苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストこそ義

  10月7日説教「義に飢え渇く」の備えのなかで、「義とはなにか」と、ずいぶん考えさせられた。金曜日午前には9割がたできたと思っていた説教を、土曜日午後になって釈義から考え直すという最近は滅多にないことを強いられた。
 山上の祝福における「義に飢え渇く者は幸いです。」の「義」ということばを、ローマ書の文脈における、「罪人を義と宣言する(赦す)神の義」という意味に読む人もいるが、ここ山上の説教の文脈のなかで、それを読み取るのは無理があるように思う。
 このあと、山上の説教では、第八番目の祝福として「義のために迫害される」と語られ、次に「パリサイ人律法学者の義と、主イエスの弟子の義」、そして「神の国とその義をまず第一に求めなさい」という話が展開してくる。つまり、キリストの弟子としての生き方における「義」が山上の説教における「義」なのである。ローマ書におけるそれとはちがう。


 にもかかわらず、興味深いことに気がついた。「義はキリストである」と理解するならば、山上の説教の文脈でも、ローマ書の文脈でも通じるのである。

「キリストに飢え渇く者は幸いである。」マタイ5:6
「キリストのために迫害される者は幸いである。」マタイ5:10
神の国とキリストを第一に求めなさい。」マタイ6:33
「なぜなら、福音のうちにはキリストが啓示されていて、キリストは、信仰に始まり信仰に進ませる・・・」ローマ1:17
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、キリストが啓示されました。」ローマ3:21

 キリストは罪人を義と宣言する(赦す)お方であり、かつ、世に神の公義を実現するお方であるから。

「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」1コリント1:30