苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

祭司の息子たち

2:12さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった。 2:13民のささげ物についての祭司のならわしはこうである。人が犠牲をささげる時、その肉を煮る間に、祭司のしもべは、みつまたの肉刺しを手に持ってきて、 2:14それをかま、またはなべ、またはおおがま、または鉢に突きいれ、肉刺しの引き上げるものは祭司がみな自分のものとした。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルの人に、このようにした。 2:15人々が脂肪を焼く前にもまた、祭司のしもべがきて、犠牲をささげる人に言うのであった、「祭司のために焼く肉を与えよ。祭司はあなたから煮た肉を受けない。生の肉がよい」。 2:16その人が、「まず脂肪を焼かせましょう。その後ほしいだけ取ってください」と言うと、しもべは、「いや、今もらいたい。くれないなら、わたしは力づくで、それを取ろう」と言う。 2:17このように、その若者たちの罪は、主の前に非常に大きかった。この人々が主の供え物を軽んじたからである。
                      1サムエル2:12−17


 大祭司アロンの息子ナダブとアビフは祭司だったが、酒に酔って幕屋の務めをしたらしく主の御心と異なる火をささげて、主からの炎に焼かれて死んだ。祭司エリの息子たちホフニとピネハスは、主に対する民のいけにえを横取りして、主のさばきを受けて死ぬことになる。
 祭司の子どもたちといえば、普通の人々よりもはるかに聖なるものに近い環境に生まれ育ってきたわけである。だが、そのことが彼らの主に対する敬虔さを育てるのではなく、かえって彼らは主に対して悪い意味で狎(な)れてしまった。侮るようになってしまった。
 牧師として恐れを感じる。自分の子たちが、主に対する畏れを失い狎れてしまうことがなく、かえって生き生きとした主への愛と畏れをもつ人として育っていくようにと祈らないではいられない。