苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

女から生まれたのでない人々

               マタイ11章2節から19節

1. 洗礼者ヨハネ

  11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

 ヨハネはヘロデ・アンテパスの不倫を非難したことによって逮捕され、投獄されていました。ヨハネが逮捕されてもイエス様はガリラヤに退かれて、ヨハネ解放のための運動を起こすことはなさいませんでした。ヨハネとしては、あるいは、期待外れだったのかもしれません。というのは、ヨハネのメシヤに関するイメージは、実際に現れたイエス様と似ているようですが、少々ちがったものでもあったからです。同じマタイ伝3章10節から12節をごらんください。

「 3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

 ヨハネのこの予告を見ると、彼はメシヤは厳しく恐ろしいお方だろうと思っていたことがわかります。実りのない木は斧をもって切り倒し、箕をもっておられてもみ殻は焼かれてしまう。あなたは中身のない実らない木、中身のないもみ殻ではないのか?と警告したのです。
たしかに、イエス様が神の国の福音をのべ伝えて行かれると、人々はイエス様を受け入れ天の御国にはいる人々と、イエス様を拒んで滅びに陥る人々とにはっきりと分けられていきます。それは、箕をもって、麦ともみ殻を分けるようです。けれども、イエス様の公生涯を見ると、そのお働きの中心は、バプテスマのヨハネがしたように不正な権力者を公然と糾弾することではありませんでした。たしかに権力者や律法学者の偽善をただすこともあることにはありましたが、イエス様のおもな関心は、貧しい人々、罪に苦しむ人々、病める人々に対して向けられていました。彼らに神の愛を語り、癒しを行うことがイエス様による神の国の実現でした。この点でヨハネの予想とかなり違っていました。
 ヨハネの質問に対してイエス様は、どのようにお答えになったでしょうか。

11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。 11:5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。 11:6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

 5節に言われていることは、旧約時代の預言者イザやがメシヤのわざについて予告していたことでした。

35:5 そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
35:6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。
  荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
             (イザヤ35:5,6)


 主イエスはイザヤの預言が今ここに実現しているとおっしゃったのです。イエス様が来られた当時のイスラエル社会には、ローマ帝国の圧政をはねのけてほしいという願望が充満していて、それに応えるように次々に政権転覆を企てる反乱の指導者が出現していました。実際にこの世に来られたキリストは「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやす」お方でした。権力が顧みようとしない人々に目を注ぎ、救いと慰めをもたらしたのが真のイエス様でした。




2.ヨハネの偉大さ


 「聖書に登場する、一番大きな人はだれですか?」というクイズがあります。答えはゴリヤテではありません。バプテスマのヨハネです。根拠は11節。口語訳聖書では次のようになっています。

11:11あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

 このみことばは二つのことをのべています。一つはバプテスマのヨハネの偉大さ。二つ目は、天国の聖徒のさらなる偉大さ、です。
バプテスマのヨハネの偉大さとはなんでしょう。イエス様はヨハネについて次のように語られました。

  11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
11:8 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。

 ではヨハネの偉大さはなにか。昔にイスラエルに出現した葦の海を分けてイスラエルの民を約束の地に導き、トーラーを与えた預言者モーセ、王国の時代、巨大な預言書を記したイザヤやエレミヤ、暴君アハブと対決したエリヤのほうがはるかに偉大な預言者であるように思えるのではないでしょうか。ヨハネは旧約時代の預言者ですが、彼はただの預言者ではなく、最後の預言者であり、しかも、ほかの預言者たちとは決定的にちがう点がありました。

11:9 でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
11:10 この人こそ、
  『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、
  あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』
と書かれているその人です。
11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。

 「女から生まれた者」というのは旧約の聖徒たち、とくにここでは旧約の預言者たちのことを意味しています。その中で、バプテスマのヨハネはある点で決定的に偉大なのは、彼自らがなし遂げた働きや著書ではなく、彼が与かった恵みの偉大さです。つまり、旧約の預言者たちは、約束のメシヤに一目でもいいからお目にかかりたいと切望しつつ、懸命の信仰の戦いをしたけれども、それがかなわないうちに世を去っていきましたが、ヨハネただ一人は、実際に待望されたメシヤにお目にかかり、洗礼までもお授けするという栄誉に与かったのです。その点で、彼は女から生まれたどの旧約の預言者たちよりも偉大でした。


3. 天の御国の民の偉大さ


 さらにびっくりすることがあります。11節後半以下のことばです。

11:11b しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。 11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
11:13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。
11:15 耳のある者は聞きなさい。

 天の御国とは、新約の時代つまり待ち望まれていたメシヤ、キリストが来られてのちの時代の神の民の国、教会のことを意味しています。その一番小さい者というのは、私たちのような新約時代の信徒ひとりひとりのことを意味しています。私たちは、旧約の預言者のなかでもっとも偉大なバプテスマのヨハネよりも、さらに偉大であるというのです。その意味は、いうまでもなく私たちの功績がヨハネよりも偉大だという意味ではありません。そうでなく、受けている恵みの大きさにおいて、私たちは旧約時代の誰よりも偉大であると言っているわけです。
 イエス様は、旧約の聖徒たちを「女から生まれた者」と呼んでいます。ということは、新約の時代、天の御国の時代における私たちは「女から生まれた者」ではないというのです。もちろん、桃から生まれたとか、キャベツから生まれたとか生まれたというわけではありません。天の御国の時代つまり新約時代の聖徒である私たちは、ただただ恵みによって、キリストの子とする御霊によって新しく生まれた者であるということを言わんとされているのです。
 旧約時代の信徒の受けた恵みに対して、新約時代(天の御国)の私たちが受けている恵みが偉大な点は少なくとも3つあります。紀元前6世紀前半、預言者エレミヤは、旧約のシナイ契約と、イエス様が来られてからの新しい契約のちがいをつぎのように述べています。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 第一は、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」とあるように、旧約の聖徒たちは、来たるべきメシヤによる罪のあがないを待望して、牛や羊のいけにえをささげていましたが、罪をきよめられたという確信は得られませんでしたが、新約の信者は神の御子が人となってこられて私たちの罪の贖いとなられた以上、神がイエスを信じる私たちの罪をゆるしてくださったことがどれほど確かであることを知っています。
 第二に、33節に「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」とあるように、旧約の聖徒たちは、聖霊の注ぎを知らず石の板に刻まれた律法を守るようにと外側から規制されていましたが、新約の時代に生かされている私たちは聖霊を注がれて新しく生まれて、石の板に刻まれていた律法の基準が、心に刻まれたので内側から神様のきよい基準にかなった生き方をしたいと望む者とされているということです。
 そして第三は「31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。」と言われていることです。これは旧約時代のモーセの律法の下においては祭司を通してしか人々は神を知ることも、神様を礼拝することもできなかったけれども、新約の時代には信徒ひとりひとりが祭司としてキリストを通して神を礼拝し、神を知ることができるようになったということを示しています。新約の時代にも、「キリストはある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師としてお立てになった」のですが、旧約時代とちがって信徒のみなさんもまた祭司となったのです。牧師は祭司たち群れである教会の指導者としての祭司とでも呼べばいいでしょうか。新約の時代にはみなさんは、自分でイエス様の名によって祈ること、自分で聖書を読むこと、自分で家族や友人にキリストの福音を伝える特権が与えられています。これを信徒皆祭司主義といいます。
 今日は宗教改革記念日です。宗教改革の眼目は三つあって、「聖書のみ」「恩寵のみ(信仰のみ)」と、もうひとつは、「信徒皆司祭」です。中世ローマ教会においては、まるで旧約時代のように神様に正規に礼拝をささげることができるのは司祭のみであって、一般の信徒は司祭を通してのみ神に礼拝をささげることができるとされていました。当時一般信徒は聖書を読むことから遠ざけられていましたし、伝道することも許されていませんでした。
 ルターやツヴィングリやカルヴァンといった宗教改革者は聖書を徹底的に研究した結果、キリストによる贖いが成し遂げられた新約の時代にあっては信徒はみな祭司であることを発見して教会を改革したのです。ペテロは一般の信徒にむかって次のように命じています。

1ペテロ2:5 「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」

 ローマ教会では、さいわい第二バチカン公会議(1962−1965年)以降、信徒の使徒職を認めるという改革がなされるようになりました。



結び
 
最後にイエス様はヨハネとご自分が一生懸命に、神様のみことばを宣べ伝えているのにこの世の人々が心かたくなで悔い改めようとしないことを嘆かれます。市場にすわっている子どもとは、ヨハネとイエスさまです。踊らない、悲しまないのは、ヨハネの悔い改めなさいというメッセージに対しても、イエス様の福音を信じて救われよというメッセージに対しても心かたくなな人々のことです。

11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
11:17 こう言うのです。
  『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
  弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

 ヨハネは旧約の預言者らしく、律法にかなった生活に励むよう努力して自分の罪を悟って悔い改め、キリストを待望せよと教え実践しました。イエス様は、罪人にも神様の愛が注がれていることを明らかになさいました。でも、心かたくなな人々はヨハネのこともイエス様のことも非難の的としたのでした。
 私たちは、素直に心開いて自分の罪を悔い改め、イエス様にあって罪赦されたこと、神の子どもとされたことを確信して、伸び伸びと、また責任を持ってキリストの祭司として礼拝の生活をしてまいりましょう。