苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

家は岩の上に

        

  だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(マタイ7:24−29)

序  「権威ある者のように」
エス様の山上の説教はいよいよ結ばれます。最初は十二人の弟子たちだけが、この山の上で話を聞いていたのですが、いつのまにか群衆がイエス様と弟子たちを取り囲んで耳を傾けていました。群衆たちは、イエス様の「教えに驚いた」と28節に書かれていますね。その理由は、「イエス様が、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたから」でした。ふつう日本で「権威がある」というと、なんとなく偉そうだなあというオーラが出ているというふうなことを思うでしょう。貫禄があるくらいの意味でしょうか。でも、ここで言おうとしているのはそういう曖昧な雰囲気のことではありません。もっと具体的なことです。
 律法学者たちは、たとえば、「律法には『殺してはならない』と書かれている。この戒めについては、ラビAはこのように注釈している。しかし、ラビBはかのように注釈している。また、ラビCは・・・そこで、このように理解するのが適当だろうと思われる。」まあこんなふうに教えたわけでしょう。つまり、律法学者たちは、律法という神的権威があり、その律法について教えてきた歴代の権威ある学者たちの権威の下にある者として教えたわけです。
ところが、イエス様はどんなふうに教えたかというと、自分自身が神の権威そのものとして教えたのです。マタイ5:21−24をごらんください。

 「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21,22)

 つまり、イエス様はご自分が旧約聖書と同等、あるいは、それ以上の権威をもっていることをあらわにして教えたのです。「旧約時代にはこのように命じていたが、これからの時代にあたっては、わたしは君たちにこのように命じることにした。」という態度をもって教えたのでした。そのことは、聞いている群衆たちにもはっきりとわかったのでした。このような教え方は、人間に許されることではありませんでしたし、今日でも許されることではありません。ただ神にのみ許された教え方でした。イエス様は、事実、神としての権威をもって教えられたのでした。

1 賢い人と愚かな人の共通点

 さて、話の筋はシンプルです。賢い人と愚かな人が家を建てます。二人の家には同じように大雨・洪水・暴風が襲ってきますが、賢い人の家は倒れず、愚かな人の家は倒れてしまいます。
 賢い人・愚かな人に共通していることは、自分の家を建てたということと、彼らの家がともに大雨・洪水そして暴風に襲れたということです。自分の家を建てるとは、この世にあって自分の人生を築き上げて行くというだれもがなしている営みを表しています。また、賢い人の家には嵐がやって来ず、愚かな人の家にだけ嵐がやってくるということはありません。人生には順風満帆というふうなときがあるかもしれませんが、やがて必ず嵐がやってきます。クリスチャンであろうと、クリスチャンでなかろうと、人生において大雨・洪水・暴風に見舞われることはあるものです。クリスチャンになったら、人生はばら色で何の苦労もなくなるわけではありません。

 聖書は、大雨・洪水・暴風と表現されたことを試練と呼んでいます。天の父なる神様はこの試練をもちいて、ご自分の聖徒たちをご自分にふさわしい者として訓育してくださいます。これは、旧約聖書新約聖書に首尾一貫した教えです。
 神様はアブラハムに75歳で約束をおあたえになりましたが、その約束の成就する100歳の時まで、25年の歳月をかけて、さまざまな出会いや出来事を用いて彼の信仰を精錬なさいました。また、アブラハムの孫ヤコブは自我の強い人でしたから、生涯にわたる主の試練の炎をくぐって聖徒としてきよめられてゆきました。また、ヤコブから400年後のモーセは、神の器として用いられるための備えとして、40歳から80歳まで四十年間の荒野における羊飼いとしての生活を通らされました。私たちは旧約の聖徒たちの苦難の人生を見ることが大事です。とくに、苦難をとおして人に頼まず神に頼む人として成長させられていく姿を見るときに、多くの教訓を得ることができるでしょう。
 私たちの人生には、多かれ少なかれ、大雨でずぶぬれになるときもあり、洪水に流されそうになるときもあり、暴風で吹き飛ばされそうになるようなときもあるかもしれません。神を知らない人々にとっては、それは単なる災難にすぎませんけれども、神様を天の父として仰いでいる私たちにとってはそれはつらいけれども尊い試練なのです。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5:3−5
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヘブル12:11
「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」ヤコブ1:3,4
「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、1:7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」1ペテロ1:6,7

2 両者のちがい

 では、賢い人と愚かな人のちがいはなにか。それは、賢い人は岩の上に家を建て、愚かな人は砂の上に家を建てたというちがいでした。岩の上に家を建てるとは、イエス様のことばを聴いて、聞くだけでなく、それを行うということでした。愚かな人の愚かさは、イエス様のことばを聞きはするけれども、それを行わないことです。私たちはこのところしばらく山上の説教を学んできました。学んできましたが、これを具体的な生活の中で実践しているかどうか?それによって、私たちは神様の前で「私は賢い人です」あるいは、「私は愚かな人です」と表明しているのです。
 砂の上に家を建てるのと、岩の上に家を建てるということを少しうがって考えて見ましょう。砂の上に家を建てるのは楽です。砂地であればスコップでざくざく掘ればすぐに、そこに基礎をすえることができます。けれども、岩の上に基礎を造ると言うのは並大抵ではありません、岩を鏨でうがつといった、砂を掘ることの何倍もの苦労が必要です。
 同じように、イエス様の話を聞くだけならばかんたんです。「あなたの敵を愛しなさい」「ほうほう、いい教えだ」と思うだけで、教会堂を一歩出て、家に帰り、職場に行ったら相変わらず、誰かのことを憎み続けていて、敵のために祈ろうとしないし、愛を行おうとしない。これでは何も変わりません。これは砂地に家を建てている人です。
 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」といえば、そのときは「ほうほうごもっともごもっとも」と聞いてはいるけれど、実生活のなかでは神の国とその義を第二番目、第三番目の優先順位にしていてなんとも感じない。それは砂地に家を建てている人です。砂地をスコップで掘るようにかんたんです。
 けれども、イエス様のおっしゃる一つ一つのことばを自分の生活のなかで実行するとなると、これはほんとうに岩を鏨でうがつような苦労がいることです。「あなたの敵を愛しなさい」と聞いたら、「イエス様、私にとっての敵とは誰ですか?」と祈って、「きみの職場の、あの君にいつも意地悪をするあの人だよ」と示されたら、まずその人に祝福があるように日々祈り、そして愛を実行するのです。そうする人は、賢い人、岩の上に家を建てる人です。そこには葛藤が生じるでしょう、つらいでしょう。でも、その経験を通してたいせつなことを学び、神様と親しくなるでしょう。
 また、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」ということばを学んだら、自分の具体的生活のなかで、神さまを一番にする。そうしようとすると、それは岩に穴をほって基礎を築くような厳しい戦いがあります。でも、祈りながら一歩二歩前に進んで行く。そういう歩みのなかで、自分の罪深さと弱さと頑なさに気づかされ、神様の前に泣いて悔い改めて砕かれ、悔い改めつつ成長してゆく。そうした歩みのなかで、神様が具体的な生活のなかで祈りに応えてくださるお方なのだということを経験していく。こういうことが、岩の上に家を建てる人の生活です。
 そうして、悪戦苦闘しながらも、自我を砕かれて、神様に祈りつつ歩むなかで、気がついたら、前よりもずっとイエス様と親しくなっている。それが聖化、きよめの生涯ということです。

むすび
 これまで私たちはともに、山上の説教を味わってきました。大事なことは、私たちの生活が変わったかどうかです。

「兄弟に向かって、・・『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」
「だからあなたは、はいははい、いいえはいいえといいなさい」ことばの真実です。
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」
「自分の宝は、天にたくわえなさい。」
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」
「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」

 実際、これらのみことばを実際の自分に当てはめてみると、私はほんとうに自分は罪びとだなあとつくづく思い知らされます。ある人々は山上の説教の命じることがあまりに困難であると考えて、これは地上においては行い得ない、これは天国で行うことなのだというのですが、それはまちがいです。なぜなら、イエス様は「悲しむ者は幸いです」「義のために迫害される者は幸いです」と言われましたが、天国には悲しみはなく、迫害もないからです。イエス様は、山上の説教を、この世に生きている神の民、神の子ども、主イエスの弟子つまりクリスチャンのために与えてくださったのです。私たちは天の塩でなく、地の塩です。クリスチャンは天国の光ではなく、この世界の光です。
 私たちは主イエスの山上の説教によって、自分の罪と弱さを思い知らされながらも、イエス様を信じて罪赦された者として、また、神の子どもとしていただいた者として、倒れては立ち上がって、イエス様のあとにしたがって行きたいと思います。