苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

禍福ともども主の御手から

 そしてふたりは旅をつづけて、ついにベツレヘムに着いた。彼らがベツレヘムに着いたとき、町はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、「これはナオミですか」。ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。 こうしてナオミは、モアブの地から帰った嫁、モアブの女ルツと一緒に帰ってきて、大麦刈の初めにベツレヘムに着いた。(ルツ記1章19−22節)

 「これはナオミですか」という彼女を取り囲んだ女たちの驚きの声。数年前、飢饉のときに、夫と息子たちと一緒にモアブの地に引っ越して行ったときには血色もよく身なりもよかったあのナオミが、夫と息子たちを失い、今は見る影もなかった。
 それに応じるナオミのことば。「全能者がわたしをひどく苦しめられた」「主はわたしをから手で帰されました。」「主がわたしを悩ました」「全能者が私に災いをくだされた」と重ねられることばをどう聞くべきだろうか。
 わたしは、これまでナオミのことばをただ年寄りの恨み言として見過ごしていた。だが、どうもそうではない。すべては禍福ともどもに、全能の主の御手から出ることなのだというナオミの、摂理者なる神に対する信仰告白なのである。主が幸いをくださるならばこれを喜び、主が禍をくだし給うならば、灰をかぶって悲しむ。
 そういえば、老ヤコブもまたエジプトのパロの前で告白していた。「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」。(創世記47:9)
 彼らの信仰の深みというものを感じる。

  春の積雪にも負けずに咲いた芝桜