ」ということです。

 次に、シュアハ人ビルダデがヨブに反論するのですが、これもエリファズと趣旨は同じです。

8:2 いつまであなたはこのようなことを語るのか。
  あなたが口にすることばは激しい風のようだ。
8:3 神は公義を曲げるだろうか。
  全能者は義を曲げるだろうか。
8:4 もし、あなたの子らが神に罪を犯し、
  神が彼らを
  そのそむきの罪の手中に送り込まれたのなら、
8:5 もし、あなたが、熱心に神に求め、
 全能者にあわれみを請うなら、
8:6 もし、あなたが純粋で正しいなら、
  まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、
  あなたの義の住まいを回復される。
8:7 あなたの始めは小さくても、
  その終わりは、はなはだ大きくなる。

ビルダデのことばはやはり、それ自体としては誤っていません。

 ツォファルもヨブに悔い改めを勧めます。「神は不真実な者を知っておられる。神はその悪意を見て、これに気付かないであろうか。・・・あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせないなら、あなたは必ずあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。」(十一章十一、十三、十四、十五)
 エリファズ、ビルダデ、ツオファルのヨブへの戒めは、同じ主旨でそれぞれ二回なされます。けれども、あくまでもヨブは自分の正義を言い立ててやまなかったのです。たとえば・・・

6:24 私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。
  私がどんなあやまちを犯したか、
  私に悟らせよ。
6:25 まっすぐなことばはなんと痛いことか。
  あなたがたは何を責めたてているのか。
6:26 あなたがたはことばで私を責めるつもりか。
  絶望した者のことばは風のようだ。
6:27 あなたがたはみなしごをくじ引きにし、
  自分の友さえ売りに出す。
6:28 今、思い切って私のほうを向いてくれ。
  あなたがたの顔に向かって、
  私は決してまやかしを言わない。
6:29 どうか、思い直してくれ。
  不正があってはならない。
  もう一度、思い返してくれ。


そこで、かれら三人はヨブを説得することばを失い、沈黙してしまいます。
 そして、最後に若者エリフが登場して、戒めるということになります(三十二章以下)。けれど、三人の友人たちも、若者エリフも、色々と言葉を変えて論じ立てますが、その言わんとするところは同一です。ヨブは自分を正しいとしている。しかし、実はヨブには罪がある。だから神は正義のみ手をもって、ヨブを打たれたのだ。要するに、「ヨブよ、あなたにはバチがあたったのだ。謙遜になれ」ということです。
 三人の友と第四の若者エリフの論じることは、つまり教え・理屈としては標準的で正しいものです。「神は正しいお方であり、私たちの人生を摂理しておられる。そうして、私たちが高ぶったり罪を犯したりするときに、神は私たちを懲らしめられる。それは、私たちが再びへりくだって神のもとに立ち帰るためである。」
しかし、教えとして正しいということと、それを誰に適用するかということは別次元のことです。もしこの友人たちが、普通の人を責めたならば、彼らの主張は正しかったでしょう。けれども、三人の友人とエリフの間違いは、これをヨブに当てはめたことでした。ヨブは神御自身が「潔白で、神を恐れ、悪から遠ざかっている」と認めた人物でした。ヨブには彼らが邪推するような隠れた不正はなかったのです。
 ですから、ヨブ記の末尾で、神様は友人たちを責めています。ヨブ42:7

さて、【主】がこれらのことばをヨブに語られて後、【主】はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。

2.ヨブが求めたもの−−−苦難の意味

 では、ヨブは苦悩のなかで一体何を求めていたのでしょうか。ヨブは病の癒しを求めているのでしょうか。あるいはヨブは、「失った子供を、財産を返してくれ!」と言っているのでしょうか。いいえ違います。6:8-10

 「ああ、私の願いが叶えられ、私の望むものを神が与えてくださるとよいのに。私を砕 き、み手をのばして私を絶つことが、神のおぼしめしであるなら、私はなおも、それに 慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりしてよろこぼう。私は聖なる方のことばを 拒んだことがないからだ。」

  ヨブが求めていることは、この苦難の意味、その理由でした。彼は納得したかったのです。もし自分が罪を犯し、神がそれを懲らしめておられるならば、ヨブは納得出来たのです。もし自分が罪を犯したならば罰にも甘んじますというのです。しかし、ヨブにはどう考えても、思い当る節がありませんでした。ヨブは知りたかったのです。苦しみの理由を知りたかったのです。潔白で、神を恐れる人も、苦難にあわねばならないことがある。悪をなす者たちが栄えて、神を恐れる者が苦難のなかにあえぐこともあるのはなぜか?これがヨブの問うところです。


3.ヨブが見いだしたこと−−神と人との無限の隔り

 ヨブは友人たちと議論を繰り返しているなかで、人にいかに訴えても空しいことに気づきます。地上の人はこんなに素晴らしい友人であっても、だれ一人として自分を理解してくれないとわかってきたのです。そこで、ヨブはもはや友人に向かってではなく、神に向かって叫び始めます。

7:17 人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、
  これに御心を留められるとは。
7:18 また、朝ごとにこれを訪れ、
  そのつどこれをためされるとは。
7:19 いつまで、
  あなたは私から目をそらされないのですか。
  つばをのみこむ間も、
  私を捨てておかれないのですか。
7:20 私が罪を犯したといっても、
  人を見張るあなたに、
  私は何ができましょう。


しかし、神は沈黙されたままでした。神の沈黙を前にヨブは悟ります。神と自分とがどんなに遠く隔たった存在であるかということを。神は造り主であって、自分は土から作られた器にすぎないということを。神と人との質的な違いを。神と自分との間には、だれも飛び越えることのできない深淵があることを知るのです。全宇宙を創造し支配される神は無限の全能者であり、人はちりにすぎないことを悟るのです。10:1-9。

10:1 私は自分のいのちをいとう。
  私は自分の不平をぶちまけ、
  私のたましいの苦しみを語ろう。
10:2 私は神に言おう。
  「私を罪ある者となさらないように。
  なぜ私と争われるかを、知らせてください。
10:3 あなたが人をしいたげ、御手のわざをさげすみ、
  悪者のはかりごとに光を添えることは
  良いことでしょうか。
10:4 あなたは肉の目を持っておられるのですか。
  あるいは、人間が見るように、
  あなたも見られるのですか。
10:5 あなたの日々は人間の日々と同じですか。
  あるいは、あなたの年は人の年と同じですか。
10:6 それで、あなたは私の咎を捜し、
  私の罪を探られるのですか。
10:7 あなたは、私に罪のないことを知っておられ、
  だれもあなたの手から
  救い出せる者はいないのに。
10:8 あなたの御手は私を形造り、造られました。
  それなのにあなたは私を滅ぼそうとされます。
10:9 思い出してください。
  あなたは私を粘土で造られました。
  あなたは、私をちりに帰そうとされるのですか。

 
神と人とは絶対的にへだたっています。神は全知全能の支配者です。 しかし、人は神の御前にあっては無知無能のちりです。神は永遠から永遠にいますお方です。しかし、人は朝のあいだしばらくあっても日が上ると消えていく露にすぎません。神は創造者です。人は被造物にすぎません。
神は無限です。人は有限です。
 絶対者と自分との間に横たわる深淵を前にヨブは恐れおののいているのです。 ある古代の神学者が言いました。「我々が神を理解しようとすることは、かぶと虫が我々人間を理解しようとすることのようだ。」と。


4.ヨブが見いだした希望−−メシヤ待望

 しかし、ヨブはこの絶望の暗黒のなかで、かすかな希望の光をチラリと見始めます。初めは失望の嵐に閉ざされるのですが、その光が段々と輝きを増してくるのです。
 最初に、九章三十二節、三十三節。

9:32 神は私のように人間ではないから、
  私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」
  と申し入れることはできない。
9:33 私たちふたりの上に手を置く仲裁者が
  私たちの間にはいない。


これは、「神と人との間を取り持つ仲裁者」がいないものかという、失望と希望とがないまぜになった言葉です。いや、ここではまだ「そんな仲裁者はいない」という失望のほうが勝っています。
 しかし、なおも神に叫び続け、友人に責め立てられるうちにヨブはさらに強い光を見出し始めます。あの最も親しい友人たちまでが、ヨブには隠された悪事があるのだろう。それを改めねば、君は神に振り向いてもらえないと言い立てます。かつて三人とも地上ではどんなときでもヨブの保証人となり、ヨブの側に立って弁護してくれたこの三人の友人たちが、今やヨブを責めたてる検察官です。
 地上に誰一人自分を弁護してくれるもののいないことに気付いたヨブは、天に目を注ぐのです。十六章十九節から二十一節。十七章三節。

16:19 今でも天には、私の証人がおられます。
  私を保証してくださる方は高い所におられます。
16:20 私の友は私をあざけります。
  しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
16:21 その方が、人のために
  神にとりなしをしてくださいますように。
  人の子がその友のために。
17:3 どうか、私を保証する者を
  あなたのそばに置いてください。
  ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。

先に、仲裁者はいないと失望していたヨブは、ここにひとつの確信を表明するのです。いや、「必ず『天には私の証人』がおられるのだ。」
 神はこのヨブの苦悶の内の叫びのうちに天のキリストを啓示し始めたのです。

 ヨブは切望します「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、そのみ座にまで行きたい。私は御前に訴えを並べ立て、ことばの限り討論したい。」(二十三章三、四節)しかし、いかにそれを切望しても、ちりにすぎぬ人が、どうして神のもとに上れるでしょう。たとえ天に証人がいるとしても天はあまりにも遠い。地上にうごめく虫に過ぎぬ人間が、どうしてはるかな天の御国の法廷に、自分の訴えを述べられるでしょうか。
 こうして、さらに、強い光にヨブは照らされます。十九章二十五節から二十七節。

19:25 私は知っている。
  私を贖う方は生きておられ、
  後の日に、ちりの上に立たれることを。
19:26 私の皮が、このようにはぎとられて後、
  私は、私の肉から神を見る。
19:27 この方を私は自分自身で見る。
  私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。
  私の内なる思いは私のうちで
  絶え入るばかりだ。


 私を贖う方は、はるか遠くに留まりたまわない。私を贖う方、私の天の保証人、私と神との仲裁者は、天のみ座を捨ててついに地に立たれる。そうして、やがて復活の日、私はこの目で、このお方を見るというのです。


結び

 四千年前、苦難の義人ヨブの待ち望んだ神と人間との間を取り持つ保証人は、その二千年後、地上に来てくださいました。神と人間との仲介者となる資格のある方とはどんな方でしょうか。それは、神であられながら人となられた私たちの救い主イエス・キリスト以外にはありえません。
 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト、イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」第一テモテ二章五節
 正しい者がなぜ苦しまなければならないのか。ヨブはその答えを地上にあったときには、知らされることはありませんでした。しかし、今、私たちには義人ヨブの苦しみは、彼が待望したお方、罪なき神の御子の十字架を指差すためであったと示されているのではないでしょうか。とすれば、ヨブは御許に引上げられた日に、自分の苦難の意義を悟らされて、その光栄を覚えてひれふして御名を崇めたことでしょう。