苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ダビデ  神と人とに愛された王


   (徒歩30秒の花園で)



 息子アブシャロムがヘブロンで王となり、民心が彼になびいているという報せを受けたとき、ダビデはあっさりとエルサレムから逃げ出した。

「立て、われわれは逃げよう。そうしなければアブサロムの前からのがれることはできなくなるであろう。急いで行くがよい。さもないと、彼らが急ぎ追いついて、われわれに害をこうむらせ、つるぎをもって町を撃つであろう」。(サムエル記下15:14)

 篭城すれば相当戦えたであろうと思われるのに、意外である。ダビデは息子を自分の剣で撃つことを望まなかったからであろう。とはいえ、部下たちからも篭城を主張する意見はでなかったことを見れば、客観的にも、アブシャロムが相当優勢だと思われたのだろうか。アブシャロムの能力を王も部下たちも買っていたのはたしかである。
 苦境に陥ったときのダビデの態度がすばらしい。彼のもとにたまたまいた外国人イタイを同じ苦しみにあわせることは忍びないと考えて、ダビデは次のように言う。

「どうしてあなたもまた、われわれと共に行くのですか。あなたは帰って王と共にいなさい。あなたは外国人で、また自分の国から追放された者だからです。あなたは、きのう来たばかりです。わたしは自分の行く所を知らずに行くのに、どうしてきょう、あなたを、われわれと共にさまよわせてよいでしょう。あなたは帰りなさい。あなたの兄弟たちも連れて帰りなさい。どうぞ主が恵みと真実をあなたに示してくださるように」。(15:19,20)

 しかし、イタイは「私はどこまでも王と一緒にイタイ」と言った。武人であるとともに詩人であったダビデは感情家でそのために失敗もしたのだが、豊かな感情はダビデの美点でもあって、人はダビデのやさしさに惚れこんだ。

 そして、ダビデの素晴らしさは、やはり主を真の意味で畏れ愛していたことである。王城から逃れようとするとき、神の箱を担ぎ出してきた祭司に言った。

「神の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。しかしもし主が、『わたしはおまえを喜ばない』とそう言われるのであれば、どうぞ主が良しと思われることをわたしにしてくださるように。わたしはここにおります」。(15:25,26)

 かつてヨシュアイスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、神の箱が川底に留まっているあいだ、ヨルダン川の水が堰をなして止まった。戦に出る時、神の箱がともにあるならば、兵士たちはどれほど勇猛果敢となることができただろう。だが、ダビデは神を自分のために利用したくはなかった。
 このたびの出来事は、バテシェバ事件に対する神からの懲らしめだとダビデは悟っていたのだろう。「もし主が私を怒り懲らしめたまうならば、思う存分に私を打ち据えてください。」とダビデは主の前にこうべをたれていた。こういうダビデを主は愛された。

【主】はいつくしみ深い。
 主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
【主】の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、
ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。
もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、
十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、
主は、その豊かな恵みによって、
あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、
思っておられない。        (哀歌3:25-33)