苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書の二性と聖書解釈

 きのうアップした「啓示観と聖書解釈」の件、昨日の晩、考えたことをここにメモしておきます。論文を書く暇はないので、これで一応自分ではよしとしておきます。「聖書の神言性と人言性」という、神学生時代に恩師から教わったことばをもちいて整理してみました。


1.(誰が言い始めた類比か知らないが)聖書とキリストは類比的にとらえられる。キリストが永遠の神であられ、かつ、時のなかで人となられたように、聖書は神のことばであり、かつ、人のことばである。キリストに神性と人性の二性があるように、聖書には、神言性と人言性の両方がある。
 したがって、私たちは聖書を解釈するときに、常に、その神言性と人言性の両方があることをわきまえている必要がある。


2.聖書の人言性ということは、聖書各巻の人間である記者が、当時の言語と文学様式を用い、証言・資料を整理・編集し、ある読者の群れを想定し、その他諸事情の下に、その書を記したということを意味している。聖書は人のことばであるということを意識するならば、解釈者の目指すところは、その執筆者の意図である。そこに、「パウロ神学」「マルコ神学」といった表現も現われて来る。


3.他方、聖書の神言性ということは、旧新約聖書は66巻から成っていて、40人ほどの記者がいるが、彼らをもちいてこれを記させたのは、唯一の著者である神の御霊であるということを意味している。したがって、神言性という観点からいえば、聖書の多様性よりも有機的な一体性が強調される。
 
4.また、聖書の神言性こそが、聖書のある箇所で不明瞭なことばの意味は、他のもっと明瞭な箇所に照らすことによって明確に解釈されるという「聖書による聖書解釈」の正当性の根拠である。(逆に言えば、聖書の人言性しか認めない解釈者にとっては、聖書のある箇所を執筆者が異なり、時代もへだたった他の箇所によって解釈するのはナンセンスである。)
 また、神のことばとしての聖書の有機的一体性が、聖書に啓示された諸真理を論理的体系に整理した「組織神学」、諸真理を歴史的順序に整理した「聖書神学」成立の根拠である。言い換えれば、組織神学・聖書神学を軽んじるということは、聖書を神のことばと信じていないことの現われだと考えられる。


5.聖書の人言性を偏重する立場は、無神論か理神論の立場である。無神論者が聖書に真の意味で関心を寄せることはまれであろうから、問題となるのは理神論である。ここでいわんとする理神論とは、神は存在するが、世界の歴史はそれ自身の法則をもって営まれているのであって、そこに神が介入し、奇跡を起こしたり、啓示をなすことはありえないという信念である。カントふうに表現すれば、神は英知界に幽閉されていて、悟性と感性の世界には出てこられないのである。聖書に人言性のみを認める聖書学の場では、暗黙のうちに理神論的な世界観が前提とされているから、聖書本文に見られる「不思議な現象」はすべて合理主義的に説明しなおせば「正解」とされる傾向がある。


6.他方、聖書の神言性を偏重する立場では、聖書各書の記者やさまざまな執筆事情などを勘案することは、それほど重要なこととはされない。聖書の機械的霊感説である。聖書の神言性に徹する聖書解釈において何よりも重要なことは、これを啓示された聖霊の光を受けることであるということになる。各書の執筆事情や執筆者の意図に対する関心は薄く、そこで目指されるのは、神の意図を知ることである。


7.「聖書の十全霊感を信じる」という立場の意味は、「聖書は神のことばであり、かつ、人のことばであると信じる」という意味である。聖書は人のことばであるから、各巻の執筆者が想定した読者・使用した言語・採用した資料と文学様式・もろもろの執筆事情などを勘案しながら、執筆者の意図を求める必要があり、パウロ神学、マルコ神学といったことも可能である。
 だが、同時に、聖書は神のことばであるという意味は、ひとつは上記したような執筆の諸条件は神の摂理によることであるという意味であり、二つには、神は必要に応じて通常の摂理を超えて啓示をなさる場合もあるということを意味している。聖書は神のことばであると信じるから、私たちは祈りつつ聖書の著者である聖霊の導きを求め、旧新約聖書全体66巻という大文脈をわきまえつつ、聖書によって聖書を解釈する。聖書の十全霊感を信じる者の聖書の解釈は、各巻執筆者の意図に到達することを当面の目標とし、究極的には神の意図に達することを目的とする。


まとめ
 要するに、聖書が神のことばであることを忘れたら、聖書の全体性を見失い、神が聖書を啓示するにあたって人間をお用いになったことを忘れたら、各巻の特徴を見失うということです。木を見てこそ森は見え、森を見てこそ木は見えるものです。