苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

信仰と希望と愛

外なる人は衰え
 筆者は五十代半ばにさしかかって、体調の変化を感じている。朝はやたらと早く目が覚める、体温調節がうまく行かずときどき汗びっしょりで目覚める、坂道で息切れする、それから物忘れ。医者に診てもらうとからだの変化の時期なのだそうである。使徒パウロも五十代半ば、からだの変化を感じていたのだろう、次のようなことを言っている。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(第二コリント4:16) 
 「外なる人の衰え」とは、髪が減り、肌にしわが寄り、坂道で動悸がし、耳が遠くなり、目がかすみ、忘れっぽくなり、気力が衰えるといった肉体と魂の働きの衰えを意味している。人はこうした「外なる人」の衰えを防止したりごまかしたりするために、化粧品を変えたり、ジムに通ったり、水泳をしたり、計算ドリルをしたり、食べ物を工夫したりする。けれども、誰しも老いには勝ち目はない。だから心細い。


信仰によって内なる人を
 けれどもパウロは「私たちは勇気を失いません」と宣言することができた。それは「内なる人は日々新たにされている」からである。「内なる人」とは何だろう?「内なる人」とは、聖書で、「霊(プネウマ)」と呼ばれる人間のもっとも深い部分である。多くの人は、この「内なる人」を忘れて、「外なる人」のことばかりに気を遣っている。あなたはどうだろう。だが、この「内なる人」こそ神が、聖霊を与えてくださるところなのであり、最重要なのだ。
 「内なる人」が日々新たにされていく生活をスタートするために必要なことは、この「内なる人」に聖霊を宿すことである。聖霊は私たちに神とともに生きるいのちを与え、日々私たちを新しくしてくださる。
では聖霊を宿すにはどうすればよいか。主キリストは「求めなさい。そうすれば、与えられます。・・・天の父が、求める人たちに、聖霊をくださらないことがありましょう。」とおっしゃった。求め方は「ごめんなさい」と「ありがとうございます」の二言である。ひとりになって、次のように声に出して、目を閉じて、話せば良い。
「天の父よ。私はあなたのことを無視して自分かってに生活をしてきました。ごめんなさい。でも、あなたがくださったイエス・キリスト様をありがとうございます。聖霊をください。」こうして、あなたも信仰によって聖霊をいただくことができる。


希望に生きる
 聖霊は私たちが天国を相続することの手打である。神はとりあえず手打ちを払って、後日、たしかに全額払いますよという保証をしてくださったのである。天の父は、後日かならず天国に入れてあげますよという保証としてイエス・キリストを信じる者に聖霊をくださる。だから、この世でのイエスを信じて聖霊を受けた生活は、天国の前味の生活である。つぎのような聖歌がある。

「かなしみつきざる憂き世にありても
 日々主とあゆめば御国の心地す
 ハレルヤ 罪とが消されしわが身は
  いずくにありても御国の心地す」


 パウロはさらにおもしろいことを言っている。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。」(2コリント5:1-3)
 幕屋とはテントのことである。私たちがこの世で生活するために用いているこの「外なる人」はテントである。二・三日キャンプに出かけてテントに住まうのは楽しいだろうが、一年、二年、三年・・・ずっとテント生活をしたらどうか。防水が弱くなったり、あちこちに破れができて、雨漏りがし、北風が吹き込んだりする。心細くなるにちがいない。
 けれども、もしそのテントを貸してくれている親切な人が、「君、もしテントがぼろくなったら、今度は、立派な本建築を用意してあるから、心配はいらないよ。」と約束していてくれたらどうだろう。テントがだんだんぼろくなってくるのが楽しみではないか。今、神様は私たちそれぞれに「外なる人」を貸してくださっているが、「君の肉体が衰え、記憶力や気力も衰えてきた時には、天国にはちゃんと君のために、立派な本建築のすまいを用意してあるよ。」とおっしゃる。
 キリストを信じて聖霊を受けた人には、こんな希望があるから、「たとえ外なる人が衰えても、私たちは勇気を失いません」といえるわけである。キリストを信じる人生は、最期まで希望に満ちている。「外なる人」を去るとき、つまり、死の向こうにはすばらしい天の御国が待っているからである。


愛に生きる
 パウロは続ける。「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」人は死後、さばきを受ける。罪の報いに関してはキリストを信じる者は、キリストが身代わりに罪の報いを受けてくださったので天国に入れられ、キリストを無視した者は自分の罪の報いを受けるためゲヘナに落ちる。
 善行の報いはどうか。キリストのもとに持参することのできるものは、富でも社会的地位でも名誉でもない。自分の欲のためにこの世で得たものは、すべてこの世に置いてゆかねばならない。最後のさばきの日、キリストのもとに持って行ける価値あるものとは、私たちが神を愛し隣人を愛するがゆえに、失ったものなのである。
 信仰によって聖霊をいただき、天国で主にお目にかかる日のことを思い描きながら、神と隣人への愛に生きて行きたい。
「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。」(第一コリント13:13)