苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

使徒の心得

使徒10章5-15節


 主イエスは十二人弟子をお選びになって、使徒としての任務を与えていよいよ派遣なさいます。派遣にあたって、イエス様は彼らに使徒としての心得を話されます。


1.宣教の順番

 まず、5,6節は宣教の順番についてです。

10:5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。10:6 イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

 ここだけ読むと、イエス様はイスラエルにだけ「神の国が来た、救い主がやってきた」と伝えなさいとおっしゃっているように誤解するでしょう。しかし、福音書全体、新約聖書全体を読めば、決してそうではなく、<まずはイスラエルに、次に異邦人に>というのが主の宣教の順序の御計画を教えておられるのです。
 神様が救い主メシヤを送ってくださるという約束は、紀元前2000年の人物アブラハムの子孫であるイスラエルのなかではずっと大事にされてきました。彼らはメシヤをずっと待ち続けていました。ですから、まずはこのメシヤ、キリストが来られたという報せはイスラエルに届けられることになっていたのです。
 実際に、イエス様がこの世界にいらっしゃったとき、イエス様は、イスラエル中に福音は伝えました。そして、イエス様が天に帰られた後、聖霊が初代キリスト教会の注がれてから、世界宣教がスタートします。その宣教の順序は、「ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで」とあります。まず、ユダヤ人に、そして異邦人にという順番です。
 使徒たちは、西は地中海世界へ、東はペルシャ、インド、さらに中国にまで出かけて行きますが、使徒の働きを読むと、伝道者たちは、安息には会堂でイスラエル人に伝道をし、ウィークデーは広場や通りで異邦人たちに伝道をしていることがわかります。やはり、主イエスがおっしゃったとおり、まずはイスラエルの民にキリストが来られたことを宣伝し、それから異邦人へと宣教が展開されていったのです。
 やがて異邦人教会のほうが数が多くなって行き、イスラエル人は紀元70年には祖国を失ってしまい、イスラエル人の教会も衰亡して行きました。私たち異邦人である日本人にも、このようにしてキリストの福音は伝えられてきたのです。
 とはいえ、イスラエルの民が神様に見捨てられてしまったわけではありません。異邦人に対してキリストの福音が十分に伝えられたとき、最後に、もう一度、福音はイスラエルのもとに帰ってくる日が来ることがローマ書11章などには記されています。主イエスが再び来られる最後の審判の日が近づいたときのことです。事実、今、イスラエル人のなかに、イエスを待望されたメシヤと信じる人々がふえつつあることが報告されています。

 11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、 11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。

 
 ユダヤ人たちが集団的にイエス様はキリストであると改宗する日が来たならば、最後の審判の日は近いのです。


2.使命の内容

10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
10:8 病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。


 では、使徒たちに与えられたなすべき使命missionとはなんだったでしょうか。それは先日来繰り返されるように、伝道と社会的奉仕のふたつでした。7節には伝道、8節には当時の社会のなかで庶民にとってもっとも大切な病の癒しということが社会奉仕として命じられています。
 このことについては、先週もある程度お話しましたので、重複しないことをお話します。実は、20世紀のキリスト教会ではイエス様の十字架の福音について伝道は熱心にするけれども、社会的な奉仕のことは教会の務めではないという教会と、反対に、社会的な奉仕はするけれどもイエス様の十字架の福音のことについて伝えることを軽んじる教会とに分かれてしまいました。伝道派と社会派といいます。
 なんで、そんなことになってしまったのでしょうか。19世紀までの教会では、そんな分裂はなく、伝道と社会的奉仕の両方を行なってきました。先日お話したようにジョン・ウェスレーの伝道には社会奉仕が伴っていました。ところが、19世紀に共産主義が出現し、20世紀になるとソ連という無神論に立つ国が出現し、次々に周囲の国々が共産主義革命を起こしました。これらの国々では公式には唯物論教育がなされてきました。そうして、従来、キリスト教会が行なってきた社会改良は修正主義であって、かえって、資本家に対する労働者社会の革命の情熱が起こることを妨げているとしました。共産主義こそ科学的で有効な社会改革を成し遂げうるのだと、相当多くの人々が信じた時代がりました。
 そんなわけで、聖書を神のことばと素朴に信じるキリスト教会は、社会改革などに足を突っ込んでいると、ミイラ取りがミイラになるのではないかという警戒感をつよくして、伝道一本という方向に行きました。
 他方、自由主義の教会はもともとイエス様を革命家とか道徳の先生と見ていましたから、ますます社会奉仕のほうに専念していったわけです。それで社会派と呼ばれることになってしまいました。
 ですが、聖書は、教会に与えられたミッションは、伝道と社会奉仕であると教えていて、キリスト教会の長い歴史の中で、実際に、教会はそのふたつを担ってきました。

3.使徒たちの生活

 では、イエス様が派遣する十二人の使徒たちは、どのような準備をして町々村々に出かけて行くのでしょうか。準備万端・用意周到にしていくのかというと、あえて、全然そうした準備をするなとイエス様はお命じになります。

10:9 胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
10:10 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。
10:11 どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
10:13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
10:14 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
10:15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。

 まるで、「裸の大将」のお母さんの教えみたいですね。
 これは当時のイスラエルという国の宗教的・文化的な背景があってのことであったと思われます。当時、イスラエルでは神のことばを伝える務めを担うラビは、敬虔な民の尊敬を集めていました。ラビは神のことばを伝えて、町々村々を巡回しました。それで、神を畏れる敬虔な人々はラビがやってきたならば、ラビのために宿と衣類や靴などを提供することが、祝福ある宗教的な務めとされていたのでしょう。それは、旧約時代にエリシャという預言者を敬虔な人々が迎えて、神の祝福にあずかったという故事に基づいたことだったと思われます。
 ですから、イエス様の派遣した弟子たちを、神が派遣したしもべとして受け入れる人々は、弟子たちから神のことばを受け入れ、神の祝福をいただくことに対して、弟子たちの生活のために、宿と必要な食べ物や着物を提供するのでした。霊的な祝福を受けたものとして、物質的な祝福をイエス様の使徒たちに報いるということでした。しかし、イエス様を受け入れない家は、弟子たちを拒否したわけです。それは、イエス様を拒否するに等しいことでした。派遣された弟子たちは、試金石のような役割を果たしました。

 こうしたイスラエル社会の宗教的背景がない異邦人の国々に使徒たちが出かけるようになってからは、パウロのような異邦人社会への宣教師は、他の地域の教会からのサポートを得て伝道をしたり、自分で生活の糧を得て伝道しました。ピリピの教会はパウロの伝道を祈りとささげものをもってサポートし、また、パウロはテント作りをしながら開拓伝道しました。
 さらにパウロはこのようにして開拓伝道をして、誕生した群れが成長して行くならば、伝道者を教会が支えることを命じました(1テモテ5:17,18)。そうして、やがてその教会は与えられる教会から、他を与える教会となり、支えられる教会が他の地域の伝道を支える教会へと成長して行きました。「受けるより与えるほうが幸いである」とあるとおりです。小海キリスト教会も、20年間そんなふうにして少しずつ成長してきて、微力ながら塩尻開拓伝道や海外宣教を支えることを許されているのは、神様の恵みです。20年前を考えると夢のようです。

 とはいえ、主イエスが十二人の弟子にお命じになったことは、異教世界への伝道であったとしても、根本的にたいせつな伝道者スピリットです。主が伝道者を派遣してくださるのですから、お金も、家も、着物も、食べ物も、すべての完全に準備が整ってなんの心配もなくなってからでないと前には進みませんというようなことでは、福音の宣教はけっして進みません。神の国とその義とをまず第一に選び取れば、それに加えて神様がすべての必要を満たしてくださると信じて、福音のために大胆に自分をささげることが大切です。天の父に信頼する者を、天の父はちゃんと生かしてくださいます。

結び
 以上、使徒の心得を学んできました。
 宣教は、キリストの十字架のことばによってなされることばによる伝道と、キリストの愛の実践にならう社会奉仕による伝道の両輪があってどちらもたいせつです。
 いまや、世界のあらゆる民族国語に福音は証しされている時代です。最後にユダヤ人がイエス様をキリストと信じるならば、いよいよ再臨。時は縮まっています。
 収穫のために働き人を送ってくださるように、祈りましょう。