苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

すべてはあなたがたのもの

「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。 パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」1コリント3:21−23

 先日、信州宣教区の婦人会にお供として出かけてまいりました。小海から出席することが出来たのは、3人の姉妹と私だけだったのですが、会場の長野福音教会の大きな礼拝堂は満員盛況でした。講師は伊那聖書教会の大杉至牧師で、「放射能汚染時代に生きる、放射線と病気と健康」という題でした。その前半に、今お読みした1コリント書のみことばの説き明かしがあり、一同は非常に感銘を受けました。これは私たち四人だけが聞いていたのではもったいないと思いましたので、今朝は、その前半メッセージに、私に教えられたことを加えながら、みなさんにお伝えしたいと願っています。


1.教会・世界・現在〜未来

 コリント教会はパウロが伝道をして生まれた群れでしたが、分裂問題、知的な傲慢という問題、不道徳の問題、使徒の指導に対する不従順の問題など実に問題の多い教会でした。そのなかで最初に取り上げられたのが、党派心・派閥の問題でした。
「3:21 ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。
3:22 パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、・・・」
 コリント教会の人々は人間を誇っていました。「私はコリント教会を最初に立て上げたパウロ先生の薫陶を受けたものです」、「わたしは、あの古典的教養と学識にあふれた雄弁家アポロ先生の弟子ですよ。」、「いやいや君たちは正統とはいえませんな。わたしは、イエス様の一番弟子ケパすなわちペテロ先生の指導にあずかったものです。」とまあ、こんなふうにコリント教会の中では、派閥争いをしていたのです。
 これに対して、パウロは言います。「すべてはあなたがたのものです」。パウロもアポロもケパも、みなあなたがたのものです。パウロ、アポロ、ケパはみんな君たちにとって、教師なのだよと言っているのです。パウロとアポロとケパは、それぞれ神様から召しをいただいてともにお互いの賜物の欠けを補い合いながら、教会に仕えているしもべたちなのだよと諭しているのです。だから、人間をかってに祭り上げて派閥を作って、争うのはパウロもアポロもケパも迷惑千番。また、それは、主のみからだである教会を傷つける罪ですよ、と言いたいのです。

 さらにパウロは、「すべてはあなたがたのものです」ということばに導かれて、教会内のことから、この世界におけるいのちと死のことへ、さらに、現在の世界だけでなく未来にわたることへと視野を拡張して行きます。
「3:22 パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、
また世界であれ、いのちであれ、死であれ、
また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。 」
 教会のことだけでなく、世界の見方、そして未来の問題にも、クリスチャンとして生きていくとはどういうことなのかと教えているわけです。


2.「すべてはあなたがたのものです」


(1)相続人としての責任
 教会において、世界における生命と死において、未来について、共通して述べられている生き方の原理は「すべてはあなたがたのものです」ということです。意外ではありませんか?「すべては神のものです」「すべてはキリストのものです」というのが、ふつうわたしたちクリスチャンの考える模範答案ではありませんか。実際、イエス様は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」とおっしゃって、教会は人間のものでも国家のものでもなく、イエス様のものだと教えられました。また詩篇には「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである。」(詩篇24:1)とあります。無から万物を創造された神様が、万物の所有者であるということは自明の真理です。
 けれども、あえてパウロはここで「すべてはあなたがたのものです」と教えているのです。いったい、パウロは何を言いたいのでしょうか?これが今回のメッセージのヘソです。
 「世界もいのちも死も、また現在も未来も、すべてあなたがたのものです」ということばの意味は、教会のことだけでなく、この世界におけるいのちも死も、私たちはキリスト者として神様から第一に責任が託されているのだよ、という意味です。また現在だけでなく、未来についても、神様は私たちキリスト者に責任を与えていらっしゃるのだ、という意味です。
なぜ、私たちキリスト者、教会にはそんな大きな責任があるのでしょうか。それは私たちが世界の相続人であるからです。「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。(中略)そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」(ローマ4:13、16)今日も私たちは「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈りました。神様のみこころは、天国で成っていればよいというものではなく、このわたしたちの住んでいるこの世界でもなりますようにと私たちは祈っているのです。それは私たちはキリストにあって、この世界の相続人であるからです。


(2)自己決定
 責任があるということは、自分で選んで、自分で決める責任があるということです。自己決定ということです。
 わたしたちの生きている現代社会は、19世紀までは想像もつかないほどに科学技術が発達しました。そのために、19世紀までに考えてこられた倫理観とか道徳基準ではなかなか判断の難しいことがらが身近に多く生じてきています。私たちには聖書という神様のことばが与えられているので、そこには十戒という道徳基準があります。十戒に背くことは、明らかに罪です。

 あなたにはほかに他の神々があってはならない。
 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。
 主の御名をみだりに唱えてはならない。
 安息日をおぼえて、これを聖なる日とせよ。
 あなたの父母を敬え。
 殺してはならない。
 姦淫してはならない。
 盗んではならない。
 偽証してはならない。
 あなたの隣人のものを欲しがってはならない。

 しかし、事柄によっては、必ずしもそれが十戒に背くこととはいえないが、正しいことだとも断言できないようなことがあります。黒白付けがたいグレーゾーンと言えばいいのでしょうか。
「いのちであれ、死であれ・・・すべてあなたがたのものです」ということばは、迫害の厳しいローマ帝国の時代状況では、「ローマ皇帝の像に礼拝をささげなければ死刑であるという社会にあっては、あえて殉教の道を選択するのか?それとも迫害の厳しい地から他国へ亡命して生きる道を選ぶのか?」ということを意味したのでしょう。聖書には、偶像礼拝をするという選択肢はありませんが、亡命か殉教かという選択もありえます。それはそれぞれに祈って主の前に責任をもって自分で決定すべきことでした。
現代に生きる私たちにとっては、とくに生命倫理にかんすることで、判断の難しい灰色ゾーンに属することがあります。健康が偶像のようにみなされている時代、高度医療が発達したためにお金さえかけるならば、ただ苦痛の中でひたすらに延命治療をすることができるようになってきました。いのちは神が賜ったものですから、これを尊ぶことは正義です。しかし、無理な延命治療を続けることがどこまで正しいのか?これは難しい問題です。正しい知識に基づいて祈り自分で判断しなければなりません。また、どういうわけか不妊の夫婦が増えているなかで、体外受精による出産ということがあります。これはいったい、神様の前で正しいのかどうか?
 また、福島第一原発事故との関連でいうならば、放射線汚染地域というものが出来てしまいましたが、いったいそういう地域に住み続けることが正しいことなのか?それとも移住を選択すべきなのかといった難しい選択があります。子どもが一緒にいるのか、年寄りにとって移住はかえって負担とリスクが大きすぎるのではないか、さまざまなことをよく考えて祈って自己決定しなければなりません。信州にいるから関係ないとはいえないことで、地震の巣である新潟の豆腐の上に建っていると評判の柏崎刈羽原発が破綻したり、南海トラフ巨大地震の想定震源域の真上に建っている静岡の浜岡原発が破綻して風向きによっては、わたしたちの住むここも放射線汚染地域になってしまいます。そのとき、住み続けるべきかどうかをどう判断するか?
世界も、いのちも、死も私たちに主が託されたものですから、私たちはこうしたことがらについて、神様の前に正しい知識を得たうえで、責任をもって決定しなければなりません。かつては、私たちは正しい情報や知識を得る手段を持ちませんでしたが、今日ではさまざまな情報を得る方法がありますから、国の言いなりになって国のせいにして文句を言うのでなく、自分で神様の前に判断する責任があります。


3.「現在も未来も・・・」


 また、「現在も未来もすべてあなたがたのものです」ということばを読むと、私たちの判断は、単に今のことだけ考えていればよいのだというものではないことが教えられます。
 旧約聖書にヒゼキヤ王という王様が出てきます。ヒゼキヤはアッシリヤの侵攻にも主に対する祈りの中で耐えた名君ですが、最晩年にはその心は鈍ってしまったようです。彼はバビロンからやってきた使者に宮殿の宝物を、自慢したかったのでしょうか全部みせてしまいました。そうすると預言者イザヤはヒゼキヤに、「【主】のことばを聞きなさい。20:17 見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と【主】は仰せられます。 20:18 また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」と告げました。すると、ヒゼキヤ王はなんと言ったでしょう。 20:19 ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた【主】のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか、と思ったからである。」ヒゼキヤは王でありながら、未来の世代に対するなんという無責任な態度でしょうか。ヒゼキヤは名君でしたが、この一事のゆえに責められなければなりません。
 アメリカインディアンの古来の知恵のことばということのなかに、「君たちは何事かをしようとするときに、三代後の子孫にとって、それが有益なのかどうかをよく考えてするかしないかを決めなさい」ということがあるそうです。現代人は文明を誇り、科学を誇りますが、実際には目先の利益・目先の便利のみに目がくらんでしまって、昔のインディアンのおじいさんよりもずっと愚かになってしまっているのではないでしょうか。
私たちは目の前の損得、自分の生活の便利さではなく、未来の子々孫々に対して責任があるのです。
未来の世代ということを原発とエネルギーの未来について、私たちはどういう選択をすべきなのか?私たちはすでに多くのことを学んできましたが、簡単に確認しておきます。
第一に、原発にはエネルギーとしての将来性はありません。カロリーベースでいえば、ウランという資源は石油の三分の一ほどしか埋蔵量がないからです。
第二に、原発からは莫大な放射性廃棄物が発生し、その放射性廃棄物を無毒にする技術は存在せず、半減期を経て無害化するには百万年かかります。
第三に、原発は稼動中にはCO2を出さないとされますが、膨大な温排水を放出して海を暖めるので、海から莫大なCO2を発生させています。
第四に、原発がなくても、天然ガス開発が進んできたので、エネルギー供給は現在可採掘埋蔵量は数百年で将来は1000年ほどはまず大丈夫だそうです。
http://agora-web.jp/archives/1429982.html

結び
 最後にパウロは「3:23 そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。」といいます。この世界のことを、また未来のことを、責任をもって自己決定をもって引き受ける、世界の相続人である私たちは、キリストの者であり、キリストは神のものです。
 私たちは小さな者ですが、世界の相続人として、神様の前に大きな責任をになっています。私たちは、この複雑な現代社会のなかで、さまざまなことについて正しい知識を得て、判断して、とりなし祈り発言し行動する責任があります。無責任に神様におまかせしますというわけには行きません。そういうことを考えるだけであれば、クリスチャンはくたびれてしまいそうです。けれども、そういう私たちはキリストのものであり父なる神のものなのですから、誠実に務めを果たすならば、結果についてさまざまに思い煩ったり、一喜一憂する必要はありません。神を愛する人々、すなわち、神の御計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っているからです。