苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

天の父のようにーーー神の子どもの自由

              マタイ5:38−48

 5:38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。


「目には目で・・・」の誤解
 「目には目で、歯には歯で」ということばは旧約聖書出エジプト記の律法のなかにあることばです。次のような文脈で語られています。
「21:23 しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。 21:24 目には目。歯には歯。手には手。足には足。21:25 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」
 この法律は同態復讐法と呼ばれます。すなわち「目を潰されたら仕返しとして相手の目を潰せ」とか、「歯を折られたら仕返しとして相手の歯を折ってしまえ」と復讐を奨めているというのです。しかし、それは間違った解釈です。正しく読めば分かることですが、この箇所は、本来的には、「あなたが誰かに損害を与えてしまったならば、その損害と同等の賠償をしなければならない」という意味のことばです。ですから、これは正しくは、同態賠償法と呼ばれるべきものですね。さばき、賠償における公平さということを求めているのです。
 ところが、どうやらイエス様の時代には、この「目には目で、歯には歯で」ということばは誤用されていたようです。つまり、私たちの時代でもこのことばを多くの人が誤解しているのと同じように、当時も「やられたらやり返せ」「悪い者に手向かえ」という意味で用いられていたようです。ですから、イエス様は、それに反論して、39節で、「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。」とおっしゃっているわけです。
 イエス様は、モーセの律法に定められた司法における公平さ、人に損害を与えてしまったときの賠償の公平さが大事だという教えを否定しているのではありません。そうではなく、イエス様のいらした当時、人々が律法を誤解していたこと、「やられたらやり返せと律法にも命じられているぞ」という偽りの教えに対して反論しているのです。


神の子どもの自由
 誰かが、あなたになにか悪いことをしたとします。それに対して、怒りを抱くようになって、始終そのことが頭を離れずに夜も寝られなくなり、どんなふうに仕返ししてやろうかと床の上を転々として悶々としているとしたらなんと不幸なことでしょう。なんと不自由なことでしょう。あなたの魂は、その悪い人の奴隷とされてしまっているからです。
 イエス様は、君たちには、神の子どもとしての自由な生き方があるのだと教えるのです。それが、この一連のことばです。

「5:39あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」

これらをただ字面だけ読めば、まあ無茶な教えですよね。こんなご命令にしたがっていたら、クリスチャンはみんなあざだらけになってしまうし、裸になってしまうでしょう。また、イエス様のおっしゃることの字面通りにしたがうとすれば、それは正しい行為でもないでしょう。
たとえば、クリスチャンの奥さんたちは、暴力亭主には歯向かわず、むしろ「もっともっとたたいて頂戴」というべきでしょうか。この間、大阪の高校生のかわいそうな事件がありましたが、クリスチャンの中高生は部活の先生から、ビンタをされたら、「僕をもっと殴ってください」というべきだというのでしょうか。そんなことをしたら、夫や先生にますます罪を犯させるだけではないでしょうか。暴力依存症という精神的な依存症というのもあるのです。また、お金を貸してくれという人には、見境もなくとにかくじゃんじゃん貸すようなことをしたら、借りた人に依存心を与えて、その人の人格を破壊し、破滅させてしまうことでしょう。
 ですから、イエス様がここで命じていらっしゃるのは、そういう字面の意味でないのは明らかです。では、イエス様はこの39−42節のことばによって何を教えようとなさっているのでしょうか。それが一番分かりやすい例は、41節の2ミリオンの教えでしょう。
「5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」
 「行けと強いる」というところには、ちょっと珍しいギリシャ語アンゲリューセイということばが用いられています。これは、ペルシャ由来のことばだそうです。昔アケメネス朝ペルシャの王様は大きな領土を手に入れると、迅速に王のための通信が届くために、国道を整備し駅伝制を設けました。それはローマ帝国でも採用されました。この駅伝は通常は、ちゃんと機能していたようですが、何かうまくないことが生じてしまうと、ローマ市民でない植民地人は任意に強制的に徴用されて「おまえ、1ミリオン(1.5キロ)行け」と命じられたそうです。労役のひとつです。これは帝国の支配下に置かれた属国の民としての屈辱を感じさせられるときです。
 けれども、イエス様は、「1ミリオン行け」とローマ帝国の役人に命じられたら、神の子どもたちであるあなたたちは、「いえいえ、1ミリオンとは言わずに2ミリオン行きましょう。」といいなさいというわけです。傲慢で残忍なローマ人でさえ、「まあ1ミリオンが限度だな。それ以上命じたら、反乱が起るかもしれないからな。」と思ったのですが、イエス様は「2ミリオンゆけ」とおっしゃるのです。
 それは、なぜか。1ミリオンだけ行く人は、いやいやながら屈辱を噛みしめながら、ローマ人を憎みながら、足を引きずりながら行くのですが、2ミリオン行く人は、自発的にむしろ喜んで、軽やかに行くのです。なぜですか。愛の奉仕の心が動機だからです。肝心なことは、1ミリオンに2ミリオンとか、左の頬に右の頬とか、とにかく上着もシャツもみんな与えるとか、そういううわべの規則ではないのです。肝心なことは、悪いことを仕掛けてくる人に対しても、神の子は、愛をもって自由な心で奉仕する心で応答するということです。悪をなされて恨みを抱いて復讐をするとき、私たちは敵に心縛られてしまっています。相手の奴隷になっているのです。でも、悪をなされても、愛をもって相手に応じることができたら、その人は自由です。
 というわけで、イエス様の、一見とんでもないご命令は、私たちを縛るための戒めでなく、逆に、私たちを、自由にし、解放するためのことばなのです。そのように理解してこそ、43節、44節のイエス様のことばにごく自然につながってゆきます。
  「5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
 そうです。要点は、敵をも愛しなさい、迫害する者のために祈ることです。当時のユダヤ人たちが「敵」と認識していたのは祖国の独立を奪い、我が物顔に振舞っているローマ人たちのことです。ローマの圧政のもとで彼らは、重税に苦しみ、民族の誇りをも傷つけられていました。ですが、そういうローマ人たちを憎み、彼らに歯向かって、悪に対して悪をなすとすれば、それはローマ人に捕らわれてしまっていることになるのです。
 ただし、悪をただ耐え忍べ、我慢せよというのではありません。我慢は、ただ憎しみを内側に増大させるだけです。悪者に対しては我慢するのではなく、その人を愛しなさい、祝福を祈りなさいとおっしゃるのです。それこそ神の子どもの行く自由の道です。


天の父のように

 イエス様は続けます。
「 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
 「天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです」というのは、敵を愛したら、その報酬として神様の子どもになれるという意味ではありません。イエス様を信じることによって、私たちはすでに神の子どもとしての身分を与えられています。だから、主の祈りで、「天にましますわれらの父よ」と祈ってよいのです。イエス様がおっしゃる真意は「天におられるあなたがたの父の子どもとしての実質を備えたことになる。父の子どもらしいものになれる」ということです。
 イエス様のおっしゃることは、ここではとってもやさしいことです。「天の父はユダヤ人のためだけでなく、ローマ人のためにも太陽を上らせ雨を降らせて養っていてくださるではないか。『神などいるものか』とか『神々とはローマのジュピターやヴィーナスだ』とうそぶく恩知らずなローマ人のためにさえ、その必要なものを供給して生かしていてくださるではないか」とおっしゃるのです。さらに、
 「それなのに、わたしを信じて天の父の子どもという身分を得た君ちが、兄弟姉妹にだけ挨拶をし、ローマ人を憎んでいるなら、それは天の父の子どもとしてふさわしいことだろうか?到底そうはいえないではないか。そんな自分に親切にしてくれる人にだけ、親切を返すということなら、真の神を知らない異邦人だってしているではないか。」とおっしゃるのです。確かに、その通りですよ。ヤクザだって、贈り物をもらったらお返しをするということにはたいへん義理堅かったりするものです。
 だから、親切な人にだけ親切を返すという程度のことをしているだけで、「私は天の父のこどもです」ということはおこがましいことだよとイエス様はおっしゃるわけです。天の父が悪い人にも日々祝福を与えているように、自分に対して悪いことをする人のためにも、日々「天のお父様あの人を祝福してください」と祈ってこそ、天の父の子どもとしてふさわしい中身をもっているということができるわけです。


結び
 「あなたの敵を愛しなさい。あなたの敵のために祈りなさい。呪ってはいけません。祝福しなさい。」とイエス様は私たちにチャレンジなさいます。主イエスのご命令は、私たちを縛る鎖ではなく、私たちを人の悪意や自分の恨みの感情から解放する宣言です。イエス様を信じている私たちは、悪をなす人に対して愛をもって祝福を祈り、奉仕することによって、自分が自由な神の子どもとされたことを確認することができます。