苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

いのちに至る門



      山道で見た ウグイスカグラ(鶯神楽



「 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:13,14


序 

 アンドレ・ジイドの『狭き門』という小説があります。私が読んだのはずいぶん昔、学生時代のことです。ジェロームという青年が二歳上のアリサという従妹に好意を寄せるのですが、アリサは彼に好意を持ちつつも、神への愛と両立することはできないと考えて、彼を拒否し、ひとり寂しく死んでいくという話でした。天国の門は、二人で手をつないで入るには狭いのだというわけです。
 一応、文学の世界ではジイドの『狭き門』はプロテスタント信仰を背景とした作品ということになっているのですけれども、イエス様を知ってから暗闇から解放されて、喜びと力と希望をもって歩めるようになった私にとっては奇妙な感じがしました。ジイドはなんだか大きな誤解をしているのではないかと思ったことです。キリストを信じて生きる信仰生活というのは、多少の困難は伴いますけれども喜びと光と希望に満ちたものです。
 では、イエス様がおっしゃる「狭い門から入りなさい」とは、本来どういうことを意味しているのでしょうか。


1 滅びといのち


 滅びに至る門、いのちに至る門と出てきます。滅びといのちとは、いったいなんでしょうか? 聖書はなんと教えているでしょうか。
いのちとは神とともにある祝福ある人生です。滅びとは神と断たれた人生、神なき人生です。なぜなら、神がいのちの源であるからです。神様につながっていれば、その人はいのちに満ちていますが、神様から離れてしまえば、その人は死んでいるのです。パウロは神なき人生は「罪と罪過のなかに死んでいる」(エペソ2:1)のだと表現しています。たとえ、この世的には飛ぶ取り落とす勢いの人に見えたとしても、実は死んでいると聖書は断じているのです。それは切花と、根のある花のちがいといえばいいでしょうか。切花はどんなに美しくゴージャスに咲き誇っていたとしても、やがてはしぼんで実を残すことがありません。土にしっかりと根を下ろしている花は、たとえ地味に見えるものであったとしても、花が終れば実を結び種を残すことができるでしょう。
 同じように、神とともにある人生は、目先には困難があるとしても長い目で見るならば、豊かな実を結ぶことができるのです。それは神様のいのちがその人のうちに流れ込んで入るからです。永遠のいのちへの水は、その人のなかで泉となって、あふれ流れて周囲を潤すことになります。そうして、通過点としてのこの世における死の向こうには、さらに豊かな神との愛の交わりが用意されているのです。
 他方、神なき人生は、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢(虚栄心)を満足させるようなものかもしれませんし、人からはこびへつらわれるようなこともあるかもしれませんが、それは空疎な満足にすぎません。最期には、積み上げてきたお金も、肩書きも、名誉も、全部手放して、死という門の向こうで有罪判決と地獄の炎が待っているのです。


2 門の広さと人の数


 では、私たちはこの世の生活のなかで、どのようにいのちに至る門と、滅びに至る門とを見分けることができるでしょうか。イエス様はどのように教えてくださいましたか。とりあえずの目安はとてもシンプルです。
 いのちに至る門は狭く、入っていく人は少ない。
 これに対して、
 ほろびに至る門は広く、入っていく人は多い。
・・・・ということです。
 この世では多数派であれば安心、少数派であれば心配という考え方があります。「赤信号みんなで渡れば怖くない」とか言います。多数決でいえば、多数派に組するほうが目先、得をしそうです。少数派の信念にしたがって生きていくのには、ストレスがかかってたいへんです。だから人々は多数派へ、広き門へ、大樹の陰へと集まります。けれども、イエス様のおことばに従えば、むしろ逆のことを心配すべきだということになります。
「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」
 主イエスのことばからいえば、私たちは自分が多数派であるとしたら、もしかすると自分は滅びの道、滅びの門に立っているかもしれない。滅びの道を歩いているかもしれない。と反省し、吟味する必要があります。
 実際、二千年に及ぶキリスト教会の歴史をずっと調べてくると、ヨーロッパではローマ皇帝コンスタンティヌスキリスト教に回心し、やがて、キリスト教が帝国の国教になったあたりから、どうも怪しくなっています。紀元後4世紀の出来事です。権力者がキリスト教会を国を精神的に統一してまとめるための道具として利用し始めたときから、おかしくなったというわけです。
 以下は、ある教会史家の言っていることです。コンスタンティヌスのもたらした新しい状況は、それまでの伝統的なキリスト教神学の主題のいくつかを放棄させることになりました。「貧しい者は幸いである」(ルカ6:20)という福音の主題の一つが語られなくなり、かえってコンスタンティヌス帝以降、富や権力が神の祝福のしるしとみなされるようになりました。壮麗な礼拝堂と典礼が発展し、聖職者たちは貴族階級のようになってしまいました。初期教会にとっては、「貧しい者は幸いである」というのは、常識でした。福音とはまず貧しい人々へのよいしらせだったのであり、キリスト教が弾圧される社会状況にあっては主イエスにしたがうことはしばしば財産の放棄を意味したからです。初期のキリスト教会にとって、イエス様を信じていることのゆえに、「罪の宣告、財産の没収、人権剥奪、財産略奪、官位の喪失・・・ 」といった目にあうことは普通のことでした。むしろ金持ちがいかにして救われるかは神学的議論の一つだったのです。金持ちが天国にはいるよりも、らくだが針の穴を通るほうがやさしいとイエス様がおっしゃったからです。
 キリスト教が多数派になった社会では、キリスト教徒であることが社会的成功に有利に働くようになりますから、偽のキリスト教徒・偽の伝道者も紛れ込んでくる可能性が高くなります。だから門が広くなり多くの人が教会に来るような時代になったなら、よほど警戒していなければなりません。そんなわけで、中世以降、教会はしばしば自己改革を繰り返してきました。16世紀のプロテスタント宗教改革は、そういう改革のひとつです。


3 いのちの門の狭さ


 このように広いか狭いかということや人数が多いか少ないかということは、それがいのちの門か、滅びの門かを区別する目安となりましょう。しかし、もちろん人数だけで滅びかいのちかが決まるわけではありません。少なければいい、狭ければいいというならば、伝道をすれば多くの人がイエス様を信じるようになっていくから、伝道しないほうがいいということにもなりかねません。そんなことをイエス様は教えてはいらっしゃいません。「全世界へ出て行って造られたすべてものに福音をのべつたえなさい」とおっしゃいました。では、いのちに至る門の『狭さ』とはどういう狭さなのでしょうか。

 戦国時代が終わり、秀吉が天下を統一したときのことです。当時は、茶の湯が高級な趣味として流行っていたそうです。千利休はその大成者でした。秀吉も茶の湯を好み、黄金の茶室を造って権勢をほこりました。信長に仕え、今は、秀吉に仕える堺の千利休の茶は、これを残念に思っていました。茶の心は、侘びの心でしたから、秀吉の成金趣味とはまったく相容れなかったのです。
 そこで、どのようにして秀吉にも天下にも侘び茶を伝えられるかを工夫したのが、利休の小さな小さなたった二畳の茶室であり、茶室のにじり口でした。利休はこの工夫を、キリシタンであった自分の娘を介して当時堺の町にあった、天主堂つまり教会に出かけて得たという説があります。いくつかの文献を読んで、そういう可能性は高いと思われます。三浦綾子さんはこの説に従って、『千利休とその妻たち』という小説を書いています。
 茶室に入ろうとするときには、庶民であっても、武士であっても、大臣であっても、大統領であっても、天皇であっても、みな頭を下げなければなりません。太閤秀吉であっても刀を抜いて、頭を下げなければ、茶室に入ることができないのです。権力、肩書き、富といったものは、狭い門をくぐるためには、すべて役に立たないもの、むしろ邪魔なものとして、横において入ってくることが必要なのです。ここには、イエス様がおっしゃる「狭き門より入れ」ということばの意味がよく現れています。
 私たちは、神様の前では丸裸になって謙虚になることなしには、救われることは決してできません。お金も、地位も、この世の名誉も、神様の法廷においては何の役にも立たないどころか邪魔にさえなります。「心の貧しい者はさいわいです。」
 さらには、自分は道徳的な生き方をしてきたものだという誇りさえも、狭い門をはいるには邪魔になるのです。使徒パウロは、自分は若い日からパリサイ人として律法をだれよりも厳格に守り抜いてきたという誇りを胸に生きていました。それが妨げとなって、パウロはキリストのもとにへりくだることができず、かえって、キリスト教会を迫害する急先鋒となって行きました。復活された主イエスは、そんなパウロに現れて「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とおっしゃいました。サウロは、自分こそは正しい人間であると言うプライドを打ち砕かれて、へりくだって、主イエスを信じて受け入れたのでした。
 「狭き門より入れ」とは、富や肩書きや権力や名誉といった誇りでふくらんだままでは、神の国に入ることができないということであり、また、自分は正しい人間であるというプライドでふくらんだままでは神の国に入ることはできないよ、ということです。
 山上の祝福の最初に、主イエスがおっしゃったとおりです。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」


むすび 狭い門をくぐるならば


 最後に、狭い門をくぐった先、神の国はどういうところなのかについてです。また地上の教会は神の国の出店ですから、教会とはどういうところであるのかについてのお話でもあります。
 富、社会的地位や名誉、権力、自分の道徳性・・・こういったプライドで膨らんでしまっている人は、えてして住んでいる世界を狭くしてしまっているものです。神の国は、お風呂屋さんに似ています。風呂にはいるには、みんな何も身に着けることができません。素のまんまのお互いしかないからです。金持ちも貧乏人も役人も国会議員も小学生も大学教授も天皇も健康な人も病気の人もみんなただの人間です。そこでは、素の人間どおしでお話をすることができます。神様の前では、ひとりひとりが罪人です。身に着けているいろいろな地位や名誉や富とそれに関するプライドなどを全部脱いで、「ごめんなさい、イエス様」と言って狭い門をくぐる人だけが神の国に入るのです。
 神様の前では、誰が一番偉い、誰が一番正しいとかいっても、みんなどんぐりの背比べです。みんな罪人にすぎません。威張れた者ではありません。
でも、同時に、罪人である私たちひとりひとり、キリスト様の血潮で贖われた天の父の愛の対象である神の子どもですから、私たちはクリスチャンとしておたがいに尊敬しあって、天の御国を目指して生きてゆきます。
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」