苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主のしもべ

18:19彼らは言った、「黙りなさい。あなたの手を口にあてて、われわれと一緒にきて、われわれのために父とも祭司ともなりなさい。ひとりの家の祭司であるのと、イスラエルの一部族、一氏族の祭司であるのと、どちらがよいですか」。 18:20祭司は喜んで、エポデとテラピムと刻んだ像とを取り、民のなかに加わった。 (士師18:19,20)


 ダン族が、腕に物を言わせて、ミカという人が雇っていた祭司と祭具を奪い去って行った。個人で祭司と祭具をもつことも疑問であるが、それを腕ずくで奪っていくことはもっと疑問。祭司を奪われたミカは気の毒というほかない。彼は呆然と見送るほかなかった。まさに「そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。」(17:6)という時代だった。
 祭司を強奪するダン族もダン族だが、それにほいほいついていく祭司も祭司である。あの若い祭司のふるまいには、主の召しへの顧慮はおろか人間としての誠実さすら見えない。これはチャンス、栄転だと思ったのだろう。
 主のしもべとして、ただひとつ大事なことはなにか。それは、主の召しに忠実であるということ。大きな群れに仕えるにせよ、小さな群れに仕えるにせよ、大都会で伝道するにせよ、田舎で伝道するにせよ、留まるにせよ転じるにせよ、伝道者に大事なことは主の召しに忠実であることである。なぜなら、彼はほかの何者でもなく、主のしもべであるから。

「よくやった。よい忠実なしもべだ。」(マタイ25:23)

追記
 こういう記事を見ると、やっぱり、牧師の人事について、完全な各個教会の招聘制というのは、よろしくないと私は思う。大教会の専横に、小教会は泣かされる。