苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

平和でなく剣を


10:34地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 10:35わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。 10:36そして家の者が、その人の敵となるであろう。 10:37わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 10:38また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。 10:39自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
10:40あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。 10:41預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。 10:42わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。
(マタイ10章34節から42節)


 主イエスの伝道は、まず、弟子たちをそれぞれに呼び出して、次に、ご自分一人でさまざまな人々に伝道しながらそれをその弟子たちに見せられました。そして、弟子たちが十分にイエス様の手本を学んだら、今度は彼らを二人ずつ組みにして町や村に派遣なさるのでした。主は派遣にあたって、その心得を言って聞かせるのです。山本五十六のことばに、「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。」とありますが、イエス様はそんなふうに弟子たちを育てたのでした。
 今味わっているのは、その十二使徒を派遣するにあたって、イエス様が言って聞かせたことばの最後の部分2点です。第一点は、使徒(伝道者)と家族の情愛の問題、最後に使徒を受け入れることと神の報いです。

1.キリストの福音がもたらすもの

 イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」とおっしゃいました。イエス様を信じる者たちは、争いのあるところに平和をもたらすのだとおっしゃるのです。ところが、今日の箇所では一見すると矛盾することをおっしゃっているように聞こえるでしょう。

10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。 10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。

 弟子たちが町町村村に出かけ、町の中心の広場に立って、あるいは一戸一戸を訪ねて、「悔い改めなさい。ナザレのイエスが来られ、神の国が近づきました。」とのべ伝えてゆけば、ある人々は信じ受入、ある人々はこれを拒むということが起こってきます。家族のなかでも、イエス様を受け入れる者と、のちには受け入れるとしてもすぐにはイエス様を受け入れようとはしないという人が出てくることでしょう。そうすると、家族のなかにはいさかいが起こってきます。主イエスが、「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。」と言われたのはそのことです。
 息子が「ぼくはイエス様の弟子になります。」と言ったら、父親が「なにを言うか。イエスは、ユダヤの伝統をくつがえす危険人物だ。やめておけ。」と反対するということがあるでしょう。嫁が「イエス様は、まことの救い主ですよ。お母さん。」と嫁が言ったら、「とんでもない。ナザレのイエスなんか信じたら、パリサイ派の親類縁者に申し訳が立たない。やめなさい。」と反対も起こるでしょう。今、話を聞いている弟子たちのうちのゼベダイの子、ヤコブヨハネは、イエス様から「わたしについてきなさい。」と言われて舟も父もあとにして立ち上がった時、そういう経験をしたのです。
 こうしたことは、ユダヤ社会だけでなく、どの社会にあってもキリストの福音がのべ伝えられていくときには、しばしば起こることで、私たち自身、多かれ少なかれそういう経験をしています。私の父もキリストを信じ受入れ洗礼を受けたとき、父は先祖の地から離れた神戸にいたものの水草家の長男で一応惣領という立場であったものですから、先祖の地である広島や親戚の多い九州をまわって、親戚に自分は今後キリスト教徒として先祖崇拝には携わらないことを挨拶してまわったのです。子供のころから父のことをかわいがってくれた門司の叔母たちからは、ずいぶんとなじられたようでした。父は、それほど強い信仰者というわけではありませんでしたが、そういうことはきちんとけじめをつけたので、父自身が天に召されたときの葬儀では、親戚ははるばるやってきてくれましたが、なんのトラブルもありませんでした。
 真理がのべ伝えられ、真の神、真の救い主が明らかにされていくならば、これを受け入れる人たちと、これを拒む人々との間に当面はいさかいが生じてくることは避けがたいことです。主イエスは、そのことを指して「わたしは剣をもたらすために来た」とおっしゃいました。伝道者としては、そういう事態に怯んで、永遠のいのちへの福音をのべ伝えることを躊躇してはいけないということで、イエス様はあらかじめお話になっているのです。

2.永遠のいのちがかかっている

 家族の情愛や世間の義理に背いてまで、なぜ福音をのべ伝えるべきなのでしょう。続けてイエス様は、弟子たちがになう福音宣教の任務の事の重大さをお話になります。

10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。 10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。 10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」という主のみことばを安易に利用して、親不孝の口実としてはいけないことは皆さんも先刻ご承知のことだと思います。むしろイエス様を信じたならば、まず、自ら振り返ってこれまでに親孝行が不十分であったとしたら、それを悔い改めておわびすることから始めることです。親が「ああ、この子はなんと親孝行になったことだろう」と思ったうえで、それはイエス様を信じたからなのだ、と気づいていただけるのがよいことです。
エス様にしたがうためだからということを口実にして、自分の欲望、わがままを通すというのはまちがいです。イエス様は、「これは神にささげたから、コルバンになった」という口実をもうけて親孝行をしなくてもよいとしているパリサイ派の人々をお叱りになったことがあったでしょう(マルコ7:10−12)。
 十戒の後半の対人関係の戒めの筆頭に置かれているのは、「あなたの父と母とを敬え」です。けれども、その対人関係における最重要の戒めにもまさって重要なことは、主イエスを愛することです。また、親としてわが子を愛することは、あたりまえのことです。しかし、主イエスを愛する以上に、親や子どもを愛するとしたら、それはまちがいです。イエス様抜きでは本当の親孝行もできません。
 まずは主イエスを愛することです。まずは、自分自身がイエス様を信じて、永遠のいのちを与えられることを最優先にすべきです。当面は、親を悲しませたり、叱られたり、失望させたりもするでしょう。けれども、自分自身がまずイエス様によってしっかりと神様の恵み、永遠の生命に満たされ、親孝行をしてこそ、のちの日に自分が親御さんのために永遠の命を伝える通り管となることができるでしょう。
 この世におけるいのちは限りがあるものです。長野県は長寿県ですが、いくら長生きしても百歳を超えるという人は例外中の例外です。お父さんもお母さんも何年か経てば、この世をさって、この世のいのちをくださった神様の前にでて申し開きをしなければならない日がやってきます。ですから、「お父さんのために、お母さんのためにも、イエス様は十字架にかかってよみがえられたんだよ」とキリストの福音の通り管となりましょう。だからまずは、自分自身、イエス様にしっかりしたがうことです。
 実は、イエス様ご自身も伝道を始めた当初は、お母さんにも兄弟にも理解してもらえませんでした。家族はイエスがおかしくなったと思って、イエス様を連れ戻しに来たということが福音書には記録されています。その時イエス様は、おっしゃいました。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。(中略)見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイ12:48,49) そして、のちの日にお母さんのマリヤも兄弟たちもイエス様を信じる人になりました。

3.神の国の大使

 派遣のことばの最後に、イエス様は弟子たちの使徒(伝道者)という立場と、使徒を受け入れる人々に対する神様の報いについて話します。これは弟子たちにとって、自分の立場をしっかりわきまえることになり、また励ましにもなったことでしょう。
 

「 10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。 10:41 預言者預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。 10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

 ある国から日本に代表として大使が送られているとすると、その大使に対する処遇というのが、日本国のその国に対する態度をあらわすことになります。その大使に対して失礼なこと、侮辱的なことを言ったりしたりすれば、我が国はその国を侮辱したことを意味するのですし、逆に、その国から派遣された大使に十分な敬意をはらって処遇するならば、我が国はその国に対して敬意を払うことになります。
 主イエスの弟子たちは主イエスが派遣した使節、大使です。使徒パウロもそういう自覚をもって2コリント人への手紙において語っています。

 「 5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。 5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。  6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(2コリント5:20−6:1)

 町々村々に派遣された弟子たちが、福音を語り、それを受け入れた人々は、神から報いを受けます。主イエスのご命令で弟子はお金も持たず、袋も、下着の着替えも、くつも、杖も持たずに出かけなければなりませんでした(10節)が、必要な衣食住については、神様が選びの民を用いて用意していてくださるとイエス様は保証されたわけです。君たちが霊的な祝福を伝えれば、神様はそれを受け取った神の選びの民をもちいて、君たちの物質的必要を満たしてくださる、心配するなとおっしゃって派遣なさるのです。

むすび
 イエス様に召され、派遣された弟子たちによって、永遠のいのちの福音が町々村々に伝えられていきました。やがて、この福音はあらゆる国の人々にまであかしされて行きました。私たちの国にも、主によって召され派遣された宣教師たちが、キリストの福音をもたらしてくださり、今日私たちも永遠のいのちをいただくことが許されました。
 今度は、私たち自身が神の国の大使として、この世界に永遠のいのちのメッセージを伝えるために派遣されています。周囲の方たちの、「主イエスを信じなさい。そうすれば、救われます。」とあかしをしてまいりましょう。