苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

次善の道でなく最善の道を

 12:19民はみなサムエルに言った、「しもべらのために、あなたの神、主に祈って、われわれの死なないようにしてください。われわれは、もろもろの罪を犯した上に、また王を求めて、悪を加えました」。
 12:20サムエルは民に言った、「恐れることはない。あなたがたは、このすべての悪をおこなった。しかし主に従うことをやめず、心をつくして主に仕えなさい。 12:21むなしい物に迷って行ってはならない。それは、あなたがたを助けることも救うこともできないむなしいものだからである。
12:22主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるからである。 12:23また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。わたしはまた良い、正しい道を、あなたがたに教えるであろう。
12:24あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。そして主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない。 12:25しかし、あなたがたが、なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされるであろう」。(サムエル上12章19-25節)


 サムエルが退任するとき、民は大いなる奇跡をまのあたりにして、自分たちがサムエルのことばに反抗して王を欲したことが罪であったことに気づいて恐ろしくなってしまった。
 人間の王ではなく、主なる神こそイスラエルにとっての本来的な王であるというのが、サムエルのいうところだった。だが、民が王を欲したので、神は人間の王を立てることをお許しになり、初代王としてサウルをお立てになった。主が最善の道を用意なさっても、民が異なる道を選ぶ時、主はそれをお許しになり次善の道を行かせることがある。主はそれでも民をお見捨てにはならないけれど、民は自ら主の最善を退けたことから来る苦難を引き受けなければならなくなる。
 許されるならば、次善の道でなく主のみこころの最善の道を行きたい。