苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

のがれの町

「わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、 あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。
人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。たとい、血の復讐をする者がその者を追って来ても、殺人者をその手に渡してはならない。彼は知らずに隣人を打ち殺したのであって、以前からその人を憎んでいたのではないからである。
その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」ヨシュア記20:2-6

*「目には目、いのちにはいのち」と、裁きの原則は公平さにある。だが、「のがれの町」には、意図的な殺人は、過失致死と区別されるべきことが示されている。意図的殺人のばあいは、死刑が適用されたが、過失致死のばあい「のがれの町」にいわば軟禁されることをもってよしとされた。死という結果だけでなく、動機もまた問われた。
 人を殺そうと周到な計画をたてて現場にでかけたが、たまたま相手が不在だったので、実行し損ねた。そういうばあい、人間のさばきではまったく無罪である。しかし、神の前では有罪。
・・・・うわべだけでなく、内面をも問われる神。
 


*「のがれの町」の生活に飽きて、それを窮屈と感じ、その城壁の外へふらふらと散歩に出かけたとき、その機をうかがっていた「血の復讐者」に討たれてもなにも文句はいえない。
・・・わがたましいよ、主イエスの十字架の下からけっして迷い出てはいけない。

十字架のもとぞ いとやすけき
神の義と愛の あえるところ
嵐吹くときの 巌のかげ
荒野の中なる わが隠れ家   

   
             賛美歌262、新聖歌230