苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

みこころに迫る

32:9主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。 32:10それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。
32:11モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。 32:12どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、 32:13あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。 32:14それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。      
                      出エジプト32:9−14


 主は、金の子牛を拝んだ民に怒りを燃やし、これを滅ぼしてモーセの子孫を神の民としようかとおっしゃった。もし、このとき、モーセが「そうですね。神様、みこころのままになさってください。イスラエルの民などさっさと滅ぼしてしまいましょう。私の子孫を神の民としてください。」と応じたとたら、どうだったろう。それは御心にかなう祈りだっただろうか。そうではなかった。
 主はモーセが主のことばに、「とんでもない」と抵抗することを期待しておられ、モーセを試されたのである。モーセがどれほどの覚悟をもって、主から託された民を導こうとしているかを試されたのである。はたして、モーセは、主の名誉と主のおことばの真実にかけて、主に対してイスラエルの民のために激しく執拗に嘆願した。
 安易に「みこころのままに」と祈る祈りはみこころにかなうものではない。主の表面上のおことばの向こうに、主の本当のみこころが隠されていることもあるのである。むかし読んだフォーサイスの『祈りの精神』を思い出した。