苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

歴史は繰り返し、かつ、歴史は繰り返さない

 「聖書を眼鏡として原発問題を読む」という話を、東京基督教大学大学の教職セミナーでしてきました。福音主義神学会では時間があまりなかったのですが、今回はすこし丁寧にお話できました。以下は、その冒頭に話した「方法」に関することです。

「そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」マタイ13:52

1.宮村武夫師はもののたとえの名手である。師は聖書を眼鏡にたとえて言われた。「眼鏡の研究をするのはいいけれど、眼鏡の研究ばかりして眼鏡を使用しないならどうでしょう。もし眼鏡がものをしゃべることができたならきっとこういうでしょう。『私ばかり見ていないで、私を用いて世界を見てくださいよ。』と。聖書は眼鏡です。聖書の研究はもちろんたいせつですが、聖書で神と人と世界とを見ることが必要です。」と。そういうわけで、原発問題を聖書という眼鏡をかけて見てみたい。
 原発問題は、人間の罪性・科学・技術・経済・国家権力などさまざまな側面を含んでいる。今回は聖書、特に創世記1章から11章をアウトラインとして、原発問題について考えてみたい。

 ところで、「聖書を眼鏡として原発問題を読む」とはどういう意味か?聖書に原発のことが直接書いてあるというのか。むろん、そうではない。万物の創造主である神は、我々に聖書を「信仰と生活の唯一絶対の基準」としておあたえになった。「信仰と生活」という表現は、パウロ書簡であるローマ書、ガラテヤ書などに見られる、<まず教理、次に、倫理>という順序にならったものと解される。聖書はたましいに救いを与えるのみならず、我々がいかに生活の全領域において神の栄光をあらわすかについて教える、神のことばである。生活の全領域という中には科学・技術・国家権力といったことも含まれているゆえ、原発もまた原理的にその射程内にはいっている。「基準(物差=カノーン)」ということばを用いて表現すれば、聖書という物差を原発に当てて、これを測ることができると言っているのである。

2.「歴史は繰り返し、かつ、歴史は繰り返さない」
 では、他の聖書の箇所でなく、特に創世記1章から11章を眼鏡として採用する理由はなにか。創世記1章から9章には、万物と人類の創造、人類の堕落、神の救いの約束、堕落の後の二種類の人類の歩み、そして最後の審判としての大洪水にいたるまでの歴史が凝縮されて記されている。人類の歴史は一度始まり、一度は終わったのである。今、我々が生きている歴史はいわば二度目の歴史である。
 また、10章、11章には再出発後の人類の最初の出来事としてバベルの塔の事件が記されている。「歴史は繰り返す」。だから、創世記1〜11章を見るならば、神の前での人類の歩みの論点が明瞭である。・・・これが創世記1章から11章を眼鏡とする理由である。
 ギリシャ的な時間観は円環であるといわれる。円の上には特定点がないように、時間のなかに起ることになにも新しいことはない。ここに歴史意識は生まれない。
 一方、聖書的な時間観は、一面始まりがあり終わりがある線分である。線分上の点はすべて特定点であるから、時のなかに起ることすべては特定の出来事であって繰り返しはない。一般には、さればこそ、そこに歴史意識が生じるといわれる。
 しかし、よくよく考えるとそうではない。歴史を学ぶことの意義は過去に起った出来事を教訓として、今日を知り、明日の歴史形成に役立てることであろう。もし、過去が現在と似ても似つかぬものであれば、それを教訓とすること自体、不可能である。実際には、過去の出来事と今日の出来事に類似性があるからこそ、そこに教訓を得ることができる。
 だが、もし時がギリシャ的な円環にすぎないとしたら、まったく同じことの繰り返しが生じることは避けられないことになる。時が円環であれば、過去に犯したのとまったく同じ過ちが必然的に明日起きることになる。過去を教訓とすることはできない。
 聖書的な時間には、たしかに始まりがあり終わりがある。だが、もう一つの側面は、「繰り返す」ということである。それは神が天体の円運動に時の管理を委ねられたからである(創世記1:14,15)。だから、私たちは新しい朝を迎えると、「今日こそやり直すぞ」と思い、新年を迎えると「今年こそ」と決意を新たにすることが許されている。つまり、時には創造から終末に向かう線分という側面と、円環という側面がある。すなわち、聖書的な時間観とは螺旋的なのである。
 創世記1章から9章における創造から終末にいたる一度目の歴史、そして、10章、11章の再出発に学ぶのは、そういうわけである。

☆本論はこちら
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20121113/p2


 今朝、書斎の窓から望む八ヶ岳