苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「幼子」にこそ

マタイ11:20−27

1.かたくなな町々

 派遣した12人の使徒たちがイエス様のもとに帰ってきて報告するところによれば、ガリラヤの町々の多くは「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というメッセージを受け入れようとはしなかったということでした。コラジン、ベツサイダ、カペナウムというのは、イエス様の弟子たちを拒否したガリラヤの町々の名です。
 イエス様はこれらガリラヤの心かたくなな町々のことを嘆きます。

11:21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。 11:22 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

 ツロ、シドンという町はガリラヤ地方の北西の地中海に面した貿易で栄えたフェニキア人の町々でした。ツロとシドンは、異邦人の都市国家であり、まことの神に背を向け金儲けと快楽と偶像に仕えていた都市でした。しかし、紀元前4世紀アレクサンドロス大王に攻撃されて、激しい抵抗の末、ついに滅亡してしまいました。
 イエス様は、そんな異邦人たちの都市であっても、もし神の御子イエスご自身が来られて、神の国の福音が伝え、数々の奇跡を見たら彼らはきっと悔い改めたにちがいない。それなのに、旧約聖書を持っているユダヤ人の町でありながら、コラジンとベツサイダが神の国の到来を拒むとはなんということかと嘆かれるのです。多くの救いのチャンス、そのための知識、メシヤ預言を与えられていながら、あえて神の国を拒むならば、その罪は無知ゆえに滅びた異教徒の町々よりも重いのだとおっしゃるのです。
 次にカペナウムはイエス様が、最初に福音を宣言されたガリラヤの町です。他方ソドムとゴモラは異教の町で、紀元前2000年ころにそのはなはだしい不道徳な罪ゆえに滅ぼされた町でした。けれども、ソドムとゴモラのほうが最後の審判の日には罰が軽いとおっしゃるのです。神からのキリストが自ら来られて救いを宣べ伝えたのにあえて、それを拒んだからです。

11:23 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。 11:24 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

 救いのチャンスを与えられながら、あえてこれを拒むとしたら、その罪は無知のままに滅んだ人よりも罪は重いのです。ひとたびキリストにある救いを受けた私たちは、最後までこれを決して手放してはなりません。

2.イエス様を拒んだ人々

 では、神の国の福音を受け入れずイエス様を拒んだ町々はどういう人々だったのでしょうか?また、イエス様を受け入れて永遠の命に入ったのはどういう人々だったのでしょう?

  11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。 11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。 11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

 福音を受け入れなかったのは「賢い者や知恵のある者」であり、福音を悟り受け入れたのは「幼子たち」であるとイエス様はおっしゃいます。不思議なことばです。イエス様がこられたイスラエル社会の中で、賢い者・知恵ある者とは、律法学者や祭司たちつまり旧約聖書の専門家たちのことです。聖書では賢いこと、知恵あることを基本的にはよいこととしていますから、イエス様がおっしゃるのは皮肉です。彼らはほんとうの意味では賢くもなく、知恵もないのですが、ただ自分では賢く知恵があると思い上がっているだけの人々です。
 イエス様がベツレヘムにお生まれになったとき、ヘロデ大王のもとに東方の博士がやって来て、ユダヤ人の王となるべきお方、つまり、メシヤはどこに生まれたのかと質問しました。ヘロデ大王が祭司・学者たちに質問したところ、彼らは即座に旧約聖書預言者ミカのことばを引用して、言いました。

「2:5 彼らは王に言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム
  あなたはユダを治める者たちの中で、
  決して一番小さくはない。
  わたしの民イスラエルを治める支配者が、
  あなたから出るのだから。』」マタイ2章5,6節

 ヘロデ大王がそれと知れば、そのメシヤを殺害してしまうことは火を見るよりも明らかでしたのに、彼らはメシヤ誕生の地を答えてしまいました。なぜでしょうか?彼らは聖書についてはやたらと詳しく知識を持っていて、メシヤ誕生の地も知っていましたが、彼らは神さまが実際にメシヤを遣わされたら都合悪かったからです。ローマ帝国は属州を統治するにあたって、自分たちだけで直接属州の民衆を治めるのは手間なので、属州のエリートたちを抱きこんで、彼らに利得を与えて彼らを利用して共同統治しました。たとえば、イスラエルにはローマ総督が派遣されましたが、それ以外に傀儡であるヘロデの王権、そして、サンヒドリンというユダヤ人たちの最高議会という三つの政権が立てられました。イスラエルでは、祭司・学者は最高議会の議員であり、イスラエル社会のエリートでした。彼らは、ローマ帝国の支配体制の下にあって利権にあずかっている人々でしたから、メシヤが来てこの体制を揺るがすことを望みませんでした。それで、メシヤがどこに生まれるかと問われたら、それはベツレヘムです、と答えてしまいました。
 これが、賢い者、知恵ある者である人々がしたことでした。彼らはその聖書にかんする知識と知恵を、神を愛し、キリストを愛することのために用いるのではなく、自分の権力と富を維持するために利用していたにすぎません。聖書は、本来、<第一に全身全霊をもって神を愛するため、第二に、隣人を自分自身のように愛するため>という目的のために与えられた神様のことばです。けれども、残念ながら、イエス様がこられた当時の学者・祭司たちはその目的を見失っていたのでした。聖書読みの聖書知らずでした。
 コリント人への手紙に「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」とありますが、それは聖書知識に関してさえも、ありうることです。聖書を日々よむことは大切です。聖書を読み神様を知る目的が、全身全霊をもって主を愛し、隣人を自分自身のように愛することなのだということをしっかり自覚しながら、日々聖書に親しみたいと思います。

3.幼子

 イエス様はおっしゃいました。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。 11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。 11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」
 神様は、自分で「賢い者、知恵のある者」とおごっている者に対しては、真理を明らかになさいませんでした。神様は「幼子(ネーピオス)たち」に、神の国の福音はあきらかにされました。人は誰も、天の父と御子イエス様が教えてくださらなければ、神の国のことを知ることはできません。イエス様から直接に説教を聴いても、神の国を知りえない人々がたくさんいました。ただ、イエス様が「父を知らせようと心に定めた人のほかには」、父なる神のことは知りえなかったのです。これは今このときも同じです。そして、イエス様は「幼子たち」に神の国を明らかにしてくださいます。
 今日は、とくにイエス様が子どもたちを愛されたことを覚えて、イエス様の祝福が子どもたちの上にあるようにと祈り願う日です。イエス様が子どもを愛されたのは、子どもには罪の性質がないからではありません。詩篇51篇5節に、ダビデが「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」と嘆いているように、人間には生まれながらに罪があります。では、イエス様は大人と比較して幼子の何をよしとされたのでしょうか。それは、子どもには偽善・欺瞞といったことがないということです。いや、人を欺くほどの知恵や経験もないので、ありのままだということです。自分を神様のまえで取り繕うための知識も権力も富もないので、神様の前に嬉しいときは嬉しいと喜び、うそをついても見え見えで、罪あるなら罪あるまま、惨めなら惨めなままに出ざるを得ないのが幼子だということです。私たち大人は、神様の前での態度にかんして、そういう幼子の単純さ、偽りのなさに学ぶものでありたいと思います。

 ところで、「幼子」と訳されるネーピオスということばは、単に「小さな者、マイナーな者」という意味の広がりをもっていることばです。イエス様を信じた人々のなかには確かに文字通り幼児もいましたけれども、ご存じのように成人でも信じた人々もがいました。十二人の弟子を見ても、漁師であった人、取税人マタイ、熱心党員だった人などいろいろなおとなたちがいました。ただ、彼らは神様の前では「小さな者、マイナーな者」でした。
 クリスマスにベツレヘムの厩に生まれたイエス様を最初に礼拝したのは、羊飼いという当時のユダヤ社会のなかでは特に尊ばれることもない人たちでした。伝道を始めたイエス様のまわりには、取税人、遊女といった当時の社会のなかでも軽蔑され罪人と呼ばれる人たちが集まりました。こういう人々のことをイエス様は、ネーピオスと呼んでいらっしゃるのです。その心は、彼らは、自分の罪、自分の惨めさを覆い隠しようもない境遇にあったという点で、幼子たちと同じであったということでしょう。
 知識や肩書きや社会的地位や家柄や富といったものは、それ自体悪いものではありません。そういうものを神様から託された人は、それらがあることで自分が何者かであるかのように思い上がったり、それら自分の欲や得のために用いるのではなく、それらが神様を愛し、隣人を愛するという目的のために託されたことを自覚して、正しく活用する責任があります。
 ですが、えてしてサタンに欺かれ、人は知識・肩書き・家柄・富といったものを偶像として、自分は何者かであるかのように思い上がります。そして人だけでなく自分自身を欺いて「神様なんか信じなくても、自分は独り立ちできるのだ」と思う大ばか者になるのです。太陽も地球も空気も水もいのちそのものも賜っている神様なしに、人は一秒でも生きられるわけなどありえないのです。
 どれほど知識・肩書き・家柄・富といったもので自分を飾り立てていても、現実には、私たちひとりひとりは神様の前では、ちっぽけな罪人、土の器にすぎません。終わりの日には一人残らず、神様の前に出る前には、知識も肩書きも家柄もお金もことごとく剥ぎ取られて丸裸にされてしまうのです。私たちは裸で母の胎から出て、また、裸で神の前に出ることになるのです。そうして、この地上でそれぞれが手で行ったこと、口でしゃべったこと、心に思ったことすべてについて、神様の前に責任を問われます。例外はありません。

 このことを忘れないでいるならば、私たちもイエス様の目から見たら「幼子ネーピオス」なのです。私たちは大人であっても「幼子ネーピオス」でありたいものです。そうであるならば、私たちはイエス様のことを、父なる神のことを知り、また愛することができます。