苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

『昭和天皇独白録  寺崎英成・御用掛日記』

 1991年に文芸春秋社から出版された本書の名はずっと気になりながら、これまで読まないで来てしまった。ネットの古本で調べたら、本の状態が「可」のものが100円+送料で手にはいった。
 「独白録」は敗戦の翌年昭和21年3月から4月にかけて、五人の側近に、昭和天皇張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を四日間計五回にわたって、じきじきに語ったことを、書き留めたものである。書き留めたのは、御用掛の寺崎英成。寺崎は明治33年(1900年)東京生まれ、駐米大使として1941年(昭和16年)から1942年(17年)末の日米開戦までワシントンにいて対米戦回避のために粉骨砕身するも真珠湾攻撃で失敗に終わり、翌年日本に送還された。戦時下、寺崎は「親米派」のレッテルを貼られて不遇のうちにすごしたが、戦後、1946年(昭和21年)2月昭和天皇の御用掛(マッカーサー昭和天皇をつなぐ通訳者)として働くことになった。
 寺崎は昭和26年(1951年)8月21日、50歳で他界したが、その遺品のなかにこの記録が発見された。しかし米国人の妻が日本語が読めずそのままにされていたが、1989年息子コールが父の日記のみだと思いこんでいて、これを日本現代史研究の学者に見てもらったところ、日記のみならず天皇の独白録が添えられていることがわかり、「歴史資料として稀有のものである」と認められて、日本では最初に文芸春秋に掲載された。
 本書は前半に「独白録」後半に寺崎の関連日記が収められている。「独白録」には適切な注があり、ここには他の関連資料が適宜引用されていて、これもすこぶる有益。

 まず印象深かったことのひとつは、昭和天皇があの亡羊とした風貌に似合わず聡明な人物であったということである。寺崎によれば、昭和天皇が五人の側近に語り聞かせたとき、天皇は手に資料をなにも持たずに記憶のみで語ったという。ところどころ、思い違いがあって、それは本文中括弧付きで指摘されているけれども。
 興味深いもうひとつのことは、天皇の臣下たちにたいする率直な人物評である。近衛の優柔不断、東条の生真面目さ、松岡に対する不信、平沼の二股、米内と鈴木貫太郎に対する絶大な信頼感、そしてこれは臣下ではないがダグラス・マッカーサーに対する敬意と親交など。
 しかし、そうした興味は横において、歴史として非常に重要なことがいくつも記されているので、ここにいくつか抜粋しておく。「私」という一人称は、天皇自身のことである。


天皇機関説・現神(あきつかみ)

 斎藤内閣当時、天皇機関説が世間の問題となった。私は国家を人体に譬へ、天皇は脳髄であり、機関と云ふ代りに器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差支ないではないかと本庄武官長に話して真崎に伝へさした事がある。真崎はそれで判つたと云つたそうである。
 又現神の問題であるが、本庄だったか、宇佐美だったか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云つた事がある。 (pp30,31  昭和十年)


国際情勢に見通しが立たなかった会議の仕組み

 日本が南仏印に進駐すれば、米国は資産を凍結するといふ事は河田大蔵大臣には判つてゐたが当時蔵相は連絡会議に加つてゐなかつた為、意見が云へなかった、それに近衛は財政の事は暗いし結局私は軍部の意見しか聞く事が出来なかつた、今から考へるとこの仕組みは欠陥があつた。(p59 昭和十六年)


日米開戦を前に

 9月6日の御前会議(昭和16年
 確か八月の初旬かその少し前か永野軍令部早朝が戦争の計画書を持参した。米国の十月の軍備状態を予想して之に対する攻撃の計画である。(中略)之を見ると意外にも第一に戦争の決意、第二に対米交渉の継続、第三に十月上旬頃に至るも交渉のまとまらざる場合は開戦を決意すとなってゐる。之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く暗に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云つて承知しなかった。
 私は軍が斯様に出師準備を進めてゐるとは思つて居なかった。(後略)
 翌日の会議の席上で、原枢密院議長の質問に対し及川が第一と第二とは軽重の順序を表はしてゐるのではないと説明したが、之は詭弁だ、と思ふ。然し近衛も、いつかの晩は一晩考へたらしく翌朝会議の前、木戸の処にやつて来て、私の会議の席上、一同に平和で事を進める様諭して貰ひたいとの事であつた。それで私はあらかじめ明治天皇の四方の海の御製と懐中にして、会議に臨み、席上之を読んだ。

 ちなみに、このとき読まれた明治天皇の御製とは
      「四方の海みなはらからと思ふ世に なぞ波風の立ちさわぐらむ」
 だが近衛は原案の廃棄も改訂もしなかった。原案通り、日本は対米英戦争を準備し、開戦へと向かって行く。


開戦の決定

若しあの時、私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云ふので、国内の与論は沸騰し、クーデタが起つたであらう。(p71)

ポツダム宣言受諾について  8月9日最高戦争指導会議

海軍省は外務省と解釈を同うするが、陸軍省参謀本部及軍令部は、外務省と意見を異にした。
(中略)
会議は翌十日の午前二時過迄続いたが、議論は一致に至らない。鈴木は決心して、会議の席上私に対して、両論何れかに決して頂き度いと希望した。
(中略)
 そこで私は戦争の継続は不可と思ふ、参謀総長から聞いたことだが、犬吠岬と九十九里海岸との防備は未だ出来ていないと云ふ、また陸軍大臣の話に依ると、関東地方の決戦師団には九月に入らぬと、武装が完備する様に物が行き渡らぬと云ふ、かかる状況でどうして帝都が守れるか、そうして戦争が出来るか、私には了解が出来ない。私は外務大臣の案に賛成する(ポツダム宣言受諾)と云つた。

 当時私の決心は第一に、このままでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子(せきし)を保護することが出来ない。
 第二には国体護持の事で木戸も同意見であつたが、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない。これでは国体護持は難しい。故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一新は犠牲にしても講和をせねばならぬと思つた。(pp125−126)

 開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於ける立憲君主としてやむを得ぬことである。若し己が好むところは裁可し、好まざるところは裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。
 終戦の際は、しかしながら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信んずる所に依て、事を裁いたのである。(後略)(p136)


戦後の沖縄占領政策について

9月22日つけマーシャル国務長官あての寺崎からの手紙
天皇は、アメリカが沖縄をふくむ琉球列島を軍事占領しつづけることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし、日本を守ることになる」「この方式は、アメリカが琉球列島に恒久的な占領意図をもたないことで、日本国民を納得させることができよう。」(p332)


 1989年1月7日、昭和天皇は、ついに沖縄訪問はしないままに逝去した。いや訪問できるわけがなかった。天皇のなかには、「赤子(せきし)を護る」という任務と「国体を護持する」という任務というふたつの任務の自覚があった。しかも、結局、国体護持と本土の赤子ために、沖縄に住む赤子たちを米国に渡してしまったのだから。
 実は、「22年9月、芦田均外相は特別協定を結んで、日本の安全保障をアメリカに依存するかわりに、米軍へ日本本土のどこかに基地を提供し、日本も警察を増強するという案を、一時帰国する第8軍司令官アイケルバーガー中将に託した」(p332)のだそうである。結果的には、天皇の案が米国に採用されたということである。