苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

国のあり方について・・・フランス革命と英国市民革命と天皇制

2012年12月25日〜31日掲載分に、新しく序をつけ、結論を差し換えました。順々に読んできてくださった読者は、序と結論だけでもお読みください。
 

 神のみこころにかなう政治形態とはなんだろう。そんな意識をもって聖書を開いてみても、聖書には共和制がよいとも、いや君主制がよいとも書かれてはいない。イスラエルの歴史を見れば、最初は王のいない士師の時代があり、その後、王制の時代が続いて、最後は破綻した。新約の時代、イスラエル帝政ローマの属州という立場で、ローマの傀儡ヘロデ王権と、ローマ総督と、ユダヤ最高会議が並び立ち、最高権力はローマ総督が握っていた。ヨセフはエジプトの王パロに仕え、ダニエルはバビロンの王とペルシャの王に試練のなかで仕えた。どの時代のどの政治形態が理想的だったとは、聖書のどこにも書かれてはいない。
 では、聖書は人のたましいの救いにのみ関心があって、国家のあり方についてまるで無関心なのかというとそうではない。聖書が国家的権威について明言していることが二つある。第一は、国家的権威もまた神のしもべとして社会秩序の維持と徴税によって富の再分配をすることであるから、それなりに尊重すべきであること(ローマ書13章1−7節)。第二は、時に、国家的権威は悪魔に誘惑されて、全体主義軍国主義に陥るから警戒せよということである(黙示録13章、申命記17章14−20節)。したがって、私たちとしては、自分の置かれたこの時代、この国にあって、国家が全体主義軍国主義に陥らず、社会秩序の維持と富の公平な分配ができる体制が実現するようにと祈り、参政権を用いる責任があるということになる。聖書の時代には庶民に参政権はなかったが、現代日本では国民主権という原則があり、それを具体的に表現するために国民に参政権が与えられている以上、私たちは国家のあり方に関して、神の前に参政権のなかった時代よりも重い責任がある。
 かつて私たちの国は、明治維新後の国家神道体制下にあって全体主義軍国主義に陥り、自国民のみならず他国民にまでも大きな惨禍をもたらした。天皇が現人神とされたあの時代、キリスト教会もこれにとりこまれ、国策に協力し、現人神天皇を崇める罪をも犯してしまった。戦後、天皇は象徴とされたが、そんな物騒なものなら天皇制を廃して共和制を採用すれば自動的に理想社会が来るのではないかと夢見る人もいるかもしれない。だが、実際は、そう簡単な話ではあるまい。
 本稿で、筆者はフランス革命と英国のピューリタン革命と名誉革命を思想的観点から比較検討して、政体の仕組みについて考えて、わたしたちの国はどういう方向を目指すのが適切なのかを考える手がかりを得たいと思う。

<目次>

1.フランス革命の熱狂
2.英国の二つの市民革命とフランス近代の比較
3.共和制が民主的とは限らない
4.国家体制の類型の整理
5.共和制と君主制の仕組みと長短
(1)仕組み
(2)共和制と君主制のメリットとディメリットを何点か・・・
6.皇室の伝統とは
(1)エドマンド・バーク保守主義
(2)改憲派の憧れる「皇室の伝統」は歴史の読み間違いである
(3)ほんとうの皇室の伝統
(4)日本国憲法における天皇の位置づけをバークの保守主義的観点からの評価する
結論


1.フランス革命の熱狂

 筆者は、市民革命の歴史を教会史の観点から学んで、啓蒙主義歴史観では隠されていた共和主義革命の暗部を認識した。特にフランス革命は、あまりにも血なまぐさく独善的で、反キリスト的であった。筆者が高校生のとき受けた世界史教育は、啓蒙主義を理想とする歴史観に影響されていたから、フランス革命における恐怖政治、反キリスト的振る舞い、その後のフランスの政体の不安定さはほとんど教えられず、「自由・博愛・平等」を実現したすばらしい革命というイメージが強かった。だが、それは現実ではなかった。
 フランス革命の予言者と呼ばれるジャン・ジャック・ルソーの書いた『社会契約論』は革命のバイブルとされた。特にジャコバン派ロベスピエールはルソーの信奉者であった。ルソーは、その不幸な経歴ゆえか伝統的価値・制度を憎悪していた人物であり、それを、前世紀のデカルト主義によって強化した。少しだけデカルト的理性の説明をしておく。
 デカルトは、確実な知識を追い求め、中世までの「書物の学問」を破棄した。「書物の学問」とは「権威あるアリストテレスの書物にこう書いてあるから」という理由で事柄の真偽を定めるような学問のあり方ことである。デカルトが理想とする確実さとは、幾何学における「三角形の内角の和は二直角である」というふうな理性にとって明晰判明なことのみである。デカルト自身はこのような合理主義の危険性を認識していたから、「暫定的道徳moral previsoire」ということを言って、理性に完全に基礎付けられた倫理の体系が完成するまでは、伝統的な価値や制度をただちに否定すべきでないとしている。
 しかし、「暫定的道徳」の禁を破って、デカルト的理性で社会を見るならば、王の権威とか、教会の権威といった伝統や習慣に根ざしている価値はなんの根拠もないことになる。フランス革命期、第一身分は僧侶、第二身分は貴族、第三身分は平民とされており、しかも、第一身分である聖職者の数は14万人、第二身分の貴族は40万人、第三身分の平民は2600万人。圧倒的少数2%の第一身分と第二身分が、国土の40%を領有して、免税特権までも持っていた。従来、庶民は「伝統であるから」と不満を抱かなかったのだが、単純なデカルト的理性で見れば不合理ではないかということになる。デカルト的理性の目で見れば、王も貴族も聖職者も、ただ昔からいばってきた連中にすぎなくなる。だから、フランス革命は国王や司祭たちを断頭台にかけ、教会に理性の女神を持ち込むといったことをなしえた。
 格別、ジャコバン派のきまじめな弁護士ロベスピエールはルソーの『社会契約論』をいわばバイブルとして革命を遂行した。彼の行なった恐怖政治は、後のロシア革命毛沢東文化大革命ポルポト革命の祖形となった。ポルポト派はルソーの思想に心酔していた政治集団だった。
 啓蒙主義が伝統的迷信・因習の暗闇から人々を救い出したという功績があるのは一面の事実である。しかし、もう一面で、理性崇拝の熱狂に陥って、そのきわめて狭い理性で割り切れないものはすべて「nonsense!」と切って捨ててしまい、夥しい血が流されたのももう一つの事実である。そこに生じたのは、社会の無規範化(アノミー)と熱狂であった。なぜなら、社会規範・道徳の多くは伝統に根ざして形成されたものであるからである。フランス革命下、恐怖政治のために反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人、死刑の宣告を受けて処刑されたものは約1万6千人、それに内戦地域で裁判なしで殺された者の数を含めれば約4万人にのぼるとみられる。
 旧体制を転覆する革命という手段には、膨大な犠牲者が出ることは避けられない。同じ類型に属するロシア革命ではどうか。ソ連政府はミハイル・ゴルバチョフの時代にNKVDの後身KGBスターリンが支配した1930年から1953年の時代に786,098人が反革命罪で処刑されたことを公式に認めている(Wikipedia)。毛沢東文化大革命の犠牲者数については、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期3中全会)において「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計されている(Wikipedia)。
フランス革命について、もう少し詳しくはこちらをごらんください。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20101219/p1


2.英国の二つの市民革命とフランス近代の比較

 英国では、17世紀半ば、クロムウェルを指導者としてピューリタン革命があった。ピューリタン革命の場合も、チャールズ1世という専制君主を処刑した。しかし、ピューリタン革命はフランスのような合理主義による革命ではなかったので、急性アノミー(無規範状態)には陥らなかった。フランス革命は<王と教会>という聖俗ふたつの伝統的権威を合理主義で倒したので急性アノミーに陥ったが、イギリスのピューリタン革命が王を殺したのは、合理主義によるのではなく、神のみこころによるという確信が指導者クロムウェルにはあった。クロムウェルの共和政は厳格な規範ある神政政治を志向したので、その結果は、無規範に陥り暴走したフランスの第一共和政とは正反対というくらい違う。
 クロムウェルは王党派の巻き返しを防ぐため軍事独裁共和制をしいたから、その社会は息が詰まるような道徳的に厳格な社会であったが、長続きはしなかった。クロムウェル後は、イングランドは王政復古となって、ジェームズ2世が王として立てられた。しかし、ジェームズ2世はまたも専制政治を行なおうとしたので、議会は彼を排し、オランダからオラニエ公ウィレム・メアリ夫妻を立憲君主として迎え、ジェームズ2世は亡命した。いわゆる名誉革命である。イギリスは革命の打ち止めに成功し、以後、今日にいたるまで安定した社会体制を得た。このように、イギリスでは、王の政治的実権を徹底的に削いで、しかも、王室の伝統的価値だけは国民統合の象徴として利用することに成功した。

 これに対して、フランスは第一共和政後、ナポレオンによる第一帝政、王政復古による立憲君主七月王政第二共和政ルイ・ナポレオン第二帝政第三共和政第四共和政とつづき現在第五共和政と、めまぐるしく政体は変革され続け国力は衰えた。フランスの政治的不安定は近代フランスにおける病である。その不安定の理由はいくつかあると思われる。
 ひとつは、タブーであった「王殺し」をしたことである。王制の生命線は、その伝統だから、伝統が途切れてしまったら、その効力は急速に失われる。天皇制を信奉する人々がある程度虚構ではあるが万世一系固執するのはそのせいである。それにルイ16世をギロチンで殺したあと、共和制から成り上がりのナポレオンによる帝政、それが倒れて王政復古・・・と、王や皇帝がつぎつぎ交代したから、彼らは一応、皇帝や王を名乗るけれども、国民の側の意識からすれば、実質的には次々と国民が首を挿げ替える大統領みたいなものであって、伝統の重みがなかった。
 フランスの不安定さのもっと大きな理由は、フランス革命は英国の革命とちがって教会の権威を否定したことである。フランスでは、<王の伝統と教会の伝統>という、聖俗両方の伝統的権威を否定したので、国民は価値の柱を二つとも失ってしまって、無規範状態に陥ったと考えられる。

(注)ピューリタン革命と名誉革命について詳しくはこちら。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20101215
<参考> エドマンド・バークフランス革命省察


3.共和制が民主的とは限らない

 NHK高校講座の世界史で山内昌之氏が「共和制であるからといって、民主的とはかぎらないところが、世界史のむずかしいところです。」と発言していた。山内教授は、米国を一例として挙げ、米国はイングランド王を排して共和制を樹立した共和国であるが、奴隷制と人種差別、他国への侵略行動という二点において民主的でないと指摘した。山内教授は言外に、「民主制は本来的に君主制とちがって奴隷制とか帝国主義的行動をしないはずなのになぜ?」ということをほのめかしていたわけである。
 しかし、歴史と現在の世界を見渡して思うに、そもそも民主制と君主制を対立概念として考えることがまちがいなのであって、実際には、君主制との対立概念は共和制なのである。共和制とは、王や皇帝のような伝統的権威を帯びた君主の代わりに、選挙などの手続きによる権威を帯びた大統領や主席を指導者として立てる政治形態である。
 では、民主制とはなにか。民主制とは国民主権の原則に立つ政治体制を意味する。単純に考えると王がいたら、民主制は成り立たないと思われ、立憲君主制というのは不完全な民主制だということになろう。しかし、歴史上の実例を見ると、どうもそうではない。実際には、民主制の政治手法のなかに二通りあって、元首として大統領や主席を立てる共和制型民主制と、憲法によって権限を制限した君主を立てる立憲君主制型民主制とがある。
 日本国憲法は、国民主権を謳い、かつ天皇の権限を国事行為という儀礼にのみ制限している。よって日本は立憲君主制型民主制であり、同類に英国や北欧諸王国やオランダ、ベルギーがある。もっとも、民主制と君主制が対立概念であると考える人々は、日本が立憲君主国であることを認めないかもしれぬ。「日本国憲法国民主権を謳っているのだから、天皇は国民統合の象徴であっても君主であるはずはない」と。

 さて、「共和制であっても民主的とはかぎらない」ことについて、歴史上に実例は多い。たとえば17世紀英国ピューリタン革命時代のクロムウェル独裁の共和制、18世紀フランス革命期の第一共和制の恐怖政治、20世紀ヒトラーが総統時代のドイツ、また、中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国も共和制だが民主的ではない。このように実例をみてくるとわかるように、共和制は独裁政治に傾きやすい。なぜか。少なくとも三つ理由がある。
 共和制が独裁・全体主義に傾きやすい第一の理由は、歴史的に見ると共和制の社会構造のせいである。中世の封建制社会にあっては、君主の下に領主階級という中間層がいた。民は領主たちの領民であったから、王とは直結していなかった。ところが、革命によって、君主と領主階級が倒されると、人民は中央政府に直結される構造になった。つまり、王政にあっては<王―諸領主―領民>という多元的社会構造だったのが、共和政になると<中央政府―国民>という中央政府と国民が直結する一元的構造になったのである。以前は「領民」意識だった民たちは、共和政がしかれると「国民」の自覚を持つようになり、「愛国心」を持つようになった。自分たちが選んだ大統領が強力かつ巧みに誘導すれば、「国民」はその方向へと走り出しやすい。つまり全体主義化しやすい。
 共和制が非民主的になり独裁政治に傾きやすい第二の理由は、共和制は大統領に権限が集中する傾向が強い制度であるからである。立憲君主制の場合は、国民統合のシンボルという機能は君主が担当し、実務的権限は首相が担当するという分担が行なわれるが、共和制の場合は、大統領ひとりに「国民統合の象徴」と「実務権限」の両者が集中させる場合がある。もっともドイツでは、大統領制には、こうした権力の集中という危険があることに鑑みて、大統領と首相の両方を立てて象徴と実務の分担をさせる手法を取ったり、米国では象徴・実務を兼務する大統領であっても議会と裁判所による牽制を行なっている。かつてナチスの時代のドイツでは、首相であったヒトラーは、ヒンデンブルク大統領が死ぬと首相と大統領を統合して自ら総統となって独裁政治を行なった。
 共和制が非民主・独裁に傾きがちな第三の理由は、伝統という価値の体現者としての王を排して、「今みんなで多数決で選んだ」という合理的価値を最大限に評価して大統領を立てるので、ダイナミックではあっても、急進的で安定感に欠くということである。そこにはフランス革命のような熱狂が伴うことが多い。伝統的価値というのは何百年という民族的・国家的な経験を経ているが、合理的価値というのはえてして短絡的で視野が狭い。
 このように共和制型民主制という仕組みは、独裁政治に陥りやすい。だから大統領や主席といった職務に権限が集中しないように安全装置を施しておく必要がある。それが三権分立の機能である。また、独裁者は軍を掌握することによって、その力を得るので、ここにも牽制する装置が必要である。
 歴史を振り返れば、国家体制についていろいろな工夫がなされてきたが、いずれにしても罪ある人間の建てる制度であるから完全なものはない。抽象的に考えるよりも具体的歴史に学び、政治の仕組みの長短を見極めて、それぞれの国情や歴史にふさわしいタイプを選んでこれを運営することが大事だというのが結論となるのだろう。日本の場合、現状は立憲君主型民主制である。これにはどのような性質が伴っているであろうか。


4.国家体制の類型の整理

 民主的と専制的という修飾語と、立憲、君主制、共和制という3つの政体のスタイルの組み合わせを考えると政体の問題が整理できそうである。
 まず歴史の現実から考えて、筆者は民主制と君主制を対立概念とは考えない。字面だけみればいかにも対立概念なのだが、歴史の事実から考えて、両者を対立概念と見るべきではない。むしろ君主制と対立する概念は、大統領や主席を元首として立てる共和制である。
 では、民主ということをどう考えるか。むしろ「民主的」という形容句としてとらえるのが現実に則している。民意が政治に反映しやすい機構を備えた体制は民主的である。中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国があるように共和制が必ずしも民主的とはかぎらないし、現代の英国や北欧諸国のように君主制を採用しているからといって、必ずしも非民主的とはかぎらない。これが歴史の現実である。
 民主的体制を維持するための重要な装置は、まともな憲法である。まともな憲法とはなにか?フランス人権宣言(1789年)が教える。16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものではない。 」つまり、まともな憲法とは三権分立と人権尊重の二大原理を持つ憲法である。基本的人権の中に国民の参政権が含まれており、参政権をもって国民主権を表現する。憲法は、基本的人権として、精神の自由(思想・良心の自由、信教の自由、学問の自由、集会・結社・表現の自由)・身体の自由(奴隷的拘束・苦役の禁止、不当逮捕の禁止、抑留・拘禁の禁止など)を表現していることによって、国家権力が自分に不都合な国民の政治参加であっても、これを弾圧することがないようにする。それゆえ、人権尊重なしの国民主権はありえず、両者はワンセットである。
 だが歴史の現実を見れば、必ずしもその憲法が、権力を制限する鎖の役割を果たしていない場合がある。それは、一応近代国家としての格好をつけるために憲法はつくったのだけれど、その憲法国民主権と人権尊重を軽んじている場合である。国民主権と人権尊重を制限して、国権を野放しにする憲法であれば、ほんらい憲法の名に値しないのであるが、インチキ憲法というものが現実にはあるから取り上げざるを得ない。こういうインチキ憲法であれば、共和制であろうと君主制であろうと合法的に専制政治全体主義政治)が行なわれることになる。戦前の日本は専制的でありながら立憲君主制だったので、外見立憲君主制と呼ばれる。わかりやすく言えばインチキ立憲君主制である。明治憲法の手本であるプロイセンビスマルク憲法による立憲君主制が、インチキ立憲君主制だったのである。
 また、「民主主義人民共和国」と看板をかかげ、人民主権を題目として唱える憲法をもっていても(第4条)、朝鮮民主主義共和国のように現実には専制政治が行なわれている場合もある。私はこれをインチキ立憲共和制と呼びたい。というわけで、歴史の中に現実にあった体制を考えてみると、次の五つになる。

 a.専制君主制・・・・・・17世紀ヨーロッパ列強諸国
 b.名目立憲君主制(内実専制君主制)・・・ビスマルク時代のプロイセン明治憲法下の日本。自民改憲案。
 c.名目立憲共和制(内実専制共和制)・・・ナチスドイツ、中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国など。
 d.立憲君主制・・・現代イングランド、ベルギー、北欧諸国など。日本国憲法
 e.立憲共和制・・・アメリカ、現代のドイツ連邦共和国など。 


 実際に民主的、つまり、民意が政治に反映される体制は、立憲君主制と立憲共和制である。立憲共和制のばあい、大統領に象徴機能と実務機能を兼務させる米国やフランス第五共和政のようなタイプと、大統領に象徴機能を持たせ、実務機能は首相に持たせる現代ドイツ型がある。また大統領が実務・象徴を兼務していても、米国には首相はいないが、第五共和政フランスには首相がいるという違いがある。いずれにせよ、君主制であれ共和制であれ、その制度が実際に民主的に機能するための条件は、憲法において人権尊重と三権分立の二大原理だと思われる。
 日本の現状の体制についてはどう考えるか?国際的には日本は立憲君主制国とされている。立法・行政・司法の三権いずれも持っていない天皇は君主ではないという主張もあるが、そうすると天皇とは何なのかという難問が生じる。
 自民党改憲案(2012年4月27日)は、国民主権はことばでは言っているけれど(前文、1、15条)、基本的人権に「公益と公の秩序」(=国の考え方・都合)で制限を加えようとするものであるので(11、13、21、29条)、立憲君主制からインチキ立憲君主制に近づけることを意図しているものと見なせよう。

☆自民改憲案の問題点(その7)
  http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20121214/p1
☆自民改憲案の問題点(その8)
  http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20121215/p1

5.共和制と君主制の仕組みと長短

(1)仕組み
 実際に、民主的に国家が運営されうる現実の政治体制とは、本物の立憲君主制と、本物の立憲共和制のふたつである。前者では伝統的権威を帯びた君主が国民統合のシンボルとなり、後者は選挙など民主的手続きによる権威を帯びた大統領が国民統合のシンボルとなる。前者の例は、英国や北欧諸国、ベルギー、オランダ、昭和憲法下の日本などであり、後者の例は現代フランス、現代ドイツ、米国などがある。
 立憲君主制の場合、君主は政治的実権を持たないように制限がかけられる。君主は世襲による連続性が保証されているから、政治的実権をもてば専制政治に陥る危険性が大きい。政治的実権は、民主的手続きをもって選ばれた国民の代表によって立法・行政・司法の三権が握る。君主がどの程度これに関与するかは、国によって異なっている。
 立憲共和制の場合、大統領は政治的実権と国民統合のシンボルの両方を兼ねる米国・現代フランスのような場合と、現代ドイツのように大統領は国民統合のシンボルを担当し政治的実権は内閣に分担するという場合がある。前者のばあい、権力が大統領に集中するので、独裁を防止するために大統領を牽制するための装置がとくに大事である。


(2)共和制と君主制のメリットとディメリットを何点か・・・

a.政治に関して・・・君主制のメリットの一つは継続性によるその安定感である。反面ディメリットは時代の変化に応じた自己改革の遅いことである。また、ときおり君主制国粋主義勢力に利用されて専制政治のシンボルに引き戻される危険がある。現在、日本はそういう危険性を抱えている。
 他方、共和制は時代の変化に応じた改革の速さがメリットであるが、急進的で継続性がないので安定感を欠く点がディメリットである。また、民衆煽動術に長けた人物が直接選挙で大統領になると、大衆の人気を背景に自らに権限を集中させて全体主義=独裁政治に走る危険がある。


b.文化に関して・・・君主制は伝統的文化のよりどころとなる。君主が文化勲章を授与するとありがたみがあるのは、その伝統的権威ゆえである。実際のところ、高尚な文化というのは学問にせよ芸術にせよ、お金と暇と身分ある人々の趣味として継承されてきた。高尚な学問と芸術には、お金と暇だけでなく、多大な努力が必要であるが、その多大な努力を支えるのは伝統に根ざすプライドであろう。
 他方、共和制は身分制度を廃しているので、身分的不平等は原則として撤廃されている点がメリットである。米国で奴隷制度・黒人差別はあったのは矛盾だが。反面、高尚な伝統文化のよりどころがない。その文化は伝統派から見ると、バラエティ番組だらけといった下卑た大衆文化になってしまう。


c.王室の人権に関して・・・君主制では王族は基本的人権が相当制約される。思想信条の自由、表現の自由職業選択の自由といった自由権のみならず、平等権・社会権・請求権・参政権も制限されている。英国の王室は結構好き勝手やっているようであるが、日本の皇室はなかなか息苦しそうで、格別、見初められて人生の途中から皇室に入れられてしまったお嫁さんたちは実に気の毒でならない。
 キリスト者としての筆者の思いからすると、明治以降の皇室は国家神道限定といされていることがかわいそうでならない。飛鳥時代以来1100年以上は皇室はむしろ仏教との縁が深かったのだが、明治以降、天皇は国策のために国家神道の現人神に祭り上げられ、戦後、国家神道は一応廃されたものの、皇室はあたかも大昔から神道限定であったかのような扱いを受けている。信仰は自由にさせてあげるべきである。彼らも、神のかたちに造られた人間なのだ。


d.王室の継続性・安定性の問題・・・ヨーロッパの諸王国の王室は親戚・姻戚関係にあるので、断絶しそうになると、人のやり取りをしてなんとか維持してきた。日本の皇室の場合、むかしは一夫一婦制ではなかったので維持されてきたが、現代では一夫一婦制が確立している以上、いずれ維持していくことが困難なときがやってくるであろう。ヨーロッパの王室のように他国の王室と姻戚関係をつくっていくということもあるだろうか。たとえばアジアではブータンカンボジア、マレーシア、タイは王制である。オセアニアにはトンガ王国もある。
 前例がないわけではない。明仁天皇が指摘しているように、『続日本紀延暦8年12月28日条には桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると記されている。アジア・ヨーロッパ・アフリカの王室・皇室との人々のこういう往来が起これば、明治政府が捏造した国家神道の根拠のない純血主義に基づく国粋主義が打破されて、風通しがよくなるだろう。だが、もし将来そういう事態になったら、日本人は鎖国根性(注)で、もう大統領制に移行しようというのかもしれない。


<注>
 日本人の閉鎖性を「島国根性」という呼び名はまちがいだと考えている。江戸幕府による鎖国以前は、古代から大陸とこの列島の住民と文化はけっこう活発に往来していた。東シナ海程度の海は、往来の妨げというよりも、陸路よりもかえって大量の文物の往来を可能にしたのである。したがって、日本人の閉鎖性は島国根性と呼ぶよりも鎖国根性と呼ぶべきだと思う。
 参照:「海はつなぐ」http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100925/p1


6.皇室の伝統とは

 自民党の国会議員西田昌司氏の「主権は国民にはない。日本が長年培った伝統と歴史に主権がある。」という発言が物議を醸している。氏は西部邁と親交があり、保守主義の父エドマンド・バークの信奉者であるそうで、その観点から日本国憲法を批判して、その改正を訴えている。しかし、バークの『フランス革命省察』を読んで、彼の保守主義を日本の長い歴史に適用して筆者なりに考えてみると、西田氏の属する自民改憲草案は「日本が長年培った伝統と歴史」にかなったものとは思えない。ここに少し試しに書いてみる。
 

(1)エドマンド・バーク保守主義
 バーク(Edmund Burke、1729-1797)は『フランス革命省察』において、伝統的慣習を単純なデカルト的な合理主義によって否定・破壊したフランス革命を非難する。その結果、社会は無規範状態に陥って混乱をきわめ、国民会議はでたらめな政治をしている。バークが予見したところでは、フランス革命はさらに混乱をきわめ、多くの人々を苦しめ最後は軍人支配になってしまうということだった。事実、フランス革命は最後はナポレオンによる帝政となってしまい、ヨーロッパ全土に侵略をすることになる。
 バークは一方で、英国に起こった名誉革命(1688−89)を擁護する。名誉革命とは、共和制の後、王政復古で立てられた王ジェームズ2世が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)が英国王に即位したクーデター事件である。これにより「権利の章典」が発布された。
 なぜバークはこれを評価するのか。それは、英国には1215年のマグナ・カルタ以来、国王の権限を領主・臣民が制限するという600年の伝統があり、国王がこの伝統を破ったことに対して起こされたのが名誉革命であるからである。名誉革命はその600年の伝統に基づく本来の王の立場に立ち返らせるための革命であった。
 政治には複雑な要素が絡み合っているから、一部分を見て急激な変化を加えてしまうと、他のところに不具合が生じてかえって多くの人々を苦しめることになる。国家と民族の長年の歴史に培われた伝統にかんがみながら、徐々に修正を加えていくべきだというのが、バークの保守的政治思想である。


 ここからは筆者の感想。革命理論を振りかざす人々はルソー主義にせよマルクス主義にせよ、歴史や伝統に基づく秩序をくつがえして、ゼロからすべてを構築しなおすことをよしとする。そして、じょじょに修正していくという立場を生温い「修正主義」として軽蔑するのである。ルソーの革命思想の淵源にはデカルトの合理主義がある。デカルトは『方法序説』で「犯罪や闘争のもたらす不都合に迫られて、やむをえずおいおいに法律を作ってきた民族は、寄り集まった最初から思慮の深い立法者の憲法を守り通した民族ほど立派に開けて行けぬだろう。」と言っている。
 だが、フランス革命ロシア革命毛沢東革命、ポルポト革命などの急進的革命を観察すると、その結果は周知のごとく、おびただしい自国民の流血である。人権、平等、民主といった価値を非難するバークの保守の思想には違和感を覚えつつも、彼のフランス革命批判には一定の価値があると思われる。格別、急進的革命には独裁と大量粛清と思想統制が必然的にともなって来たことを見ると、「殺してはならない」という第六戒にそむく点で肯定することはできない。また、急進的革命の全体主義は、国家崇拝という偶像崇拝に傾斜している点では、「あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない」という第一戒に抵触しているとも思われる。彼らが軽蔑する漸進的な修正主義こそ聖書的ないのちを重んじる社会改良のありかたではなかろうか。


(2)改憲派の憧れる皇室の伝統とは
 2012年4月27日に出された自民の改憲草案を読むと、改憲派が憧れているのは大日本帝国憲法にあることが一見してわかる。前文には次のようにある。「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」「天皇を戴く」という表現は、どうやら天皇国民主権の上に位置づけられていることを意味するようである。というのは、天皇憲法擁護義務からはずされているからである。日本国憲法では、「第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とあるのを、自民改憲案は「第102条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」と変更している。
 自民改憲案では、文言上「国民主権」という表現が出てくるけれども、国民の基本的人権は「公益及び公の秩序」によって制限されるべきだとされていて、骨抜きにされている。基本的人権尊重と国民主権はワンセットなので、結局、国民主権も内実がなくなっている。
「第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」「第13条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」
 表現の自由も制限される。
「第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
 財産権も制限される。
「第29条 財産権は、保障する。
2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。 
私有財産は、正当な補償の下に、公共のために用いることができる。」
 明治維新後の現人神天皇を主権者とする国家神道体制は、大日本帝国憲法教育勅語そして軍人勅諭を柱としていた。これが西田昌司氏たち改憲派の「日本が長年培った伝統と歴史」である。だが、国家神道体制というのは、王政復古の大号令が1868年、大日本帝国憲法発布が1889年、先の敗戦が1945年であるから、最長に見積もって77年間、憲法制定からは56年間のことにすぎない。人の一生の長さにも満たない、したがって歴史の試練を経ていない現人神天皇国家神道体制が「長い歴史に培われた皇室の伝統」ということには、どうみても無理がある。実際、そういうにわかづくりの現人神天皇を中心とする国家神道体制であったから、数十年で瓦解してしまったのである。


(3)ほんとうの皇室の伝統
*明治より前
 飛鳥・奈良時代から平安時代末まで、天皇は古代世界でしばしば見られる古代の祭司王のひとりであり祭祀権と統治権を持っていた。天皇家の宗教についていえば、飛鳥時代から聖徳太子聖武天皇に代表されるように大陸から輸入された仏教がその中心だったが、仏教絶対というものでもなく神仏習合的なものだった。天皇家の宗教は神仏習合的な仏教であった。
 統治権についていえば、平安時代8世紀末には、すでに、その実権は藤原氏に移って行き、天皇は象徴的立場になっている。さらに鎌倉時代には、統治権は貴族から武士に決定的に移った。鎌倉時代から江戸時代末までおよそ700年間にわたって幕府が統治権を握り、古代の王家であった天皇は祭祀権のみを持ち、律令文化の伝統の体現者として機能してきた。祭祀権というのは、宗教的なものばかりではなく、律令制の伝統的価値に基づく名誉・肩書きを与える権威を意味している。たとえば、信長は右大臣、秀吉は関白太政大臣、家康以下徳川家の棟梁は征夷大将軍という律令制度におけるタイトルを天皇から授与されて、自らに箔をつけている。どの時代にあっても、権力者というものは、富と権力だけでは統治に安定が得られないので、伝統的権威によって箔をつけようとするものなのである。
 簡単すぎるけれど、こうして振り返れば、天皇が平安期に実質的に統治権を離れ、祭祀権のみの象徴的立場になってから江戸時代の終わりまで、実に1000年以上の伝統がある。
 宗教に関して言えば、天皇家の宗教は飛鳥時代以来、仏教中心であって神道に凝り固まってはいない。上野の寛永寺も17世紀以来住職は皇族が務めていた。もっとも神道も排したわけでなく神仏習合的な態度であった。統治権を離れ奈良・平安の律令文化と伝統の体現者という象徴的立場こそ基本的な皇室の伝統である。

    束帯姿の明治帝

    京都御所


明治維新〜敗戦
 明治維新で「王政復古」し、皇室典範大日本帝国憲法発布1889年から敗戦1945年まで、天皇は現人神とされ、祭祀大権・政治大権・軍事大権を持った。その住まいも、塀の向こうに住む「天子さま」ではいけないということで、絶対専制君主らしく巨大な江戸城に移された。天皇の本来の礼装は束帯姿であるのに、プロイセンやロシアの皇帝をまねて、大元帥としての軍服姿を着せられ、白馬に跨らせられた。欧米列強に伍するために強力な中央集権国家を作り上げるために、キリスト教に対抗し、キリスト教のまねをしてにわか作りされた唯一神教型の異形の国家神道を背景としている。
 伊藤博文は、大日本帝国憲法原案で明治21年6月18日、次のように述べている。
「抑歐洲ニ於テハ憲法政治ノ萌芽セル事千餘年、獨リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス、又タ宗教ナル者アリテ之ガ機軸ヲ爲シ、深ク人心ニ滲潤シテ人心之ニ歸一セリ。然ルニ我國ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、(中略)我國ニ在テ機軸トスヘキハ獨リ皇室ニアルノミ。」
http://www.geocities.jp/somohompo/meiken/shiryo.html#m210618a
(そもそも欧州においては憲法政治のが芽生えてから千年余り、ただ人民がこの制度に習熟しているだけでなく、またキリスト教というものがあってその機軸をなしており、深く国民の心にしみこんでいて一致させている。ところが、わが国においては宗教の力がたいへん弱弱しくて、(中略)わが国において機軸とすべきはただ皇室があるだけだ。)
 国家神道は、欧米列強におけるキリスト教の代用として伊藤博文らが考案した国民の精神的機軸としての国家宗教であった。特に平田篤胤復古神道の影響が強い。平田篤胤の構想した神道キリスト教の影響を受けて一神教的で排他的であった。飛鳥時代以来、わが国では神仏習合が普通だったが、国家神道体制の下、神仏分離が図られ、廃仏毀釈運動による破壊が全国の寺院を荒廃させた。国家神道体制の下、大日本帝国憲法(1889、M23)・教育勅語(1890、M24)・軍人勅諭((1882、M15)をもって列島住民は急速に愛国心に染め上げられ、富国強兵政策の駒とされていく。日清戦争後、日本は戦争に次ぐ戦争をして、最終的には先の昭和十五年戦争で一敗地にまみれ、天皇を三大権をもつ現人神とする国家神道体制は瓦解した。明治ににわかつくりされた国家神道体制における現人神天皇のあり方は、本来の伝統とは似てもも似つかないものであり、その存続期間は55年〜80年足らずである。これはエドマンド・バークのいう伝統にはあたらず、むしろ彼が批判の的にする極端な革命思想にあたる。伝統を踏まえない革命思想によっては、安定的な体制をつくることはできず、早晩崩壊するというバークの保守思想の主張は、明治以降の日本の歴史においても実証されたのである。
 なぜ日本の天皇制が1000年以上も存続できたのかといえば、天皇統治権や軍事権から離れ、単に名誉を付与する伝統の象徴だったからにほかならない。先の敗戦のとき、皇統は断絶の危機にあった。今、考えの浅い右寄りの人々は明治の天皇国家体制に憧れて、あの時代に戻したいと言っているわけだが、彼らは皇統を絶やしたくて、ああいうことを言っているのだろうか。そうでなければ、もう少し頭を冷やして考え直したほうがよい。

   軍装の明治帝

   江戸城


日本国憲法下で
 1945年日本国憲法が発布されて、天皇は政治大権・軍事大権を手放し、象徴天皇という伝統に相応しい本来の姿に戻る。祭祀権については、日本を軍国主義に暴走させた危険な国家神道に対処するために、政教分離原則にのっとって皇室祭祀は私事とされた。かつての祭祀権のうち宗教性の強い部分は皇室祭祀とされ、宗教性の少ない国事・栄典授与といった働き残されていると解される。

 
(4)日本国憲法における天皇の位置づけをバークの保守主義的観点からの評価する

 明治維新政府は、平安時代から江戸時代までの統治権を離れた奈良・平安の律令文化と伝統の体現者という象徴天皇の伝統に背いて、軍事・政治・祭祀の大権を手中にした専制君主・現人神・大元帥としての天皇を立てた。これが国家神道体制である。これはバークの批判する不安定な革命的体制である。そして、国は戦争に次ぐ戦争へと暴走して行った。
 現人神天皇のありかたは、欧米列強に対抗するために無理やり作られた国家神道によるものであって、千年にわたる象徴天皇の伝統から逸脱したものであったから、無理があった。近代日本が暴走して軍国化し数十年で破綻してしまったのは、エドマンド・バークの思想からいえば歴史の必然である。
 むしろ今日の国民の統合を象徴し、国事のみを執り行い、栄典を授与するという伝統文化の体現者としての天皇のほうが、よほど天皇の千年の歴史と伝統にかなっていて、安定感がある。国柄にかなった象徴天皇というありかたの安定性は、千年の歴史が証明している。

 日本国憲法政教分離原則(20条)を強く打ち出している点はどうだろうか。政教分離など西洋的なものであって、そんなもので日本の国家神道体制を縛ることがおかしいというふうに自民の改憲派は考えるのであろう。2012年4月27日の自民改憲案は、20条に第3項を加えて政教分離原則を緩めている。これは国家神道体制のキーポイントである靖国神社国家護持に道を開くことを目指していると思われる。

3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 しかし、よく考えれば、この政教分離原則が明確に打ち出されていることは、歴史的に見てまことに賢明なことであり、西洋の歴史的過ちの轍を二度と踏まないために必要なことなのである。以下に説明を試みる。
 政教分離原則はどこから来たのか。ヨーロッパにはキリスト教会が誕生して以来、千数百年にわたる教会と国家のせめぎあいがあった。特に16世紀に宗教改革があった時代、ヨーロッパのあちこちに絶対王政が成立し始めて、国と国とに絶えず緊張関係があった。しかも、当時はどの国も国家宗教のかたちをとっていたために、国と国の争いが即カトリックプロテスタントの戦い、宗教戦争となってしまった。真理の探究のために神学論争がなされることには意義があることだが、それは祈りのうちにあくまでも言論においてなされるべきことであって、決して暴力に訴えるべきではない。ところが、教会が国家と密接に結びついていると、教義の違いが武力と武力の衝突ということになってしまう。こっかの本質は剣の権能にあるからである。その結果、ヨーロッパでは、シュマルカンデン戦争、ユグノー戦争、八十年戦争、三十年戦争で多くの血が流され荒れ果てた。そこで、三十年戦争の終わりにヨーロッパ諸国はウェストファリア条約(1648年)を結び政教分離原則を打ち立てた。
 国家神道は、明治時代初期に急造された国家宗教である。伊藤博文は、列強諸国の精神的機軸はキリスト教にあると見たので、列強と対峙するために皇室を機軸とみなすべきだとして国家神道をつくった。そこには平田神道の影響が大きい。平田篤胤は相当にキリスト教の影響を受けつつ、彼の神道を工夫したので一神教的性格をもっている。伊藤の国家神道は、絶対王政の時代のヨーロッパの国家宗教を模したものであった。その結果、何が起こったか。ちょうどかつてヨーロッパにおいて宗教戦争が起ったのと同じように、国家神道祭政一致原則をもっていわば宗教戦争を惹き起こし、全国で廃仏毀釈運動を展開して仏教寺院を弾圧し、後には諸派神道キリスト教も弾圧していくことになる。さらに、擬似「神の国」の拡大をはかって八紘一宇を理想とするアジアを侵略し、侵略先に神社をつくり現地人たちに神社参拝・天皇遥拝を強制した。
 このように国家神道の出自とふるまいを考えると、国家神道体制の悲惨に対する処方箋として、日本国憲法ウェストファリア条約が歴史の苦い経験から編み出した歴史的な知恵「政教分離原則」を厳格に採用したことは、まことにふさわしいことだった。ウェストファリア条約の「政教分離原則」は絶対王政時代の国家宗教に対処するための解毒剤であったから、それは遅れてやってきた日本の絶対王政の国家宗教に対しても有効であった。


結論

 
 自民改憲派は明治の国家神道体制を伝統と見なして、「日本を取り戻す」と主張している。だが、これはバークの保守主義のまったく的外れな適用である。わずか数十年で瓦解した近代国家神道体制の天皇は、千年におよぶ象徴天皇の伝統から逸脱した革命主義の異形の天皇像だからである。だから自民改憲案では「日本を取り戻す」ことにはならず、日本を失うことになる。そして、多くの民を苦しめ、他国にも迷惑をかけることになるだろう。
 他方、むしろ日本国憲法における象徴天皇の位置づけは、1000年余の歴史に培われた伝統的な天皇像である。しかも、日本国憲法には、政教分離原則というヨーロッパ史の悲惨な宗教戦争の経験から得た知恵を、異形の明治の国家神道体制に対する適切な解毒剤として加えられている。このようなわけで、日本国憲法における象徴天皇の位置づけがむしろ長い歴史と伝統の知恵にかなった本来のものである。
 聖書は君主制、共和制のいずれが正しい政治形態であるとは教えない。教えることは、第一にどのような政治形態であっても神のしもべであるからその権威を尊重すべきことと、第二にこの世の権力はときに悪魔の手下となり軍国主義全体主義化することがあるから警戒せよということである。だから、天皇を象徴から再び主権者に変え、さらに、現人神とするような動きがもしあるとするならば警戒すべきである。また、国民の人権を制限する動きにも警戒すべきである。というのは、人権を制限しようとするのは国権の拡張つまり全体主義化を意味しているからである。
 だが、もう一方で天皇制を打倒し共和制にしさえすれば、理想社会が来るかのような危うい夢を抱くことも避けるべきである。伝統的権威を欠いた共和制には、不安定・無規範化の危険という弱点があり、独裁制全体主義に傾き、革命の大義の名の下に多くの犠牲者をだしやすい性向があることは、フランス革命ロシア革命毛沢東革命、ポルポト革命という歴史が証明している。
 しかし、実際の話、将来、皇統が絶えて、共和制に移行せざるをえない日が来る可能性は高い。一夫一婦制が確立している今日、女性の天皇を認めないという状況を見ていると、皇統は遠からず途絶える可能性が相当にある。そうしたとき、われわれは頭を冷やして権力が独裁化して犠牲者を出さぬように工夫しつつ、注意深く共和制に移行する備えをしておくことが必要だろう。


<追記1>
 ヨーロッパでは諸国の王族が結婚したり、王として迎えることによって、王統が絶えることがないようにしてきた。英国では名誉革命の際、オランダからオレンジ公ウィリアム夫妻を迎えて王とした。一夫一婦制を前提として日本で天皇制を維持することを望むならば、外国の王族との交流をするのが理にかなっている。「脱亜入欧」でなく、ブータン王国からお姫様を迎えるとか、トンガ王国から王子様を迎えるとかすれば、くだらない排外主義は消え失せ、我が国民は心広くなるだろう。前例はある。2001年12月18日、記者会見において、明仁天皇が翌年のワールドカップ日韓共催に関して、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」と発言されたたとおりである。

<追記2>
 明治の思想家木下尚江は「皇門を解放せよ。帝王と其家族とを救ひ出せ。而して彼等に平民の自由を与えよ。」と言った。明治維新から敗戦までの国家神道体制における天皇制と異なり、象徴天皇制が長年の伝統につながる装置ではあるとは言いながら、皇族が基本的人権を厳しく制限されている現実がある。戦後の日本は「基本的人権の尊重」を基本的価値観としていることを思うならば、その象徴たる存在が基本的人権を制限されているのは矛盾である。皇族に基本的人権を保障してこそ、真に象徴たりえよう。・・・理屈ではそうだが、とてもムズカシイ。そもそも血統に基づくということが、人権論と矛盾する。