苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

きよめということについてメモ


 聖化、あるいは、きよめということについて、大学生のとき聖書における「きよめ」という語句を網羅的に研究したり、いくつかの神学書を読んだり、罪を犯すたびにがっくりとして、きよめを求めて祈ったりした。
 そのうち、「きよめ」ということは、「きよめ」というワードスタディで捉えられる狭い事柄ではなく、義とされた後の、キリスト者としての成長・成熟全体をさすのだということがわかるようになった。「御霊の実を結ぶ」とか、「毀損された神のかたちの回復」「キリストに似た者とされる」ということである。だが、なおその「きよめ」は抽象的なものにとどまっていた。
 広瀬薫師と幾度かの対話のなかで、彼は賀川豊彦を引用しながら、キリスト者の生き方を「贖罪的な生き方」と表現した。キリストの生涯は私たちを贖うための生涯であられたのだから、私たちがキリストの弟子として生きてゆくということは、贖罪的な生き方を選び取っていくことにほかならない、と。「キリストが私たちの罪をわたしには関係ないとはおっしゃらずに担ってくださったように、キリスト者は人が落としたゴミを自分には関係ないと言わないで、進んで拾う生き方をするのだ」と。
 「キリストにならって生きる」ということばは、トマス・ア・ケンピスの著書とされる『イミタチオ・クリスチ』に代表されるように、キリスト者の敬虔の典型的表現のひとつである。ところが、どうも私の心の中にはひっかかるものがあった。振り返ってみると、キリストは、我々にとって模範であるのか、それとも、贖い主であるのかという理解の問題である。それは、我々の罪の自覚によって違ってくるという。原罪を否定するペラギウス主義者にとってはキリストは模範であり、他方、全的堕落を認める改革的信仰者は、自分は「キリストにならう」ことなどできないと認めているのだから、キリストは贖い主なのである。両者の中間に位置する半ペラギウス(半アウグスティヌス)主義者であるカトリックにとっては、キリストは贖い主であり、かつ、模範である、と。・・・こんな趣旨であったと記憶する。このきわめてすっきりとした神学的論理が、私に「キリストにならう」生き方への警戒心を与えていた。ただ記憶をたどって書いているので、これは岡田氏の記述から外れているかもしれないが、ともかくそういう記憶がわたしをひき留めていた。
 だが、聖書には贖い主であるキリストと、模範としてのキリストの両方が記されていることは紛れもない事実である。たとえば、

 

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ペテロの手紙第一2章21節から24節。

 単純にいえば、義認においては人間の全的堕落と神からの百パーセントの恩寵。聖化においては、キリストの贖罪の歩みが模範である。そして、キリストを模範としての歩みは、あたかも自力であるかのように自らを打ちたたいて従って行くものであるが(1コリント9:27)、振り返ってみると、実はキリストがすでに捕らえてくださっているからなのだ、つまり恩寵だったのだとわかる(ピリピ3:12)。こう理解すればよいのではないか。<すでにキリストを信じキリストの義を贈与として受けているキリスト者は、恵みの中で、キリストを模範として自らを打ちたたくようにして従う。>
 こうしたことが、具体的に迫って来たのは、広瀬牧師の「ごみひろい」のことばに加えて、内藤新吾牧師の著書の末尾のことばによってである。内藤新吾牧師はルーテル派の教職である。

「主イエスは、悪のくびきを折り、虐げられた者を解放された。また貧しき者とともに生き、人々の痛みを負い、病を癒された。主は私たちを弟子として、この世に遣わされる。私たちは決して主と同じようにはできないが、主に愛され命をもって贖われた感謝から、できる限り主の願いに応える者でありたい。」


追記
 本棚の奥から岡田稔『キリスト者』を見つけ出した。『イミタチオ・クリスチ』を批判していたのは、そこに異教的禁欲思想の影響で神秘主義的理解が入ってきていることに関してであった。もう一つ岡田が批判するのはリベラリズムにおいて、神の子・贖い主でなく、道徳の教師イエスの模倣をするのがキリストの弟子だとしている点。
 救済論における、恩寵主義、自力主義、半ペラギウス主義という三つの類型と三種のキリスト論を述べていたのは、A.A.Hodge,Outlines of Theologyである。