苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

シャカの道 5・・・・現実療法との類似

 シャカの教えは、ウィリアム・グラッサーの現実療法(リアリティ・セラピー)というカウンセリングの手法によく似ている。シャカが発見したことは、<苦の原因は執着であり、執着の原因は現実を直視しないこと(無明)である。したがって、健全な生活(八正道)を心がけ、現実を直視(明知)すれば、人は執着から解放され、執着から解放されれば、苦しみから解放される>ということである。
 フロイト以来の心理療法はさまざまな手法があるけれども、いずれも基本的にクライアントの苦悩の原因は外的なものであるとみなしてきた。育った環境、特に親との関係が原因だというふうに。このように考えると、苦悩についてクライアントは免責されるので、目先、本人が気が楽になるのだが、実際には、「君はこういう環境でこういう親のもとに育ったのだから、君がこうなったのは必然であって、やむをえないことなんだ。」と決め付けることによって、本人を過去に縛り付け、前向きな人生の選択を妨げてしまう場合があるのではないだろうか。実際、この種のカウンセリンラーのことばによって、親を恨み過去を恨むようになり、身動きとれなくなっている人に会ったことがある。
 現実療法は過去の外的原因にこだわる従来の精神分析とは根本的に異なる療法である。現実療法では、苦悩の原因はクライアントが現実を逃避していること(無明)にあるという。だから、クライアントを現実直視(明知)に導くことができれば、彼はその苦悩から解放されることができるという。
 では、現実療法によれば、人はどのように現実逃避(無明)に陥っていると考えるのか。クライアントは自分の苦悩の原因は親や環境といった外的なものだと思い込んでいることによって、苦悩の泥沼からのがれられなくなっている。そこで、本人を現実の認識へと導き、自分自身がその苦悩の原因をつくっていることに気づかせ、自由と責任をもって新しい選択をしてゆくことを手伝う。以下はひとつの例である。記憶をたどって書いてみるだけであるが、グラッサー(G)と若いクライアントの対話である。大雑把には下のような内容である。

G:「君は、どんな生活をしたいと望んでいますか?」
若者:「親と穏やかな生活をしたい。今は毎日争いがあって苦しい。」
G:「そうですか。ところで、君は朝起きたら、親にどんなふうにあいさつをしていますか?」
若者:「あいさつはほとんどしないな。するとしても、『うるせえくそばばあ』の一言かな。」
G:「君は、さっき、親と穏やかな生活をしたいという希望を語ったね。あいさつはしないか、するとしても、うるせえくそばばあってあいさつすることは、親と穏やかな生活をする上で、プラスになると思いますか、マイナスになると思いますか、自分で評価してごらん。」
若者:「そりゃあ、マイナスですねえ。」
G:「じゃあ、朝起きたら、これからは、どうすればよいか考えてみたらどうだろう。」
若者:「明日の朝から、おふくろに『おはよう』と言うことにします。」
G:「そうか。じゃあ、明日から実行してみてください。」

 とてもシンプルである。現実療法の知見によれば、人は苦悩に陥っているとき、自分がほんとうに望んでいることに反することを現実逃避によって行なっている。だから、自分のほんとうに望むことを自覚し、自分の現実に気づくように導くのである。現実療法は、ひとつの明確な筋をもっている。これはとくに病的状態に陥っている人だけでなく、私たちの普通の生活の中で頭を整理するのに役立つ。

第一に、どうなりたいのか?希望することはなにか?(希望に心を向ける)
第二に、現状、あなたは何をしているのか?(自分が今していることを認識する)
第三に、あなたのしていることは、あなたが希望に近づくのにプラスかマイナスか評価してごらん。(希望に向けて自分の行動を評価する)
第四に、その評価に基づいて今後にむけて具体的な行動プランを立てよう。(希望に向けて具体的行動計画を立てる)

 私が、シャカという人が今の世界に生きていたら宗教家ではなくて、カウンセラーになっているんじゃないかと思うのは、そんなわけである。


<おまけ>
 グラッサーの現実療法がすぐれていると思う点について。グラッサーは、人間を過去の外的環境に縛られた存在ではなく、未来に向かう自由と責任ある存在として捕らえている。少し思想史的な背景をいえば、フロイトは最後の啓蒙主義者といわれるように機械的人間観をもっている。機械は過去の外的要因によって規定されている。
 だが、人間は過去よりも未来によってより強く規定される特異な存在なのである。つまり、人間は希望を抱いて、新しい生き方を選択していく自由な存在であるとグラッサーは見ている。
 これはある程度、聖書的な人間観に類似している。「ある程度」という意味は、グラッサーは、創造主と、人間の罪の自由意志に対する影響について語っていないからである。グラッサーの思想的背景は知らない。

9:1イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 9:2弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 9:3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」  ヨハネ福音書9章1−3節

 弟子たちは生まれつきの盲人を過去と両親の罪に縛り付けるような発言をした。しかし、主イエスは前を見、神を見上げるようにと導かれたということができよう。


参照: W.グラッサー『現実療法』サイマル出版