苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

第二戒に対する罪

32:1民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。 32:2アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。 32:3そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。 32:4アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。 32:5アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすはの祭である」。                        出エジプト記32:1−5


 モーセは黒雲のかかった山に登っていつまでも帰ってこない。もう四十日になろうとしていた。草一本生えていないシナイ山である。もはや生きているはずがない。そう、麓にいる民たちは考えた。指導者モーセを失ったと思った彼らは、代わりに見える形の神々をアロンに求めた。
 アロンは妥協した。『ほかの神々を拝ませるためでなく、エジプトから我らを導き出した主なる神を民にわかりやすく仮に見えるかたちで表すだけなのだ。そうしなければ、民はほかの神々に走ってしまうだろう。』というのが、彼の心の中の言い訳であったろう。だから、アロンは偶像を作って「明日は主の祭である」と布告した。アロンは第一戒「あなたにはわたしの他にほかの神々があってはならない」ではなく、「あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。」という第二の戒めにそむいたのだった。真の神を礼拝するためには、こんな方法も必要だということで、人間の宗教的感性に訴えるための像を刻んだのである。しかし、それは主の怒を招くことになる。
 神の戒めに背いてまで、さまざまの工夫を凝らして人間の満足に仕えるような礼拝は、人間への礼拝であって、神への礼拝ではない。礼拝とは神に仕えることである。このところ出エジプト記を開くたびに、このテーマが繰り返し心に訴えかけてくる。 

    川上村から望んだ八ヶ岳・・・う〜ん電線がじゃま。