苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神としての権威で

            マタイ9章1節から8節


1.イエス様の目

「9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。」

 ガリラヤ湖の向こう岸ガダラ地方に出かけたイエス様とその一行でしたが、イエス様を迎えたら大損することになるのではないかと思ったガダラ人たちは、イエス様を追い出しました。やむなくイエス様はこちらガリラヤ地方のカペナウムに戻ってこられました。
 この日、イエス様は並行記事からすると恐らくシモンの家にいらしたようです。そうして、神の国のことばを話していらっしゃいました。イエス様が戻ってきたというので、人々は立錐の余地もなく詰め込まれていました。窓からイエスの話を聞いている人たちもいました。
 ところで、この町に、最近脳出血で倒れて以来、起き上がることもしゃべることもできなくなっていた中年男がいました。その友人たちは、なんとかして治してやりたいと切望していました。そこに、イエス様が戻ってこられたという報せが届きましたので、彼らは友だちをこのペテロの家とおぼしきところに連れてきたのです。
ところが、マタイは省略してしまっているのですが、マルコ伝とルカ伝の並行記事によれば、連れてきますと、玄関まで人は一杯で、入れなかった人々は窓から中をのぞき見ているのです。そこで、屋上に上がり屋根に穴を開けて下ろそうということになりました。当時、イスラエルの家はレンガで出来ていて屋上は木の板を渡して泥をローラーで固めたかんたんなものでしたから、その気になれば簡単に穴を開けることもできたようです。そして、建物のわきには屋上に上るための階段がたいてい付いているものでした。
 もちろん、いくら簡単だからといって、常識的にいえば他人の家の屋根に穴を開けてよいわけはありません。まして、この時、家の中は立錐の余地なく人々が集合してムンムンと人いきれがしており、イエス様のお話にじっと耳を聞いているので。なにやら天井の上からゴリゴリ音がし始めると、穴が開き、わらや土が落ちてくる、そして、穴が相当大きくなると、男が床に寝かせたままでイエス様の目の前につり下ろされてきたのです。えらい迷惑な話です。でも、イエス様は彼らのことをどうご覧になったでしょうか。

 

9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。


 イエス様の目は「彼らの信仰を見た」とあります。イエス様は、この男たちの非常識な行動に彼らの信仰を見てくださったのです。イエス様は、彼らが自分の友人が中風の病に倒れてしまってから、どれほど友のことで心を痛めたかを御存知でした。中風というのは、中年以上の血圧の高い人が脳出血で倒れた後にのこるさまざまな障害のことです。半身不随になったり、全身不随になったり、言語障害になったりします。彼らはなんとかして、この病気を治してやれないものかと思っていたら、最近ナザレからやってきたイエスというお方は、どんな病をたちどころに癒すことがお出来になる。その力は明らかに神から出た力であるということを見聞きするようになりました。そこで、自分で歩いていくことも、おぶっていってやることも難しいので、床ごとイエス様のところに連れてきたのです。連れてきたのですが、玄関からも裏口からも入ることができないほどに人が家に入っていたので、彼らはやむなく屋根に穴を開けて天井からつり下ろしたのです。
たしかに行動は乱暴で非常識でしたが、それは、彼らの友に対する愛と、イエス様ならきっと癒してくださるという生きている信仰の現われでした。彼らの信仰は、ことばだけでなく、愛をもって働く信仰でした。 そして、イエス様は、彼らのその愛をもって働く信仰を喜ばれたのです。

ひとつ気になることは、イエス様が「彼の信仰」を見て、罪の赦しを宣言したのではなく、「彼らの信仰」を見てと書いてあるところです。聖書全体から見て、本人が信じていないけれど、他の人が代理で信じて人が罪ゆるされることはありえませんから、「彼ら」の中には中風の人本人も含まれていたと見るべきでしょう。けれども、あえてここには「彼らの信仰を見て」と書かれているのは、彼ら友人たちの愛によって働いた信仰が、この中風の男をイエス様の前に連れてきたからでしょう。私たちが自分の愛する者を、イエス様の前に連れてくる、そういう愛によって働く信仰を主イエスは喜び、その愛する人を救ってくださいます。


2.病と罪の意識、そして、罪の赦しの宣言

 
 中風の男がつり下ろされたのを見て、人々はがやがやと騒いでいましたが、イエス様の目の前に男の床が横たえられると、固唾を呑んで見守りました。そこに集まった人たちはみな、目の前で、奇跡の癒しが行われることを期待していたのです。彼らはイエス様の話される神の国のたとえの話にも興味はありましたが、その何倍もの興味をイエス様の行う奇跡に対して注いでいましたから。
 ところが、イエス様は彼らに肩透かしを食らわせました。イエス様は、「中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された』と言われた。」のです。たいていの人たちは「えっ、何それ?」とみんな思ったでしょうね。「なんだ、がっかり」と思った人たちも多かったでしょう。せっかく今まで見たこともない、癒しの大奇跡を見られると思ったのに・・・と。大半の人たち、民衆はそんなふうに思ったのだろうと思います。
 この中風の男自身はどうだったのでしょうか? 恐らくは、彼は罪の意識にさいなまれていたのではないかなと私は思います。そうでなければ、イエス様は、まず罪の赦しを宣告なさることはないでしょうから。他の癒しの出来事で、罪の赦しを宣言してから、癒すという箇所はありません。
 30歳のとき、渉が家内のおなかにいてあと二ヶ月ほど生まれようとしていたとき、私は下血して緊急入院をしたことがあります。クリスマス頃からめまいがしたりして、どうも変なので、お正月が終って病院で検査を受けまして、これは十二指腸潰瘍ですと診断されました。そのあと、採血するために座っておりましたら、目の前が真っ暗になって倒れてしまいました。緊急入院となり、外科の先生はこれはおなかの中で相当出血しているから、切ってすぐにそこを縫合しなければ危ないと張り切っていました。赤血球の値が正常値の半分くらいしかないということです。家内は教団に電話して、日本中の同労者の牧師たちが祈ってくれました。ただちに出血部位を発見するために、胃カメラを突っ込みまして、胃の中、十二指腸を見ました。ところが、わたしも見せてもらったのですが、十二指腸に潰瘍のなおった痕跡は見つかりましたが、すでに癒され出血はしていませんでした。
 そのうち血圧は安定し、どうも出血は止まったようだということで、大腸検査は翌日になり、一週間入院したのです。私にとって、生まれて初めての入院であり、その後も一度も経験していません。病院のベッドで点滴の管につながれて仰向けになりながら、私はなにを考えていたでしょう。・・・それは、自分の罪ということでした。聖書に生まれつきの盲人がいたとき、弟子たちが「この人が生まれつき盲人なのは、親の罪の性ですか、本人の罪のせいですか」と質問したのに対して、イエス様は「親のせいでも、本人のせいでもない。ただ、神のみわざがなされるためだ。」とお答えになったということは勿論わかっていました。わかっていましたが、自分が急に病に打ち倒された時、神様の前での自分の罪ということを意識させられたのです。伝道者になって教会に赴任して三年目が経とうとしていました。献身して神学校に学び、燃え上がって卒業して、一生懸命にみことばを説教して来ましたけれども、多くのことで信徒の皆さんを傷つけたこともありました。あれも罪、これも罪、自分の働きはぜんぶ罪だったのかなあと思いました。
 トゥルニエというクリスチャンの医者がこんなことを言っています。「病は死の前兆である。患者が『先生、どんな具合でしょうか。』と質問する時、医師は注意深くあらねばならない。患者はそれを『この病は死にいたる病でしょうか。』と質問しているからである。」と。病は死を意識させ、死を意識する時、私たちは神様の前に出ることを意識し、罪を意識せざるをえない、ということではないでしょうか。
そんな小さな経験からなのですが、働き盛りにドーンと奈落の底に突き落とされた、この50がらみの中風の男もきっと自分の罪を意識しないではいられなかったのだろうなと思います。だからこそ、イエス様は真っ先に「子よ。あなたの罪は赦された。」と宣言されたのでしょう。



3.キリストの神としての権威


 さて、イエス様が罪の赦しを宣言なさって、当人は、声は出ませんが、彼の両方の目からつーっと涙が流れて耳に入りました・・・(と見てきたようにいう)。けれども、そこで暗い顔をした何人かの律法学者が席をあてがわれて座っていました。
 律法学者たちは、イエス様が罪の赦しを宣言なさったことは、神を冒涜する罪であると心の中でつぶやいたのです。なぜならば、このようなかたちで罪の赦しを宣言できるのは、神様だけだからです。少し説明しましょう。
AさんがBさんに対して何か罪を犯したとします。そういう場合、BさんがAさんに「あなたの罪はゆるしてあげよう」ということなら、普通の人間にできることです。けれども、もしそこの第三者のCさんが登場して、いきなりAさんに向かって「Aさん、あなたがBさんに犯した罪は赦してあげよう」と言ったら、これは奇妙なことです。そんな罪の宣言ができるのは、神様だけだからです。罪はすべて、神の律法を破ることですから、AさんがBさんに犯した罪もまた神様に対する罪です。だから、神様だけがAさんの罪を赦すことができるわけです。
 ところで、この中風の人は何か人間としてのイエス様に罪を犯したというわけではありません。たぶん初対面でしょう。それなのにイエス様は、この中風の男に罪の赦しを宣言なさいました。それは、人間のくせに自分を神の権威を持つものとしていることだ、これは冒涜だと律法学者たちは判断したのです。最終的にイエス様がユダヤのサンヒドリンで有罪とされた、その罪状は自分を神と等しくしたというその一点でした。イエス様は、宣教の当初から一貫して、御自分を神と等しくされてきたのです。
 また、4節では「イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。」とおっしゃって、ご自分が神として、人の心の中のつぶやきをも聞き取ることのできる全知全能のお方であるということを示していらっしゃるのですが、律法学者たちはそれを悟ることができません。
 黒崎幸吉は厳しい自戒を込めて注釈しています。「いずれの世においても最も多くのことを知っていながら、もっとも大切なことを知らないのが学者である。この場合でも、学者は律法と預言者に精通していながら、イエスの神の子に在し給うことを知らなかった。」


 そこで、イエス様はこのかたくなな律法学者たちに対して、ご自分が神としての権威をもっていらっしゃることを明らかに示すために、一つの奇跡を行われます。

9:5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。

 この「どちらがやさしいか」ということばは、「どちらが簡単か」という意味です。言うまでもなく、「起きて歩け」と言って歩かせるほうが簡単です。病気をいやす奇跡を行うことのほうが罪の赦しを宣言するよりもずっと簡単です。旧約の預言者たちもときどきそういう奇跡は行いました。もし癒しの奇跡が難度10ならば、罪の赦しの宣言は難度1万です。ですから、いくら癒しを行うことができても、罪の赦しの宣言が有効であることの証拠にはなりません。しかし、当時のユダヤ人たちは、目に見えるしるしを求め、しるしを行うならば、その人は本物だと認めたそうです。ですから、彼らの考え方にあわせて、イエス様は癒しの奇跡を行われます。

9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
9:7 すると、彼は起きて家に帰った。
9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。

結び
 今日、みことばから学んだこと。第一は、男たちの、生きた信仰、愛をもって実践する生きた信仰です。口先のことばだけでなく、愛を実践するそういう生きた信仰をもって歩んでゆきたい。
 第二点。主イエスは、罪を赦す神としての権威をお持ちなのです。イエス様は、御自分で私たちの罪をゆるすためのあがないのわざを成し遂げられて、そして、私たちを赦すとおっしゃっるのです。
 病気を治してもらえる、それは確かにすばらしいことです。けれども、神の前に罪を赦していただけるという恵みの偉大さには、はるかに及びません。病ゆえにゲヘナに落ちることはありませんが、罪ゆえに人は永遠の亡びに陥るのです。 神のみ子イエスは私たちを、この永遠の亡びからすくうために、この世界に来てくださったのです。このお方のもとに、私たちも愛する人を運んでくる信仰を育てていただきましょう。