苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

告白的信仰

10:26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。 10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ福音書10章26-33節)

 弟子たちが町々にイエスの福音を証して行けば、迫害されることはわかっていた。イエスを信じても黙っているならば、当局にとってさしたる問題ではなかったが、伝道をするとなると大問題だったからである。しかし、主イエスは福音を大胆に告白し宣べ伝えよとお命じになる。キリスト者は、死の闇に閉ざされた海の灯台である。福音の光を掲げつづけていかねばならない。「本音と建前の信仰」は人の前では通用しても、神の前では通用しない。神の前で通用する信仰とは、心に信じることを口で公に言い表す信仰、すなわち告白的信仰のみである。

 迫害に対する恐怖を乗り越える秘訣は、天の父を知ることである。主イエスは弟子たちに二点教えた。
 第一。迫害者にできることは、最大限弟子たちのからだを殺すことにすぎない。彼らがキリストの弟子のからだを殺すならば(いや殺されなくてもいずれは・・・)、弟子たちのたましいは天の御国に凱旋し、そこには主が義の栄冠を用意して待っていてくださる。天の父は、背く者のからだを殺して、たましいも燃えるゲヘナで滅ぼすことのできるお方である。
 第二。天の父は、一羽のスズメ、髪の毛一本落ちることさえも、ご摂理の御手の下に置いていらっしゃる。まして天の父は格別の愛をもって私たちに配慮していてくださる。弟子たちに襲い掛かるどんな迫害も試練も偶然ではなく、天の父の許しあってのことであり、福音の前進のためのものである。かりに主の弟子にいのちをささげるべき時が来たならば、それもまた天の御国に凱旋し義の栄冠をたまわるためである。
 どんな時でも誰にでも問われるならば、「はい。私はイエス・キリストが私の罪のために死んでよみがえられた救い主であると信じています。」と告白するものでありたい。